原爆投下時にいた場所と状況
広島市宇品町
練習部兵舎前練習場於。
原爆の破裂、見た。吹飛ばされる。閃光、爆風、熱風にて伏したまましばらく草の根にしがみ付く時、非常呼集命により救助に向う。
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
六日午前中心部進入待ての命下り鶴見橋付近、比治山方面、因ノ島、似ノ島と被爆者川より多数救助す。然し皆死亡せり。爆風あり。衣類は薄着にて被爆者見るも無残。焼ただれしあとあり目をそむけるなり。八日九日十日、十二時頃袋町南下中、道路東に入った倒壊せる家の今だくすぶりつつ有る場所に母親のそば一人二人と子供さんが横に一人となんと恐ろしい痛ましいあの日の事、焼け落ちた無残な原爆ドーム北側赤はだかの人、衣服上半身焼けてなし。ドーム西側川辺に残務整理す。と、申しても死体処理で有る。同年兵五名共に聲なく作業す。六時全員隊へ戻る。皆無言である。東京出身兵舘野、高野他一名東京空爆の事力なく語る。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
復員後五年ぐらいブラブラと体がかったるい。気力がピカドンで無気力になったかなと思うこと有り。病は気からと自分に気合を掛けながら働き世帯を持ち子供三人成人し結婚しそれぞれ子供一人二人三人元気に育って居りますが、自分が広島に居たとは一言も云わず大変苦しかったですね。結婚の相手に対し今でも申し訳ないと思って居ります。五十六才の時、脳内出血で入院四ヶ月で退院す。入院五、六ヶ月前ごろ体が軽くなり、これはいいなと思ったら之の仕末です。脳出血による体幹機能障害五級と成って居りますが、やっぱり被爆当時当日の件忘れる事は出来ませんね。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
原子爆弾は絶対にいかんと云っても現在の多くの若い人は原爆て聞いた事は有るけどと聞くのみ。自分は当日の事を話します。長く語らず地獄におちた様だと自分の見た事救助した件など語り二分三分ぐらいにします。被爆体験かきたくないと申される人の気持良く良くわかります。ほんとうに悲しい、寂しっす。恐怖の三点と舟に乗ったつもりで一、二、三の事書きませうよ。亡くなった方の中には後から続く人を信ずで被爆死亡した人も数多くいられるでしょ。自分は東友新聞を拝見し毎月楽しみにし生き方とそして訴えたい事を後世に伝へる事に努力致します。 |