原爆投下時にいた場所と状況
広島市宇品町七丁目
直接被爆
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
当時主人(陸軍の仕事に従事)と長男(昭和十八年生まれ)の三人家族で宇品七丁目の御幸通りに面した所に住んでいた。八月六日は町内の勤労奉仕があったが、妊娠中の身体の具合が悪くて休み、自宅で被爆した。ケガやヤケドで逃げた人々の介護をした。
翌日、主人の実家である可部に避難した。長男は頭をガラスでケガをし、ヤケドをして帰って来た妹の腕のウジ虫をとってあげながら世話をした。妹は髪の毛が全部ぬけた。(妹は千田町日赤病院の前で被爆)
家の中に居ました。ガラス、障子の骨が天井、たゝみ、体につきさゝり 子供 自分 血だらけ、ガラスを取るのに大変、家の中に居られないもので家外に出ました。雨が降りはじめ黒い雨が、体がふわふわと浮て足が土につかないで、何かにぶつかりそれを持っていないと、いられません。
その後ガラスのキズ後は「かのう」して、体中「うみ」を持ち医者に行き切ってもらふ次第でした。腹の中には何もないのに黄い水が二三日「はき」ました。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
昭和二十年十二月二日に次男誕生。
昭和二十四、五年に宇品から横川に居を移し、昭和三十二年東京に転居。
十三年位前に心筋梗塞で倒れ、二度くり返したので以後、常に薬を持ち歩き気をつけていた。数年前胆石の手術もした。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
豊島会の総会には毎年楽しみにして出席し、皆さんと話をするのが楽しかった。
援護法の大運動にも数回参加し皆さんのご苦労がわかり少しでも協力出来ればと思っていた。
(平成七年四月三〇日朝、歯医者に通う途中の都バスの中で心臓発作のため急死 胎内被爆者の二男の方から話を伺いました。)
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