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未来への伝言 被爆の体験と証言 
葛城 初枝(かつらぎ はつえ) 
性別 女性  被爆時年齢 23歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島市古田町古江[現:広島市西区] 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市古田町古江
爆心地より四キロメートルの所の家にいた。

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
私は爆心地から四キロの所の家にいた。朝明るいのに一そう明るくなったので何事が起きたのかと縁側に出てみると、向うの空に赤い火の玉が少しづつ降りて来る。太陽が落ちると思ったしゅん間、ものすごい風がふき、中へ逃げ込んだが気絶した。母の呼ぶ声に気がついたら、室一面ガラスの破片が散り敷き、まわりのふすまには、三角のようなかけらがびっしりくいこんでいて、手では抜けぬ程の固さであつた。私は倒れていたせいか背中をガラスで切っていた。弟は三菱造船に学徒動員で行っていたが三日程家に帰らず心配していたが無事船で帰って来た。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
私は被爆の一ケ月前は平塚で戦災にあい、着のみ着のまま広島の実家に帰り原爆にあいました。食物、日用品、何もかも不足でおまけに水道管が破裂して水も出ず、山の方へ取りに行ったり、ふろは雨水が樋を流れ落ちるのをバケツで受けて汲み入れたり、(幸い当時は俄雨が多かった)塩がなくて海のきれいそうな所(地御前)へ一升びんを持って行き汲んだり、山へ草を取りに行き腹ふくらましに食べる。ウサギと同じ。

雨は降っても傘はなく、雨ぐつ無く、買うにも売ってない。大変な日々でした。母、弟、私皆斑点が毎日場所をかえて出ていた。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
ばかげた戦争はもうまっぴらです。戦争で兵や家族を亡くし、傷イ軍人も内地でのけが人も人生を狂わせました。特に核兵器など一度に大勢の人間を殺すなど絶対に避けねばなりません。あとあとの病気の不安もあります。被爆者は皆年をとりました。健康管理手当など審査なしで是非頂きたいものです。医者の申請の書方一ツでもらえたりもらえなかったり、医者自身がよくわからなかったり…同じ被爆者が不公平です。厚生省の役人さんに是非わかってもらいたいものです。
  

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