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忘れられない地獄 
桂 澄子(かつら すみこ) 
性別 女性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2012年 
被爆場所 広島電鉄(株)的場町停留所(広島市的場町[現:広島市南区的場町一丁目]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 広島文理科大学 生物学科 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●私の被爆体験

私は長い間、自分の被爆体験について話をすることを避けてきました。それは、私が被爆していると人に知られることで、子どもたちの結婚に差し障りがあるのではないかと心配したからです。親が被爆していると、身体の不自由な子どもができるという風評もありました。肺がんになったときも、私や子どものことを知る人のいない東京へ行って、手術を受けました。

被爆体験は、人に聞かせて楽しい話ではありません。あのときの光景を思い出すことはとてもつらく、話そうとすると涙があふれて言葉に詰まってしまいます。しかし私も86歳になり、話すことで何かの役に立てるのではないかと思うようになりました。いま、私の体験を伝えておきたいと思います。

●被爆前の生活

私は当時19歳、広島文理科大学生物学科の植物学教室で、下斗米教授の助手をしていました。文理科大学は今の広島大学です。家は広島市己斐町(現在の広島市西区)にあり、両親と冨士見町(現在の広島市中区)に嫁いだ姉、2人の弟がいました。我が家は野菜などの苗を作る仕事をしており、私も女学校を卒業後、家の仕事と関係のある植物学教室の助手になりました。当時は、仕事に就いていない者は強制的に徴用され、工場などで働かされたので、それから逃れるという意味もありました。植物学教室では除虫菊の研究の手伝いをし、温室で菊を育てることや、教室の鍵の管理なども私の仕事でした。鍵は普段から、財布に入れて大切に持ち歩いていました。

当時は食糧事情が悪かったのですが、うちは野菜を作っていたので、食べ物に不自由したことはあまりありません。父から聞いた話では、野菜のいらない葉を捨てようとしたとき、「それをくれませんか」と言ってきた人がいたので、「持って帰りなさい」と言うと、その人は泣いて喜んだそうです。教授の奥さんに赤ちゃんが生まれたとき、炊いたイモの茎を学校へ持って行って、とても喜ばれたこともありました。

●8月6日

8月6日、その日は仕事が休みでした。私は、友達の家が建物疎開の対象となったので、手伝いをするために己斐から路面電車に乗って出かけました。友達の家は、的場町(現在の広島市南区)の停留所から比治山線で2つ目くらいの場所だったと思います。私は乗換えのため、的場町で電車を降りました。そこで比治山線の電車を待っていると、飛行機の音が聞こえました。その朝は空襲の警戒警報が出ていましたが、既に解除になっていたので、私は不思議に思いました。そして、ふと時間が気になり、腕時計を確認しようと顔を伏せた瞬間でした。

私は爆風で、立っていた場所から吹き飛ばされました。気が付くと、顔の左側がヒリヒリと痛み、目が開けられません。そのとき私の顔は、左目のあたりから頬にかけて、やけどで表皮がずるむけになっていたのです。足も二、三か所切って、血が出ていました。どのくらいの間気を失っていたのか分かりませんが、辺りは砂ぼこりが立ち込め、煙の中にいるようでした。あちらこちらから火の手が上がり、子どもが泣きながら「お母さん」と呼ぶ声や、「助けて!」という叫び声が聞こえていました。皆逃げる場所を探して、右往左往しています。そんな混乱の中で、私は教室の鍵を持っていることを思い出し、鍵を開けに大学へ行かなければならないと思いました。そのことばかりを考えて、友達の家へ行くことは忘れてしまっていました。

私は火災の中を、大学のある東千田町(現在の広島市中区)を目指して歩きはじめました。しかし、周りの人に「そっちはもう火の海になっています。行かれませんよ」と言われて、途方に暮れてしまいました。気が付けば後ろの方からも火が出ています。大学へ行かなければと思いますが、そちらへは進めないし、顔のやけどがひどく痛みました。ロウソクの火にちょっと触っても熱いでしょう。あのやけどの熱さは、もうただ「熱い」と表現できるようなものではありませんでした。

いつの間にか、私は人の波に流されるように、他の人たちが逃げていく方へ歩いていました。逃げていく人たちは、顔が焼けて唇がめくれ上がり、目は腫れて開かないようでした。両手を幽霊のように体の前に出して歩いていましたが、その手も焼け、皮膚が長く垂れ下がっています。皆着ているものもボロボロで、やけどのために人相が変わり、誰が誰なのか分かりません。「助けて」と言われても、どうしてあげることもできませんでした。「あなたは誰ですか」と聞いても、口の中が焼けただれているので、途中で声が消えてしまいました。あの光景と、水を求める人々の「水、水、水、水」という声は、今でも目を閉じると浮かんできます。それはまさに、地獄でした。

どこをどう歩いたのか、私は人の後について大正橋を渡り、広島駅の近くに来ていました。駅の前は広かったので、たくさんの人が避難しており、そこで偶然、知り合いの寺尾さんと出会いました。彼女は己斐の人ですが、安芸郡中山村(現在の広島市東区)に知人がいて、そこは火事になっていないだろうから一緒に行こうと誘ってくれました。中山村へ向かう途中、東練兵場を通りかかると、薬を持った男性がいました。私はやけどが痛むので、「油と薬はないですか」と言うと、その人は、手のひらに油を一、二滴垂らしてくれました。やけどをしたら油やしょう油、野菜をつけたらいいというのが頭にあったので、私はお礼を言って、もらった油を顔のやけどに塗りました。中山村の寺尾さんの知人の家では、ジャガイモをすったものや、キュウリを切って私のやけどにつけてくれました。そこで休ませてもらい、お手洗いを借りたとき鏡を見ると、自分の顔が腫れ上がっていたので、私はとてもショックを受けました。

夕方近くなって、私たちは中山村から線路伝いに、自宅のある己斐に帰りました。普通の道はガレキや炎に塞がれていて、とても通ることができません。線路も、枕木が燃えていたので、火のついていないところを選んで歩きました。当時の枕木は防腐処理の油がつけてあり、乾燥しています。そこへ火の粉が飛んできて、燃え広がっていました。火を飛び越えなければならない場所もありましたが、途中で一緒になった広島県立広島第二中学校の生徒さんが、手を引っ張ってくれました。川に架かる鉄橋を渡ったとき、下を見ると、川の中は死んだ人で埋め尽くされ、水面が見えないほどでした。そこで溺れて亡くなった人もいたと思います。

己斐の家に帰り着いたのは、夜7時頃だったでしょうか。家ではなかなか帰ってこない私を心配した父が「どうして澄子を行かせたのか」と、母を怒鳴っていたそうです。「澄子帰りました!」と言って家に入ると、私の顔を見た母は「大事な娘がお岩になった」と言って泣き出しました。やけどで腫れた私の顔が、母には四谷怪談に出てくる『お岩さん』のように見えたのでしょう。家にはちょうど、姉夫婦が冨士見町から疎開してきていました。軍隊に召集され、15日に入隊する予定だった姉の夫は薬剤師で、すぐに私のやけどにチンク油を塗って、手当てをしてくれました。

●自宅が救護所に

当時の我が家は割と大きな家で、私は家に帰ればゆっくり休むことができると思っていました。しかし帰宅したときには、既に20人くらいの人が避難してきていました。皆やけどを負って、部屋や廊下に横たわっており、姉の夫が、天花粉に油を混ぜたものを身体につけるなど、手当てをしていました。母も手当てのためのキュウリを刻んだり、おかゆを炊いて寝ている人たちの口に入れてあげたりと看病をしましたが、何人かは亡くなりました。やけどがただれたところへハエがたかり、ウジがわいていたことを覚えています。家が救護所のようになっていたため、宇品町(現在の広島市南区)にあった暁部隊の軍医さんが来て治療をしてくれたことがあり、私も一緒に診てもらいました。私はやけどだけでなく疥癬という皮膚病にもなっていて、痛みとひどいかゆみがあり、軍医さんに転地療養がよいと勧められました。

私の家族は、下の弟は学童疎開で家におらず、上の弟は広島県立広島商業学校の生徒で、原爆が落とされたときは学徒動員先の日本製鋼所から、夜勤明けで家に帰ってきたところで無事でした。やけどやけがをしたのは、家族では私だけです。

終戦のとき、玉音放送を聞いて私は狂ったように泣きました。私はやけどをしてこんな痛い思いをしているのに、神風が吹いて日本は絶対勝つとみんな言っていたのに、負け戦だということが悔しくてなりませんでした。

●療養生活

12月頃に、私は軍医さんに勧められたこともあり、温泉地である大分県の別府へ療養に行きました。別府では両親が借りてくれた薬屋さんの離れに泊まり、あまり人にも会わず、お風呂に入りながら過ごしました。食料は両親が運んでくれて、半年くらい別府にいたと思います。私のやけどは、やがて顔に触ると、あかが落ちるように皮膚が剥げるようになり、治っていきました。姉の夫が薬剤師ですぐにチンク油を塗ってくれたことや、両親が大事にしてくれたから早く治ったのだと思います。

●平和への思い

私が子どもの頃、『爆弾三勇士』という、戦場で爆弾を抱えて敵に突っ込んだ兵士の話がありました。それを知ったのが、私にとって戦争の始まりでした。

戦争はいけません。私の年代の人は、学校へ行っても勤労奉仕ばかりでまともな学生生活もできず、束ねたワラをアメリカ兵に見立てて竹やりで突いて殺す練習や、空襲に備えてバケツリレーで火を消す練習をしていました。敵性語と見なされていた英語を使ったために、学校を辞めさせられた人もいました。もう神風が吹いて日本が勝つというような時代ではありません。平和な国にしていかなければならないのです。

私は今でも、両手の皮膚が垂れ下がっていた人を思い出します。思い出したくないことですが、忘れることはできません。人々が春に花見をする川辺のその場所で、虫の息で横たわっていた人、水を求めて、泣いて、死んでいった人がたくさんいたこと知っています。平和になって年月がたち、広島で何があったのかを知る人は少なくなりました。夏が暑く冬が寒いのと同じように、私がこのような人生となったのも、宿命だったのかもしれません。それはもう、語るべきことではないのかもしれませんが、私が話すことで、誰かが分かってくださればいいと思います。

 

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