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被爆直後のヒロシマを一望 
加藤 照明(かとう てるあき) 
性別 男性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2008年 
被爆場所 広島地方気象台(広島市江波町[現:広島市中区江波南1丁目]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島地方気象台 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 
昭和20年8月6日、わたしは庄原実業高校を卒業して、江波山にある広島気象台に勤務していました。当時、19歳でした。

この日の朝は、7時9分にラジオで「中国管区情報、敵B29機広島市西北方上空を旋回中」と警戒警報が発令されましたが、7時31分には解除されました。わたしは観測室で、予報官が作成した天気図を見て、「今日も良い天気だから、午後もB29がやってくるかな」と思ったその時、観測室の窓ガラスに一瞬目がくらむような閃光が映り、何だろうと観測室の玄関口を出た途端、「ドーン」という爆音が聞こえました。

これは普通の爆弾ではないと直感したわたしは、急いで2階に昇って市内一円を展望しました。すると驚くことに将棋倒しのように全壊しているではありませんか。あまりの惨状に、ぼうぜんと立ちすくんでいると、横川方面からパッと火の手が上がり、見る見るうちに全域が火の海になりました。ちょうどこの時間帯が陸風と海風が静止する「なぎ」で、煙も火も上昇せずに横に這い出しました。市中心部は相当な熱気だったと思います。煙の間から川に飛び込む姿が見えました。よく水を求めて被爆者が川へ飛び込んだと言われますが、それだけではなく、ヤケドの熱さと火災の熱気で熱くてたまらなかったのだと思います。これから三日三晩、広島の街は燃え盛り、死の灰となりました。

庁舎内では、至るところにガラスの破片が飛び散り、職員も数人がケガをしていました。応急手当をして陸軍病院へ連れて行く途中、「助けてくれ、助けてくれ」という叫び声が四方八方で聞こえてきました。また、病院内では、ズルズルのひどいやけどを負った重傷患者であふれ、手の施しようがない状態でした。

この日の夜、気象電報を大阪管区気象台へ報告するため、市中心部へ向かいました。道路脇には死体が散乱していましたが、生きている人の姿はほとんど見かけませんでした。ただ暗闇の中で、うめき声やすすり泣く声が静かに響いていました。結局、この日は火災がひどく、鷹野橋付近から先には行けませんでした。

この痛ましい惨状は63年経った今でも忘れることはできません。特に、かわいい幼子が「お母ちゃん、お姉ちゃん助けてー」と叫んで天国に旅立たれた姿、川から無数の死体を引き上げる姿には心が痛みました。

一夜明け、8月7日の9時ごろ、わたしは気象台の屋上で風向き、風速の観測をしていたところ、「パン!パン!」と小型戦闘機が漁船めがけて機関銃を発射しました。すると、また別の一機が飛んできて、わたしの方へ機関銃の砲身を向けたため、わたしは慌てて室内に逃げ込み、なんとか死を逃れました。広島の中心部を跡形もなく焼き尽くし、何万人という尊い命を奪ったにも関わらず、こうまで皆殺しにするのかと思うと腹が立ってたまりませんでした。

生き残った被爆者は、肉体的にも、精神的にも一生悩み続けて人生に終止符を打たなければなりません。再び、このような事がないように、永久に核兵器の廃絶と世界人類の恒久平和の確立を、子々孫々に強く伝えなければならないと思います。
 
出典 
『広報しょうばら』 庄原市役所 2008年8月 2~3頁
  

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