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被爆は人生の1ページ 
角原 正次(かどはら しょうじ) 
性別 男性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2009年 
被爆場所 佐伯鋼業㈱(広島市舟入幸町[現:広島市中区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 松本工業学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
昭和二十年、私は両親と二人の妹、そして生まれたばかりの弟の家族六人で、仁保町向洋に住んでいました。

その年の四月、松本工業学校三年生になった私には、自宅と動員先の工場を往復する毎日で勉強をしたという覚えはありません。一、二年生の頃は数学や簿記、そろばんといった授業もまだ行われていましたが、戦局の悪化に伴い次第に勉強どころではなくなり、工場の事務所で、引率の先生から簡単な授業を受けるだけの学生生活へと変わっていきました。

十五歳という遊びたい盛りの私は、勉強しなくても済むことがうれしくて、工場での作業も遊び半分、気楽な毎日を過ごしていました。当時の私には、戦争に対する嫌悪感や思想的な考えなどは全くありませんでした。

松本工業学校の三年生はA組、B組、C組と三つに分かれており、一クラスは三十人くらいだったと思います。A組と私の属するC組の二クラスが、舟入幸町にあった佐伯鋼業に動員されていました。この工場は、以前は佐伯砲弾ポンプ工業所という名前で、水をくみ上げるための手押しポンプの製造では、津田式ポンプと並び、全国でも有名な会社でした。しかし、時世の流れによりそのときは陸軍の船舶部隊が沿岸部で使用する木造船の焼玉エンジンを製造しており、私たち動員学徒は、年配の工員さんの指導を受け、その作業に当たっていました。

弁当を携え自宅を出ると向洋駅から広島駅までは列車に乗り、そこから路面電車に乗り換えて工場へと通いました。当時の弁当は、干した大根を千切りにして水に戻したものを少しのお米と一緒に混ぜて炊いた大根飯ばかりでした。このようにすると大根が目立たないという工夫です。食べ盛りの少年の胃袋を十分に満足させるとは言い難い代物でしたが、とてもわがままの言える時代ではありませんでした。

●原爆投下の朝
毎朝、工場へ着くと私たちは二階建ての建物の一階にある食堂に持参した弁当を置き、担当の場所で作業を開始する決まりでした。いつものように始業前の朝礼が終わり、工場内のモーターが徐々に回転速度を上げ、活気に満ちた一日が始まろうとしていました。

そのときです。突然、グワーンと全身にたたき付けるような衝撃を受け、目の前が一瞬真っ暗になりました。同時に体の右側から白い閃光を浴び、そのまま意識を失ってしまいました。次に意識を取り戻したとき、私は機械の下にうずくまっていました。周りはまるで夜のような暗さで、「ゴーゴー」という音だけが聞こえていました。とにかく、工場内にあった簡易防空壕に避難しようと砂ぼこりの舞う倒壊した建物の中を移動し、壕に入ると既に何人かの友人が逃げ込んでいました。

少し休み元気を取り戻した私は、食堂に置いたままの弁当のことが気になりました。食べ物は何よりも貴重な時代です。自分の弁当を捜すため友人と一緒に外へ出て驚きました。広島が瓦礫の街と化し、遠くまで見渡せるのです。しかし、その驚きよりも弁当の方が気になって弁当を捜していると、食堂の上にある工場の事務所にいたと思われる年配の会社役員の方を偶然発見しました。その方を安全な場所まで運ぶと、喉の渇きを訴えるので、水をもらうため近所の民家に入りました。水を求め二軒の家を当たりましたが、蛇口からは水は出ませんでした。どうしたらよいのか思案に暮れていると、目の前の田んぼに青々と水が張られていることに気がつきました。欠けた茶椀に田んぼの泥水をくみ、役員の方に飲ませると、おいしそうに飲まれました。もちろん、私も飲みましたが、とてもおいしくて、このような水を味わうことは終生ないと思う程でした。

弁当を捜して、あちこち掘りかえしていた私たちは、瓦礫の中に埋もれていた手も見付けました。手の形から事務員の女性だと分かったのですが、触ってみるともはや冷たくなっており、それ以上掘り進めることはしませんでした。そのとき、食堂のおばさんの「痛い、痛い」と助けを求める声が瓦礫の下から聞こえたのですが、チョロチョロと赤い火が出始めており、私たちは見付け出した弁当を持ってその場から逃げるしかありませんでした。おそらく、食堂のおばさんは、そのまま焼かれて亡くなったと思います。

●黒い雨
周辺を見渡しても私たち以外の人影はありません。いつもはにぎやかな街の音が一切消え、異様な静けさの中、炎の赤と稲の緑以外は、白と黒のモノトーンの世界でした。

異常な事態に困惑し、皆でB29の爆弾が原因なのかとも話し合っていたその瞬間、ポツリ、ポツリと大粒の黒い液体が空から降ってきました。私たちは、「油をまいて皆殺しにするアメリカの作戦」だと思い、怖くなりました。ところが黒い液体が、燃え上がり始めた板切れに落ちると、ジューッ、ジューッと音を立て火が消えるのです。それを見て、黒い液体は油ではなく雨だと分かりました。ほんの一時でしたが夕立のように激しく降る黒い雨は、ほこりまみれだった私たちにとって救いの雨となり、生き返った心地さえしました。もちろんそのときは、黒い雨が放射性物質を含む恐ろしい雨だとは知る由もありませんでした。

我に返った私たちは、「ともかく逃げよう、逃げて家に帰ろう」と散り散り別れて家へ戻ることにしました。市内中心部は雨にもかかわらず、燃え上がる赤い炎と真っ黒な噴煙が渦巻いていました。中心部に逃げ道は無いと判断した私は、回り道をして帰る決心をし、まずは南の江波へ向かい、それから東へ向かうことにしました。

●友人との再会
工場を出た私は本川の川沿いを歩いていました。吉島に渡る手前で、県立工業学校に通う向洋出身の友人にばったり出会い、一緒に帰ることにしました。彼は、江波にあった造船所に動員されており、自宅へ戻る途中とのことでした。自分の体がどうなっているのか知りたいのですが、鏡など持っていません。そこでお互いの体を確認し合うことにました。江波で被爆した友人には外傷はありませんでしたが、私は顔の右側をやけどしていると教えられ初めて自分がやけどしていることを知りました。むずがゆさは感じていましたが、やけどをしているとは思いもしませんでした。顔を触ると皮膚がベロッと剝げたので、あわてて手で押さえ元に戻しました。

最初に渡った本川はこのとき、干潮だったので歩いて渡ることができました。しばらく休憩しようと、吉島の広島陸軍飛行場に立ち寄り、持っていた弁当を開けると、蓋をし、布で包んでいたにもかかわらず、中に砂が混じっていたのです。それでもおなかが減っていた私たちは、一つの弁当を二人で分け合って食べることにしました。ジャリジャリと砂の混じったご飯を、口に含んでは砂を吐き出しながら食べました。この友人と現在でも時々会うことがありますが、当時の話をすると必ず「砂混じりの弁当を食うたんよな」とそのことが話題になります。

●自宅までの長い道のり
弁当を食べ終わり再び歩き始めた友人と私は、着ている服はボロボロ、体は真っ黒で声も出さず無言で歩く女学生の一団を目にしました。その一団は、目的があって歩いているのではなく、ただ前の人に付いて歩いているだけのように見えました。声を出す気力さえなかったのか、人の行く方へ連なって歩いているだけの意志の無い奇異な行列でした。

次の元安川は小舟で渡りました。十人くらい乗ることのできる木造の小舟は、上流から流れてきましたが、燃えてはいませんでした。棹で舟を操るのは大変難しいことですが、私は向洋の出身でしたから舟をこぐのはお手のものでした。私が舟をこぎ出すと、見知らぬ人たちが一斉に舟に乗り込んできました。川を渡っていると、背中をやけどしたボラの子どもが泳いでいるのを目撃し、「おお、魚がやけどしとる」と友人と話したのを覚えています。魚の背中は色が変わり、皮が剝げたようになっていましたが、それでも泳いでいました。友人と私は川岸に舟をそのまま乗り捨て、さらに歩き続けました。

逃げる途中に渡った御幸橋では、爆心地に近い北側の欄干は橋の上に倒れ、南側の欄干は川の中に落ちていました。渡り切ると、橋の東側に憲兵や腕章をした兵隊さんが三、四人おりカチ割氷を被災した人たちへ配っていました。田んぼの泥水しか飲んでいなかった私は、氷を口にすると生き返った心地でした。自宅までの長い道のりを何とか帰り着くことができたのは、もらった氷のお陰だと今でも感謝しています。

その後、仁保町大河を経由して、山沿いの小道を渕崎まで歩き、そこから手こぎの渡し舟に乗せてもらい向洋に帰りました。

やっと自宅にたどり着いたのは、夕方の四時か五時くらいだったと思います。自宅に帰って、顔のやけどの手当てに母から油のようなものを塗ってもらうことができました。

●家族の被爆状況
父は船越の日本製鋼所広島製作所に勤務していました。六日は休日で、建物疎開跡に出る廃材を手に入れるため大八車を引いて広島市内中心部へ向かっている途中被爆しましたが、けがはありませんでした。

青崎国民学校に通っていた妹は、学校で被爆しましたが無事自宅へ戻ってきました。

母と学校に上がる前の幼い妹、生まれたばかりの弟は自宅で被爆しました。

母は突然ピカッと光ったことに驚き、気が動転していたのか、妹だけを連れ、弟を置いたまま裏山の横穴式防空壕に避難したそうです。そんな衝撃を受けたにもかかわらず弟は、幌蚊帳の中で泣きもせず寝ていたと聞きました。自宅は扉や障子が壊れ、畳が浮き上がる程の爆風を受けていましたが、三人とも無事でした。夏で風通しを良くするため戸を開け放っており、爆風が通り抜けたのでしょう。お陰で被害が少なかったことは幸いでした。

●被爆後の生活
終戦後、陸軍の施設がそのまま放置されていたので、友人に誘われ何度か役立つものはないかと探しに行ったことがあります。頑丈な軍の施設は崩れてはいませんでしたが、既に皆が持ち去った後なのか何も残されてはいませんでした。広島駅から市内を見渡すと遮るものは無く、遠く宇品まで見通すことができました。しばらくの間、市内は死臭が消えることはありませんでした。

我が家は家庭菜園で芋や大根、野菜を作っており何とか食べるものには困りませんでしたが、主食の米や麦は作っておらず、やはり不自由でした。

学校は秋になって再開されましたが、二クラスになりました。特に八月六日当日、B組は爆心地に近い水主町での建物疎開作業に従事していたため多くの友人が亡くなりました。また、家族が亡くなり引っ越しをする生徒や、戦後の混乱で学校どころではなくなったのか消息不明の生徒もいたりと、さびしい再開でした。

●原爆が残したもの
被爆直後には何ともなかった体でしたが、二、三か月すると腰に痛みを感じるようになりました。当時は新しい治療法だった神経をブロックして痛みを感じさせないようにする手術をする病院を知人から紹介されましたが、手術して三年経過しても寝たきりという患者さんが入院しており、とても手術を受ける気持ちにはなりませんでした。自己療法ですが、腰回りの筋肉を鍛え腰痛を軽くする方法が私にとっては効果的だったと思います。現在は、右足に一部、麻痺が残り、つま先が上がらず歩行時には苦労していますが、寝たきりにはなっていません。

戦後、広島市に大きな水害が起こり、橋の架け替え改修工事のため古い橋を爆破する場面に遭遇したことがありました。ボーンと音がした途端、私は目と耳をふさぐ姿勢を自然と取っていましたが、周囲を見渡しても、誰ひとりそんなポーズを取っておらず何か照れくさい思いをしました。このとき、物が爆発することに対する精神的な後遺症があるのではないかと感じました。

また、列車にはねられ頭と胴体が切り離された死体の頭部だけを見たとき、急に吐き気と恐怖に襲われました。被爆したときにあれ程一度にたくさんの死人やけが人を見たにもかかわらず、ひとつの死にこれだけの衝撃を受けるとは思いませんでした。被爆したことで、私の人生観は大きく変わったのです。

●後世に伝えたいこと
私は、鉄砲を持って敵と向かい合ったことはありません。しかし、それでも「戦争をしてはいけない」と思います。戦争のときは、良識ある発言が封鎖されてしまいます。そのことが怖いのです。日本は再びそんなことにはならないと思いますが、その結果、泣くのは国民です。最近気になっている北朝鮮の現状は、戦時の日本と似ていると思います。日本を反面教師としてほしいのですが、私の思いは届かないのかもしれません。核の保有は、今や対岸の火事ではないのです。

現在の私は白血球の減少などがあり病院との縁は切れない生活ですが、被爆したことは私自身の人生の一ページだと受け止めています。

 

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