●家族について
被爆当時、私は二十四歳で広島市役所の用度課庶務係へ勤務していました。家は比治山本町にあり、父(六十歳)は木工所を経営し、母(四十六歳)はその手伝いをしていました。工場では兵器廠で使う弾薬の箱を作っていましたので、私も市役所から帰ると箱への墨入れを手伝っていました。子どもの時は、近くにあった電信第二連隊の前を通って尋常小学校へ通い、比治山橋より皆実町寄りには広島文理科大学のボート部があって、ボートが逆さにつってあったのを覚えています。
私は五男二女の一番上で、家は広く、家族九人のにぎやかな家庭でした。
しかし、戦争が始まると、T(長男)は兵役で中国の広東省に行き、宇品を出てちょうど百日目、十八歳の時に広東陸軍病院で亡くなりました。S(次男)とY(三男)は予科練に行き、次男は岡崎航空隊に、三男は鹿児島の知覧にあった鹿児島特攻隊十三期生に配属されていました。
ですから、被爆当時家族で残っていたのは、両親と私、H(四男)とM(五男)、K(妹)の六人でした。四男は山陽中学校から動員されて、府中町の民間軍需工場へ家から通い、五男は皆実国民学校の六年生でした。
●八月六日の様子
原爆が落ちる前、タンスの上にあったラジオで警戒警報が解除になったのを聞き、みんな安心していました。当日、休みをもらっていたので、私は外に出て工場のまわりを掃除していました。その時、突然ぴかっと光りました。それは何とも言えない、紫とも青とも黒とも言えない光でした。もう何が何かわからず、私の姿を見つけたアメリカ兵が私をねらったと思いました。
私はちょうど建物の陰になりやけどをせずにすみましたが、家の中はグチャグチャになっていました。どうやって行ったかわからないのですが、時計の下にいた妹と一緒に玄関の方に向いました。すると顔を血まみれにした母がおりましたので、手を引っ張って助け出し、一緒に逃げました。母を見ると、隣のがれきが落ちてきて当たったらしく、ドロドロの鮮血が頭から流れていました。私は母の手をとり一目散に電車道に出ましたが、あたりはまだ薄暗くて、人の顔がはっきり見えなかったと思います。
電車道では多くの人が建物の下敷きになって、「助けて、助けて」と言っているのが聞こえました。でも、助けることもできず、ただ、「あ、お米屋のおばさん」「あ、あれは美容院のおばさん」と思いながら、母の手を引っ張って逃げました。うしろを見ますと、幼い子どもが二人とも裸で手をつないで「おかあちゃん、おかあちゃん」と泣き叫んでおりました。妹もうしろをついて来ましたが、いつの間にか分からなくなりました。比治山神社の前を通り、大正橋を渡って大洲へ逃げようと思ったのですが、欄干が落ちており、これは渡れないと思って電車道を的場の方に行くと、こちらはワアッと火が回っていました。
それから、どのようにして行ったのか覚えていませんが、広島駅に着きました。その日の午前中のことですが、駅は焼けており、石炭がポロリポロリ燃えていました。
その後すぐ、ありがたいことに一台のバスに同乗させてもらい、青崎国民学校まで行きました。
その日、皆、黒い雨が降ったと言いますが、私たちは黒い雨を見ていません。その夜はどうやって過ごしたかは覚えておりません。
翌日、青崎国民学校では十分な治療も受けられないので、矢野にある友達の家に行くことにしました。表へ出たらちょうど避難者を運ぶ馬車が通りましたのでそれに乗せてもらい、友人宅に向かいました。途中、矢野の国民学校があり、みんなが中に入って行くので、私と母もそうしました。被爆者が二階の教室までたくさん横になっていました。
母は大けがをしていましたが、逃げるときに「S(次男)とY(三男)が予科練へ行っている。SとYが帰るまでは死ねない」と叫んで頑張りました。矢野の学校の廊下で初めて軍医さんに治療してもらい、「よく生きていたね」と言われました。当時は薬品もなく、赤チンをつけるぐらいしか治療方法がなかったので、母もピンセットでコンクリートのかけらを取ってもらい、赤チンを流し込んでもらっていました。私ははだしだったので足の裏へガラスがいっぱい刺さっていましたが、ほかに外傷はありませんでした。
そこから、矢野の町をちょっと上ったところにある友達の家へ行き、そこでお世話になりました。友人宅は農家で、いつもお米やおしょうゆ、芋などを作って、牛を引っ張っては家に持って来てくださっていました。
●他の家族の様子
その日、父は建物疎開の手伝いに行くため早目に家を出て、兄(伯父)と一緒に荷物を運ぶ馬車を待っている時に被爆し、家の下敷きになったそうです。父は無我夢中で、明かりがちょっとさしている方へがれきをしりぞけて、はい出ましたが、その時左手の皮膚をむくような大けがをしたようです。
建物疎開作業に出ていたいとこは、荷物を運ぶ馬車がなかなか来ないので赤ん坊を背負って馬車を呼びに行き、ちょうど八丁堀の福屋百貨店辺りで被爆しました。電車が丸焼けになって、背負っていた一歳の長男が亡くなりました。いとこは縮景園の方へ向いて逃げ、工兵隊(中国軍管区工兵補充隊)の兵隊さんに向こうの岸まで渡してもらい、ゲートルを解いて帯をつくってもらったと話してくれました。その後、いとこは髪の毛が抜け丸坊主になって、歯茎が紫になり血がいっぱい出る状態で私の家(バラック)へ来て、何日か過ごしました。
四男は家から府中町の民間軍需工場に通っており、すでに家を出ており無事でした。
私は五男を捜すために友人のおかあさんにおむすびを二つ作ってもらい、それを持って防空頭巾をかぶり海田方面を捜して歩きました。被爆者は公民館やお寺に収容されていましたから、そこにいる人に「六年生ぐらいの男の子が死んではいませんか」と聞いたり、死体にかぶせてあるわらを取って確認したりして探しました。五男は私が縫ったシャツを着て学校へ行っているから、その白いシャツを目当てにしました。当時はどんな状況でも怖いと思いませんでした。
比治山に戻ってからも五男を捜して歩き、たまたま海田の方で鉄道局へ出ている人と、ぱったり出会いました。誰を捜しているのかと言いますので、M(五男)がいないと言うと、東洋工業で見たと言います。東洋工業といっても広いのによくわかったものだと思いながら、東洋工業へ行ってみると、廊下にウジまみれになった五男がいました。口は豚のような格好で真っ黒に焼けて、私が縫った服の柄で五男とわかりました。そこの人がバタンコのようなもので、比治山の家の裏にある防空壕まで運んでくださいました。
もう一人のいとこは広島市役所の税務課に勤務していましたが、比治山橋で行方不明になり、二十二歳で亡くなりました。
●救援活動
まだがれきがぽろりぽろりぽろりと燃えていましたので、被爆後二、三日たった頃でしょうか。五男を捜している時、拡声器から「けがをしていない者は市役所へ集合してください」という声が聞こえてきたのです。これは行かなければいけないと思って市役所へ行き、中庭へ集合しました。
市役所には他県からトラックの兵隊さんがいっぱい来ており、私はそれに乗って、むすびを一つずつ配ってまわりました。「頼むから、もう一つちょうだい」と言われても、後の人のむすびが無くなるのであげることができませんでした。私もそのおむすびを食べたのでしょうが、まったく覚えていません。街の中では人間も馬も焼かれ、寺町の方では半焼けの死体がいっぱいあり、とても臭くてたまりませんでした。
兵隊さんと被服支廠へも行き、そこにあった兵隊さんの服を配給しました。子どもも大人も女も皆兵隊さんの服をもらったのです。また、己斐の山の方に、ネルなどの軍の軍需品がありましたので、そういうものも兵隊さんと取りに行き、切って配給しました。
市役所の建物の内部は吹っ飛んでしまっており、地下へおりると赤ちゃんが飲む粉ミルクが真っ黒焦げになっているのを見ました。その頃の市役所男性職員は召集がかかり戦地へ出ていましたので、残っているのは監視員をしていた警察を退職した方などでした。
私だけでなく元気だった四男も救援活動に参加しました。私たちきょうだいは名前すらわからない犠牲者の皆様を、数え切れないほど穴を掘り、火をつけて骨とし、手を合わせたのです。
●被爆後の暮らし
母は大けがをしていたので、私は母を祇園にある祖母のところへ連れて行きました。そこには大阪の空襲で焼夷弾によって焼け出された母の姉も行っていました。祖母が毎朝早く母のために祇園のY整形外科へ順番をとりに行き、母は傷を縫いもせずに治し、その後九十四歳まで生きました。
父も手をけがしていましたが、何とか切断せずに済みました。やはりY整形外科で治してもらい、八十四歳で亡くなっております。
私たちは工場の裏手にある比治山を掘った防空壕で生活しましたが、九月になると台風が来て電車道まで川の水が流れ込み、防空壕の中も水がわいてきたことがあります。我が家で被爆した器を平和記念資料館へたくさん提供しています。
終戦になると知覧に配属されていた三男は司令官の命令により飛行機を操縦して一番乗りで吉島へ帰ってきました。飛行機はすぐ処分する旨の言葉通り、着いた翌日、飛行機に火を付けて帰りました。
●被爆後遺症
私は直接被爆しておりますし、兵隊さんと一緒に被服支廠へ行ったり、むすびを配ったり、ネルを取りに行ったりしましたので、九月の終わり頃には熱が四十度ぐらい出ました。それで本川町の救護所へ行ったのですが、熱が高かったものですから、あなたは岡山の病院へ行かないと治らないと言われました。岡山の病院へ行くといっても旅費はありませんでしたので、仁保か丹那の耳鼻科を教えてもらって治療しました。母と十メートルぐらい行っては休み、また行っては休みといった調子で通院しました。ずい分通いましたが、きつかったことを覚えています。
そのような状況なので、父がもう市役所へ勤めてはいけないと言うものですから、役所をやめました。母は高血圧でいつも頭が痛いと言っていましたが、最近は同じように私も高血圧を患っています。時々実家へ行きますが、お昼ご飯を食べたら頭が痛いと横になっています。一昨年、不整脈が出ましたので県立広島病院に行き、現在、ペースメーカーを入れています。
●平和への願い
先日、家族と江田島にある術科学校、呉の大和ミュージアムと旧呉鎮守府庁舎の三施設を見学させてもらいました。今、こうして平和があるのは、多くの人々の犠牲の上にあるということを忘れてはいけません。
戦争をおとぎ話のようにしてはいけないと思います。今の若い人たちにも、遺品を見たり体験記を読んだりしてもらいたいのです。身内に戦争に遭った人がおられない方も、是非、この三つの施設だけは見ていただきたいと思います。
テレビやラジオで見聞きしますと、世界の各地で戦争や内戦があります。私はかわいそうでなりません。原爆や水爆のない、また戦争がない平和な世界が来ることを願っています。もう二度と戦争をしてはいけません。 合掌 |