広島気象台、北勲主任技手(故人)の資料によれば、広島に原爆が投下された数時間後に、放射能を含んだ黒い雨が盛んに降る中を、米軍機が高度200メートル位の低空で旋回して来て、この痛ましい惨状を目撃していたことが、当時の乗員の証言によって明らかにされていると言われております。
当時の乗員は、ニール・フイッツ・パトリシア氏で、空軍大尉、テニアン基地に所属していて、昭和20年8月6日、B29のパイロットとして10人余りの乗員とともに、中国の天津で捕らえられていたアメリカ人捕虜に、救護物資を届けにいき、テニアンに帰る途中、機内のラジオで、原爆が投下されたことを聞き、急遽広島に向かった。
広島到着は、原爆投下約5~7時間後で午後1時~3時ころであったと思われ、当時広島では、黒い雨が激しく降っていたが、高度約200メートルから270メートルで約20分旋回、中心部は跡形もなく、黒い雨が降る有様は気持ちが悪くて寒気を感じるほどであった。また、被爆者の姿を見たが、1人の老婆がとぼとぼ歩いていたのが、今でも心に焼き付いている。
また、原爆投下当日は、米軍が投下4時間前と投下後6時間後までの間、広島への入市は禁じられていた、といわれていた。
このような事は、極一部の人しか知らされていなかったのではないかと私は感じました。
急死を逃れて
昭和20年8月7日午前9時、私は、広島地方気象台の屋上で、風向、風速の観測をしておりました。
ところが、丁度、真下が江波の港で小さな漁船が数隻操業しておりましたが、ふと、気がつくと「パン!パン!」という音が聞こえてきましたが、何がおこったのかと、江波港を見ると、驚くなかれ、「グラマン」(小型戦闘機)が漁船めがけて機関銃を操射していました。漁夫はすばやく船底に入ったのを目撃しました。
すると、また、1機、今度は高度200メートルくらいで、江波の高射砲隊(現在の江波公園)目掛けて飛んできて、私たちの方へ機関銃の砲身を向けました。急いで、室内に入りました。すると、高射砲隊が「ぼんぼん」と攻撃し始めましたので、急に旋回して廿日市方面へ飛び去りました。実に、急死を逃れてほっとしました。
私たちが推測するには、被爆者の生き残った人々を皆殺しにすべく、数機で来たのではないかと感じました。
広島の中心部を跡形もなく焼き尽くした上に、二十数万人という尊い市民の命を奪ったにもかかわらず、こうまで皆殺しにしようとするのかと思うと腹が立ってたまりませんでした。生き残った被爆者は、肉体的にも、精神的にも一生悩み続けて人生に終止符を打たねばなりません。
再び、このような事がないように、即ち、永久に核兵器の廃絶と世界人類の恒久平和の確立を子々孫々に強く伝えていかなければならないと思います。
出典 庄原市山内地区被爆体験記編集委員会編 『葛城 被爆体験記 3号』 庄原市山内地区原爆被害者の会 2004年 47~50頁
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