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原爆体験記 
加藤 照明(かとう てるあき) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島地方気象台(広島市江波町[現:広島市中区江波南一丁目]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島地方気象台 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 
広島気象台の周辺の状況

私は当時瀬戸内海に浮ぶ小島の面影を残す、江波山の山頂の東の端にある標高30mに位置する、広島気象台に勤務して居りました。江波山には高射砲中隊があり、山の中腹にはあの有名な江波桜の老木が1本聳えておりました。

広島には原爆投下する迄、爆弾は投下しなかったのか。

広島が最初の空襲の洗礼を受けたのは、昭和20年3月18日でありました。

グラマン戦闘機で海側から低空で侵入し、三菱重工業広島造船所などに機銃掃射をあびせました。また翌19日にも艦載機編隊により、同じ様な小空襲がありました。その後暫らく空襲はなかったが、4月30日になってB29一機が飛来し、高射砲による激しい弾幕の中を悠々と通り抜けて、爆弾10個を市街地に投下して飛び去りました。

この爆弾によって市内で初めて、死者10名の犠牲者がでたと言われております。

8月6日の広島市の状況

8月6日の朝はいつもの朝とさほど変った事はなく、午前7時には既に日射はきつく、市内で徴用された人達と、動員学徒による建物強制疎開作業が開始されておりました。

当日も午前7時9分、ラジオは警戒警報を発令しました。その放送内容は次の通りであります。

「中国管区情報、「敵B29機広島市西北方上空を旋回中」この警戒警報は午前7時31分解除され、「中国管区上空には敵なし」でありました。この時の広島の上空には多少白い雲が浮かんでおりましたが、太陽の輝きは全く雲の存在など無視するかの如く、偉大な威力を示しているかの様な感じでした。私は観測室で予報官が作成された天気図を見て、今日も良い天気だから午後もB29が飛来してくるかなと思ったその時、観測室の窓硝子に一瞬目も眩ような閃光が映え、丁度写真を写す時にマグネシームを燃やす時の様な光景でありました。この時の観測室の時計は8時15分を指示しておりました。何んであらうかと玄関口に出た突端、「ドーン」と言う音声を感じました。この間推定で約3秒~5秒であったと思います。

爆弾が投下されてからの広島市の状況

爆弾が投下されても普通の爆弾ではないと直感し、2階に昇って、広島市一円を展望しました。驚くことに、将棋倒しの如く全壊しているではありませんか、台長室の扇は吹飛されて、庁舎至る所に硝子の破片がささっていました。幸にも台長は出張中であったので難を逃れました。再び眼を転じて市内を見渡と、横川方面から「パット」火の手が上りました。見る見る内に全域が火の海と化し、横川方面から黒い雨が降るのが見えました。

投下後、約20分位と推定されます。巨大な「キノコ」雲が延々と広がりながら上昇して、入道雲と変って行きました。すると間もなく、「お母ちゃん、お姉ちゃん、助けて」と言う叫び声が四方八方で聞えて来ました。火と煙は上昇せず横に這い出しました。また七つの川に飛び込む姿も煙の間から見受けました。また水を頂戴と言うさけび声もあちらこちらで聞こえて来ました。こうして、三日三晩燃盛り広島の街は死の灰と化し、南は江波の小学校付近まで、東は、専売公社附近まで燃続けて来ました。私は、この痛しい惨状は今も忘れる事が出来ず永久に脳裏に残り、特に可愛い幼子が、「お母ちゃん、お姉ちゃん助けて」と叫んで天国に旅立たれました。

21世紀は全世界から核を絶対に取除かなければなりません。恒久平和を築上げなければならないと身を持って体験した私であります。

参考の為二、三、記述して見たいと思います。

8月6日8時15からの気象状況を今少し詳しくみませう
気象専門語で「凪」と言って陸風と海風が静止する意味を現します。これが8時15からの時刻に相当する為、煙も、火も上昇せずして横に這ったと思われます。

爆弾の投下目的地点はどこであったのか、恐らく中国管区司令部(畑俊六元師)であたであろうと思われますが、陸風が少し強かった為に、原爆ドーム南寄りの上空570mの所で、炸裂したものと推定されます。広島気象台の技術主任の北技手は、当初黄色の光が流れて、0.12秒位で紫色に変り、8時16分現には、太陽の熱で0.5秒で赤色の火球に変った、爆心地から江波の気象台迄、3.6㎞あるから、毎秒400m~700mの爆風が来たことになると証言されております。

原子爆弾を投下した米空軍機B29エノラ・ゲイ号の航空日誌(抜粋)

同機がテニアン島で原爆を搭載して、基地を離陸したのは、8月6日午前1時45分(日本時間)であった、爆撃目標地、第一目標地広島、第二目標地小倉、第三目標地、長崎でどこに投下するかは、気象状況によって決められることになっていた。テニアン島から広島までの距離、約2,740㎞であり、B29で片道6時半かかった。午前6時41分四国南方上空を北上中のエノラ・ゲイ号は、先発のB29機が観測した目標都市の、気象状況を無線で受信した。それによると、第一、第三目標は良好、第二目標は不良、午前8時9分エノラ・ゲイ号の視界に広島の街が入って来た、午前8時15分30秒高度9,600mの高度から、目視照準によって投下した。

同機は直ちに急旋回すると、山陰上空へ向った。43秒後、広島上空に閃光が発したのを目撃した。続いて2回衝撃を受け機体がグラリと傾いた、広島上空に巨大な原子雲が立ち昇っていたと言う。

日本の学術調査

現在の原爆ドームの南側よりの上空570mと推定され、炸裂と同時に空中火球が出来た。爆心直下では少なくとも六千度の照射を受けたと推定されると報告されている。
 
 
出典 庄原市山内地区被爆体験記編集委員会編 『葛城 被爆体験記 1号』 庄原市山内地区原爆被害者の会 2002年 27~30頁
 

 
  

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