国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
原爆被爆体験(広島市) 
加藤 和已(かとう かずみ) 
性別 男性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島市立造船工業学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

警戒警報も解け、安心感に皆が雑談に花を咲かせている時、突然周りが黄色っぽいオレンジ色に包まれた、何事かと思う問もなく突き飛ばされた感じで、気がついてみると作業台の下にうつむけに倒れていた。至近距離に爆弾が落ちたものと感じ、さあこれから爆発が始まるぞと覚悟を決め伏せていたものの、その後何も起こらない、のろのろ起き上がって見ると周りはガラス片や、木片、金属片が吹き飛ばされ、雑然と降り注いだ感じで、あちこちからも起き上がる姿が見える、傷を負って血を流している者が多い。

周りを見ると整然と積まれていた机やロッカーがひっくり返ったり壊れたりして工場内全体が海側に向かって吹きつけられた感じで雑然としている。作業台の上を始めそこら中ガラス片や金属片、木片が突き刺さっており、天窓からは時々残ったガラスや窓枠の切れ端が落ちて思い出したように乾いた音をたてていた。

工場は天井が高く爆心地から海に向かって仕切りも無い構造の為、爆風は天窓、窓、内部の物共々吹き飛ばし吹き抜けたと思われる、ただ作業台は頑丈な上、作り付けになっていた為、飛ばされる事無く下は安全であったと思われる。

すぐ近くの測侯所の記録によると、爆風は爆発後約一〇秒で到達したとのこと、秒速二〇〇メートル~二三〇メートルと言う信じ難いものであり、風速四〇メートル乃至五〇メートル以上の台風で樹木は根本から倒れるものもあり、家屋の倒壊も有ると言われている事からも。一瞬の内に全てが倒壊したと考えられる。

また爆発時は太陽の表面温度以上と言われており、爆風による崩壊炎上一瞬前の市街の姿がガスタンクに焼き付けられている事からも市街は爆発と同時に発火、燃えながら倒壊した為下敷きになった人の多くは脱出出来ず死亡したと思われる。

一一時過ぎ、市街は全て無くなっており地上は燃えていて進めない、船で行けるところまで送るから希望者は集まるようにと達しがあり、我々のグループでは比較的元気な四人が乗船。煙の渦巻く両岸のなかを進みこれ以上は無理と住吉橋で下船、見渡す限り焼けこげた瓦礫に覆われた地面から立ち上る煙と、遙か彼方煙に包まれかすんで見える焼け残りのビルがぽつんぽつんと三つくらい見えるだけ、ただやたらと熱く、煙が眼にしみて手ぬぐいが手放せない。真っ直ぐ中心部には熱くて進めないので、回り道になるが橋を渡る、橋の中頃倒れた欄干に二、三の人が蹲っておられる、次の明治橋でも少数の人がうずくまっておられた。それ以外人に会うことは無かった。鷹の橋に出る、下駄を履いていた友人の鼻緒が焼き切れたのでスゲ直す、その間少し煙が少ない様に感じられる海の方向に向く、見慣れた日赤も僅かな痕跡を残すのみ、文理大は跡形もなく一面煙に覆われた瓦礫の原が御幸橋の向こうまで続いていた。

ここから市電の通りに沿って中心街に向かう、煤けてがらんどうになった、市役所の構内を抜けて行く、一中の方で手招きしている人がいるのでそちらに向かう。

校舎とグランドの間の道路に沿った校舎側の厚く長いコンクリート塀が道路側に倒れている。頭や手足に応急の布を巻き、血を滲ませた三人の方が言うには、自分達は運良く這い出したが、下敷きとなって人が沢山亡くなっているが、まだ生きている人が一人いる、助け出したいので手を貸してくれとのこと、呼びかけ、耳を近づけるとかすかなうなり声が聞こえる、全員隙間に手を掛けて持ち上げようとしたがびくともしない。何か梃子になる物でもと探したが、なかなか見つからず、ようやくまだ熱い焼け残りの棒を見つけ差し込んで力を入れたところ折れてしまった、その上、下敷きになっている人からか細い声で、動かすと痛いのでやめてくれと言われ、途方にくれているうち、君らはもう帰りなさい、途中助けを呼んで欲しいと言われ、友達ともバラバラに分かれ各自目的の方向へと向かった。

白神社の焼け跡を行く、大きな木の片側が真っ黒に焼け火の粉が時々こぼれ落ちている。少し行ったところで一人の中年の男性に会う、元気そうな人に会うのは初めてだ、一中でのことを話し協力をお願いする、とにかく行ってみるとのこと。お寺が多く寺町と呼ばれた辺り、塀も伽藍も無く墓石は地面に転がっている、中はあまり熱くないのでほっとする、一基のふた抱えも有りそうな丸い基石と台座との間に石片が入り傾いているのが妙に目立つ、上の部分は無い。消防署も焼け落ち、消防車が二台並んだまま焼けている、人影は無い。煤にまみれがらんどうとなっているビル福屋の隣にあった伯父の店は瓦礫が散らばっているだけ。

八丁堀から電車道りを白島に向かう。いつも見えていた広島城の天守閣も無く、瓦礫の原の中にぽつりと焼け爛れた電車が残っていた。白島の市電ホームそば、やや広い道路にあるバス停では、数人が並んだまま亡くなっていて、表情も分かり難いくらい黒く焦げ、着衣は焼けてボロボロになり体の一部に付着しているだけで裸の状態である、今までも途中彼方此方で焼け爛れ真っ黒になっている死骸は見てきたが、一列に並んだまま亡くなられている姿には衝撃を受けた。

少し進むと道幅がやや狭くなる、この辺りは三軒くらいの寺が固まって在った処であるが、瓦礫が散らばり道を覆っている上、少々暗くなりかけてきたせいか方向が分かり辛い。見慣れた門柱の様な気がしたので、よく見ると何時も使う食器の欠けらが散らばっていたので、我が家の跡である事が分かった。庭の防空壕を見る、焼けてすごく焦げ臭く使える状態ではない。水道の蛇口から水がポタリポタリと落ちているのを見ると、急にのどの渇きを覚え手のひらにためて飲んだ。横になるため少しましなところをと片付けていたところ、若い男女の方が近づき一緒に野宿しても良いかと尋ねられる、聞けば五日市の方に行くとのこと、女の人は腕をつり、足も痛めているらしく足を引いている、男性は頭を手拭いか何かで縛っていたが血がにじんでいた。水を見ると大急ぎでそちらに行った。

薄暗い中、隣の方からこっちを窺うようにしていた人から声が掛かる、隣のおばさんだった、近くの河原に近所の方もいらっしゃるので行きましょうと誘ってくださった、二人に一緒に行きませんかと声を掛けたが、疲れているのでここで休みたいとのことだった。防空壕に何か役立つものは無いかとご近所の方と見に来たのだそうだ。暗くなった河原には彼方此方に散らばって横になっている人が多く見られる。近所の方は四、五人まとまっておられた。「良かった良かった」と喜んで下さった。父は頭を怪我していた様だが元気そうで、知人を送って行くと言っておられたと知らせて下さった、とりあえず安心。

平らな処に横になろうとしたが、ふらふらと歩き何かに躓くとパタンと倒れそのまま起き上がらなくなる人がかなりあるので、斜面に移る、対岸を見ると赤く小さく丸いものがぼんやり沢山燃えている、まるで人魂のようにも見えたが、近所の人の話で炭屋さんの倉庫が燃えていることを知らされ納得。

夜が更けるに従い彼方此方から聞こえてくるうなり声が気になる、地の底から湧き出る様な痛々しくい重く苦痛に満ちた声は今も耳から離れない、重々しい食用蛙の声を聞くと瞬時にそのときのやりきれない思いに引き込まれてしまう。

被災時の様子を聞く、天井が燃えながら落ちてきてお母さんが足を挟まれた、助け出そうとしていると、お母さんからお前はもう行きなさい、このままではお前も焼け死んでしまうと言われた、何とか助けだそうと夢中になっていたところを誰かに引き離されたとかで、興奮して今までずーっと泣いていたが、少し落ち着いた処といわれたお嬢さんの頭髮はちりちりに焼けていた。友人が燃えながら飛んでいったと話す中学生達、皆ここまで来るのが心身の限界を超えて精一杯だった様子であった。

翌朝明るくなり周りを見て激しいショックを受けた。河原一帯、見える範囲内は自分を除き、全ての人が火傷または、怪我で血を流し倒れ伏している。

ここに来た昨夜は暗くてよく分からなかったが、ご近所の方も見ただけでは誰だか分かり難い程、はれたり煙にすすけ、包帯がないため傷口に手近な物を当ててあるのは良い方で、血が黒くびりついている、直接高熟に曝された肌は赤く腫れ上がり、破れて皮がむけ血が滲んでいる、衣類は焼け焦げかろうじて身に付いている感じの人が多い、皆相当な重傷である。瀕死の人の間に亡くなった人が同じように倒れているといった状態。

頭は真っ白になり、ただただ呆然とするばかりで為す術も無く、声を掛けるのがやっといったところ。

近くにいた中学生達五、六人が立ち上がり疲れ切った様子で歩き出した、両腕とも赤く腫れ全体に血が滲み、皮がむけて手のひらの処から垂れ下がっている者、上半身裸で首から背中、ベルトの部分まで火傷を負っている人もいる、全員まるで幽鬼の様な姿でとぼとぼと歩いて行く、居ても立ってもおられず、どこか救護所は無いかと探し回ったが、見渡す限り焼け野が続くのみでテントどころか、机一つ立っていない。やがて中学生達も市街の見える処まできたが、そこで皆へたり込んでしまった。見渡す限り何もなく所々白い煙が上がっている以外何もなく、はるか彼方を極僅かの人の姿が見える状況に気力も果てたと言った様子。水、水とつぶやくような声が上がる、今までも水を欲しがる声はさんざん聞いたが水道は止まり、川岸には様々な物が漂着し、河面を覆い死体らしきものも見え隠れしていて、とても飲める代物ではなく、見て見ぬふりをするしかない。そこを離れ隣のおばさんの処へ行き、父からの伝言に従いとりあえず南観音町にある姉の家に行ってみると話す、気をつけてとはげまされた。

白島バス停の死者の列は昨日のまま。

今日は所々に少数ではあるが人の行き来が遠望できる。欄干も無い相生橋を渡り電車の線路の上を進む、鉄橋では枕木が焼けぶらぶらしている処もあり、やっとの思いで渡った、姉の家は窓という窓はみな壊れ、壁にはひびが入り少々ねじれ、屋根も一部壊れ、焼け跡も見えたが残っていた。緑地が周りに多くといっても大部分は野菜畑になっていたが、庭木をはじめ水分を多量に含んだ樹木が多かったのが良かったのではと祖母は言っていた。父もその翌日包帯を巻いてわいたが無事現れた。

一〇月頃歯茎から出血、高熱が続き意識不明になった、気がつくと医者、両親、姉の家の者が目に入った。原因不明で危篤状態が続いて居たとのこと。

三〇歳代前半高熱が出て黄疸が出る、都立荏原病院に三ヶ月くらい入院。先生は首をかしげながら流行性肝炎と診断。その後も少し無理すると四〇度前後の熱が二、三日出る、診断は過労であろうとのこと。血液検査によると数値の上では癌の可能性も有るとかで胃、腸、前立腺いずれも内視鏡検査ではポリープが有るが精密検査では良性であるとのこと、血糖値が高く腎臓の数値も良くないのでいずれも薬を使用。

被爆当日 一五才中学生 学徒動員中

 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針