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妹たちと生き抜いた 
金田 英子(かねだ えいこ) 
性別 女性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2018年 
被爆場所 広島市楠木町四丁目[現:広島市西区] 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 大蔵省広島地方専売局 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆当時の家族
私の家族は、祖母、父、母、長女で一六歳の私、一四歳の次女・春子、一二歳の長男・峯己、一〇歳の三女・慶子、七歳の四女・清子、四歳の五女・末子の九人で、楠木町四丁目の長屋のような家に住んでいました。それに母のお腹に六女の重子がいました。

●被爆前の生活
私は、大芝国民学校を卒業後、しばらく針工場で働いていましたが、一四歳から皆実町にあった広島地方専売局(たばこの製造工場)の試験に合格し就職しました。

家の周囲は道を広げるため、建物疎開で立ち退きになり、自宅は近々取り壊されて、近所にある別の家に移る予定でした。

●八月六日当日
その頃、私は母から専売局は、軍の施設が多い宇品に近いので危ないから行くなと言われて、八月六日当日は勤めに行きませんでした。家には、祖母、父、母、春子、末子がいました。

父は町内の人と建物疎開の相談をしていましたが、妹の末子がうるさく泣いていたので表に連れて出るよう言われ外に出ました。すると間もなく、何かピカッと光り、瓦などが上の方から落ちてきました。私は危ないと思い末子を連れて家の中に入りました。家がガシャンと崩れ、二人とも下敷きとなって身動きができなくなってしまいました。

「英子!」「英子!」と呼ぶ祖母の声に気付きました。運よくがれきに隙間があったので、末子の手を離さず祖母に手を引っ張ってもらって二人は助かりました。周囲から火の手があがり、隙間がなかったら二人とも焼け死んでいました。
私は、下はもんぺをはき上は長袖の服を着ていたので、体はひじから下のところだけ軽いやけどですみましたが、顔はひどいやけどを負いました。

末子はワンピースを着ていたのですが、顔や胸など全身に大変なやけどを負いました。皮が垂れ下がっていました。

はだしのまま外に出ると、自宅は崩れていました。この家がだめでも次に移る予定の家があると思っていたのですが、その家屋も全焼し崩れていました。

四女・清子は、近所の子に「遊ぼうや」と誘われて遊びに行っていました。私たちが逃げる途中、家の側にあった小百合託児所のところで、清子と一緒に遊びに出た近所の子が、託児所の塀が当たったのか口から血を出して死んでいるのを見付けました。どうしてあげようもありませんでした。清子の姿はありませんでした。

楠木町一帯は全焼でした。私たちは火を避けて北に向かい、大芝の竹やぶへ避難することにしました。

父は「ここの竹やぶで待っとれよ」と言って、清子を捜しに行きました。清子は誰かが安全な所へ連れて行ってくれていたのでしょうか、待っていると大芝国民学校にいた清子を抱いて連れて帰ってきました。帰ってきた清子は顔などにはやけどはないのですが、右足を骨折し太ももから骨が飛び出て血がたらたら流れ、出血多量で顔は真っ白になっていました。

父が「ここに居たらいけん、とにかくどこかに逃げよう」と家族に言いました。私は顔のやけどが痛く、はだしでは地面が熱くて歩けないので、太田川の河川敷を歩いて逃げました。父はずっと清子を抱いて歩き、血は流れっ放しでした。

どこということなしにさまよってずっと歩きました。そうしたらどこかの学校がありました。自宅からはずっと離れた所です。そこにはやけどをした人がいっぱいいました。四、五歳の男の子が泣いていて、そばでその子のお母さんが死にそうなほどのやけどを負っていました。でも、何もしてあげられません。手当をしてくれる医者もいませんでした。

ここにもいられないと思い、またずっと歩いていって安佐郡安村(現在の安佐南区安古市町)に行きました。そこに柱と結構広い屋根と床が張ってあって壁のない建物がありました。建設中の建物です。そこにみんなで逃げ込みしばらく家族九人そこで生活することにしました。

長男・峯己と三女・慶子は、大芝国民学校に通っていました。当時、学校の校舎は軍隊が使用していたため、分散教室である楠木町のお寺へ勉強に行っていて被害に遭いませんでした。やけどや骨折もなかったです。

清子の足にはウジが湧いてきました。父は清子を連れて原爆の被害を受けていない所の医者を受診させました。そこも順番待ちだったそうです。詳しいいきさつは聞いていないのですが、一週間後に帰ってきた時には、清子は右足を失っていたのです。そこにいるみんなが泣きました。父にたずねると、「山に埋めてきた」とだけ語りました。

私と四女末子のやけどはなかなか治りませんでした。母はいわゆる「拝み屋」をやっていてお金を蓄えていました。そのお金で田舎に行ってキュウリなど野菜を買ってきました。そのキュウリがよかったようです。母が潰して、私の顔と腕、末子の全身にぺちゃぺちゃと貼ってくれて、私と末子のやけどは少し良くなりました。

●被爆後
二〇日くらい過ぎ、私のやけどがだいぶ良くなった頃、中広の方にみそ工場があり、母が、みんながあそこでみそを拾っているので、私に拾いに行ってこいと言うのです。二つ下の春子は心臓が悪かったのですが、二人で、電車などなかったので歩いて行って、みそをもらって帰りました。中広まで歩いて向かう間、人を木の上に載せて焼いているのを見ました。人の足がピンと伸びていたことを覚えています。

安村には一か月くらいいました。一緒にいた人がやけどか何かで亡くなり、みんなで泣きました。

自宅のあった楠木町に、焼け残った板で父がバラックを建てたので、みんなでそこに移りました。

ただ、屋根もふいておらず、布団など何もないのですから、冬は隙間風が入りひどいものでした。私のやけどは徐々に治ってきましたが、末子は治らなくて、身重の母に代わって世話をしていましたけれども、この子は死ぬと思っていました。

母は仕事に行けないし、父も仕事がないから収入がないので食べるものもありませんでした。

米はなく、麦やその辺の草をむしって湯がいて食べていました。今のようないいみそはなく、しょう油もありません。祖母、父、母、私、春子、峯己、慶子、清子、末子の九人が食べるものがありませんでした。

そのバラックで母が翌昭和二一年春に、無事女の子(六女・重子)を出産しました。

重子が生まれて収入が必要となり、母が働きにいってくれと言うので、再び、専売局に勤めに行きました。

専売局は頑丈で鉄筋コンクリートの工場なので全く壊れておらず、死人もほとんどいなかったそうです。

末子のやけどはひどく、なかなか治らず、ケロイドとなりました。私のやけどの痕は薄かったのですが、母が女の子なのに顔にやけどしてどうしようかと心配していました。痕は少し残りましたが治りました。

●戦後の家族
春子は、私と一緒で早く結婚し男の子を一人生みましたが、心臓が悪く二十歳で亡くなりました。

片足を失った清子は、今は大阪で暮らしています。働きには行けず、結婚もできませんでした。弟・峯己は先に死にました。

末子は、被爆後、一年くらいして徐々に良くなってきましたが、ひどいケロイドが今も残っています。

私は、専売局に勤めていた一七歳の時、主人と出会い結婚しました。すぐに妊娠し、主人は仕事がないので私が妊娠九か月まで専売局で働きました。

翌年には長女、それから次女、長男(心臓病で二歳で死亡)、次男の四人の子どもが生まれました。

原爆投下の時、主人は、宇品にあった陸軍の食糧や軍馬の餌の保管などをする施設である糧秣支廠で働いていました。主人は全く被害には遭いませんでしたが、姉とその二人の子どもは防空壕に行く途中原爆に遭い亡くなったと話していました。

今年八八歳になった今日まで、原爆の影響なのか胃がんとなり、白内障、糖尿病などの病気にもかかりました。生まれつきの先天性股関節で両足の手術もしています。現在、糖尿病のほか、神経科にも通院しており、一人では病院に行けないので息子に連れて行ってもらっています。

夫も早くに白内障になり、脳腫瘍で七三歳で亡くなりました。

●今の子どもたちへ伝えたい思い
原爆というものを知らなかったので、爆撃があったときは焼夷弾と言っていました。原子爆弾という字を見て「はらこばくだん」と読んでいて、後から「げんしばくだん」と教えられました。

原爆投下後、八月一五日に終戦となり、私は助かると思いました。戦争に負けても嬉しかったです。空襲になったら避難していました。これで逃げ隠れしなくてもいいと思い、本当に嬉しかったです。

子どもたちや若い人たちには私のようなつらい思いはさせたくありません。今後ずっと平和で、戦争だけはしてほしくないと伝えたいです。
  

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