原爆の日、組の勤労奉仕の当番で母が行く事になっていましたがその日に替わってほしいと云われる人がいて、その人は三篠橋のらんかんに自転車ごとつっこんで亡くなられていたそうです。その為私達は家の下敷で焼け死ぬる所を母に助けられ、現在八一才迄生きていられる人間の運命におどろきと感謝で一ぱいです。父は九月一三日になくなりましたが顔や体にむらさきのはんてんがたくさん出て毒を吸ったのだと思います。学徒動員の生徒が橋の上でずらっと並んで亡くなっていたり、やけどもした赤ちゃんの顔や手がうんでうじがわいたり、家の横の竹やぶに毎日トラックで死体を運んで来て焼いていましたが、こわいともくさいとも思わなかった事や兵隊さんが川に浮いていたり地ごくを味わいました。一ことでは云へません、私は体調が悪くこれだけ書けてまんぞくです。後は他の人におまかせします。
有難う御座居ました。
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