畠中奎吾 病歴
平成22年
5月24日 食欲がないので島田病院にて点滴をしてもらう。
5月25日 医師会病院 8時受付 検査入院。
6月10日 退院 畠中に帰る 里子泊まる。
15日 医師会病院13時 検査の為通院22日 今日から 畠中で 兄夜一人で寝る。
27日 金子家族たちと 楽しい夕食の食事会。
29日 医師会病院11時30分から検査の為通院予定が畠中に行くと冷蔵庫の横で兄が
倒れていた 金子の兄と二人で起こし綺麗にする。医師会病院へ行き入院
7月 2日 医師会病院から救急車で岩国病院に慢性硬脂下血症 意識障害 すぐに手術。
6日 北病棟から東病棟に移る。
9日 国病から医師会へ転院する。
12日 医師会に把田、河本、出崎、金子が付き添った。
20日 介護認定を受け 市役所の人が医師会へ
21日 今後のことでメープルヒル病院へ行く。
26日 奎吾が外出。14:00~16:30 身体ならしで畠中に帰る。
29日 把田母葬儀に金子兄達が兄を 葬儀に参列させてくれた
8月 2日 兄外出 河本兄達に連れて行ってもらう
4日 医師会病院へ行く
14日 医師会病院から家に帰りたいと23時頃病院に行き連れて帰る
18日 兄外出 畠中集合 誕生会を皆で祝う ケーキ 花束 にぎりずし等で祝う
19日 医師会に10時に行く 医師会へ入院
9月19日 カンさんがお兄さん、お姉さんの見舞いに来てくれる お兄さんだけ家に帰り
平成23年
1月 4日 11時から6日 17時まで兄外泊自宅へ
金子夫婦畠中に泊まりメープルへ
1月21日 金子母さん葬儀 10時から 兄も葬儀に参列する
3月 3日 古吉眼科 目の治療
5月24日 兄定期健康診断うけ大竹会館にて10時~17時まで外出
8月 5日 兄誕生会 寿司 スイカなどでお祝い
平成24年
10月26日 兄被爆者定期健診 玖波公民館 9:30~11:00
11月 8日 メープルの介護の方と医師会病院へ
9日 岩国医療センター入院 青木先生も一緒に来てくれた
12月 7日 メープル転院
21日 メープルから西医療センターへ
平成25年
1月23日 西医療センターインフルエンザ流行
2月 1日 西医療センターからメープルへ
5月 3日 西医療センター入院 骨髄異形成症候群 血小板が通常の人より40/1少ない
脳出血のおそれがある 急性白血病 輸血をする
6月14日 メープルに転院
7月17日 安佐市民病院入院 右眼内炎 視力低下と眼痛
29日 退院 メイプルヒルへ
9月 6日 古吉眼科10/12、26、11/27、12/20、H26・1/17、5/9、6/5、
平成26年
9月 6日 兄自宅へ 皆で食事会
平成27年
8月26日 兄古吉眼科
10月18日 大竹祭り 兄姉達集まる 畠中で食事会 祭りの山車もみて甥の初老神輿も
見れてよかったね 楽しいひと時でしたね。
10月26日 兄有木耳鼻咽喉科に行く
30日 メープル新館から本館の2階に移る
平成28年
2月22日 古吉眼科 眼の血管が詰まっている
3月23日 兄西医療センター 白血球数値不良
4月 8日 西医療センター 山中先生電話
14日 朝トイレで転んで頭を打つ くも膜下になる
15日 西医療センター 山中先生 病状説明を聞く 越水、出崎、把田
18日 司法書士 西岡先生
21日 広島市公証役場 越水、把田、金子、西岡先生、と話し合い。
27日 公証役場成立
5月11日 血圧が低すぎる 話したい事があるので来てほしいと連絡あり輸血を実施しても
血小板も併せて血管内に注入する
20日 医療センター10時30分頃に来てください 今後の事について山中先生より
話されました。
14日 西医療センターからメープルに転院
8月25日 メープル加藤先生から電話 病名 骨髄異形成症候群 これまで輸血を繰り返し
血液が300cc位の時もあったが、出血の病状が変わる事は無かった18,22輸血
かわらず貧血している。骨髄機能が最終的に疲弊しきっている状態である。
26日 市役所で介護保険被保険者証の更新手続をする。
5日 メープルヒル病院 佐藤先生より電話あり12日、13日輸血をしても出血の状態と
心配して電話あり
16日 メープル病院に行く 酸素マスクしている 呼吸しんどそう
20日 肝臓が機能していない尿も殆ど出ていない 輸血15時50分頃400ccする
21日 午後9時12分 メープルヒル病院で往生する
13歳の時被爆し、大竹駅で母親と再会した時、どんなにか母は、嬉しかったことだろうと大竹駅まで大八車を押して、兄の負傷または遺体を乗せて帰る予定が、怪我はしていたが元気なわが子の姿をみて、安心した様だった。
大竹駅から広商に通学する。
中川武、小早川仁、三上健二、新田、一級上日原洋さん達 9人といっしょに学校に行く途中、空襲警報が発令されトンネル内で停車し遅れてしまったので急いで広島駅で降りて、的場町 金山町通り比治山の登り口交番の所で、閃光を受ける。無意識に、目、鼻、耳を両手でふさぐ。一時意識不明になり、気づくと回りはうす暗くなっていた。
比治山に登り全市内を見渡し逃げられる方向を確認する。
西蟹屋町は火災がひどく通れない。広島駅までなんとかたどり着く。
集札口で火傷の手当してもらった火と煙の中を走りぬけ西練兵場まで行くと負傷者が続々集まっていた。
工兵橋まで行った所で川船で対岸に渡してもらい楠木町へ行く。
三滝を通るころから、空が真黒になりアルミ箔ギラギラが無数落ちて来た。己斐川渡ったころから
黒い雨が夕立のように激しく降る。トンネルの中に一時待機した。西日を受け濡れた線路を見ながら大竹をめざしてかえる。逃げる途中、メガネ、片方の靴が無くなる。片足で走って逃げる。大変困難な中よく生きて帰ってくれてありがとう。
帰りは母を、大八車に乗せて、兄が押して嬉しそうに家に帰ったと、聞いています。
被爆の後遺症もあったでしょうか。あまり口にださずに、明るく元気に、過ごしていた様に思います。
1932年(昭和7年)8月5日 生まれ 84年の人生でした。
2016年(平成28年)9月21日 往生。
お兄ちゃん お世話に成りました 私達 姉兄妹は いつまでも いっしょだよ
優しい兄ちゃん 自慢の兄ちゃん
心の中にいつまでも いつまでも残っています。ありがとうございました。
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