国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
戦争がもたらすもの 
角 清子(かど きよこ) 
性別 女性  被爆時年齢 20歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2010年 
被爆場所 広島陸軍兵器補給廠(広島市霞町[現:広島市南区霞一丁目]) 
被爆時職業 医療従事者 
被爆時所属 陸軍兵器行政本部広島陸軍兵器補給廠 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私は世羅郡(現在の世羅町)の出身で、昭和十六年に十六歳で広島陸軍病院附属の看護婦学校に入学しました。両親は女学校に進学し勉強してほしかったらしく、入学願書まで入手してくれましたが、私としては白衣の天使に憧れていたこともあり、両親の思いを振り切っての決定でした。

最初の一年半が専門的な講義、残りの半年が実習という二年間の課程を修了した昭和十八年、私は霞町にある広島陸軍兵器補給廠医務課に勤務することになりました。新米の看護婦ということで配属されたこの医務課は、外科、内科、歯科の三部門に分かれており、看護婦はみんな白衣の下に常にもんぺをはいていました。私が配属された内科は二人の軍医と婦長の元に十人くらいの看護婦がおり、私は軍医が研究に使う顕微鏡の準備や宇品港から戦地へ赴く兵隊さんたちの予防接種などをしていました。予防接種は二人に接種すると注射針を交換するというやりかたで、いつも三時間くらいかかったことを覚えています。

兵器補給廠では、帝国陸軍の武器弾薬の集積・補給をはじめ、兵器の生産や輸送も行っていたため、部外秘の場所として扱われているところも多く、カメラ等の持込みは厳禁だったため、出勤時の手荷物検査もとても厳しくされました。

勤め始めて三日目ぐらいに、仕事に慣れないためか黄疸が出ました。そのころはしじみが黄疸によいと言われていたので、婦長さんがわざわざ国泰寺町の家にしじみを持ってきて食べさせてくれました。そのことがとてもありがたかったことを今でも懐かしく思い出します。原爆投下後、ちらっと姿をお見かけしましたが、その後、お目にかかることもなく、今どうしておられるかもわかりません。

食糧は極めて乏しく、油を取るために大豆を搾った後に残る皮やおからをおむすびにしてご飯代わりに食べていました。薄く切った大根が一切れ入り、箸ですくうと後は汁だけというみそ汁を売っている家が近所にあり、そこに食べに行って空腹をしのいでいたような時代です。

昭和二十年六月、その年の十一月から野戦病院に召集がかかることが決まったため、黒の制服をもらい、野戦病院に赴く前の九月には十日間ほど一時休暇で実家に帰ってもよいという許可も出ました。まだ仕事に慣れていなかったので、苦労が多く辞めたいと思ったこともありましたが、それからは、野戦病院での新しい勤務や実家への一時帰宅を楽しみにして仕事をしました。
 
●八月六日
私たち看護婦は警戒警報や空襲警報が発令されるとすぐに出勤することになっていました。八月五日の夜から六日にかけて三回ほど警戒警報、空襲警報が発令され、六日の午前三時半か、四時頃にはみんな既に兵器補給廠に詰めており、誰もがほとんど睡眠を取っていませんでした。

六日、午前八時の点呼が終わり、みんな睡眠不足だったので一時間の休憩を取るように言われました。私は別棟の木造の便所に同僚数名と行き、便所から出た時、ひさしの下からB29が飛んでいるのを見ました。「あれ、警戒警報が解除になっているのに、B29が飛んでいるわ」と思っていると、原子爆弾が落とされたのです。ピカッと光った瞬間は何が起こったのか分からず、最初は焼夷弾が落とされたのかと思っていました。気がつくと、肩から下には大きな材木がおおいかぶさり、材木に打ち付けられたたくさんの釘が体に刺さっていました。私は血だらけになっていましたが、なんとかその場から自力ではい出て脱出することができました。

「洞くつへ退避。退避!」と上官から命令が出たので、助かった者は皆、そばにある比治山の防空壕に避難しました。その途中、守衛小屋の下敷きになっていた守衛さんに「助けて。引っ張り出してくれ」と助けを求められましたが、自分が逃げることで必死でしたので、とても助ける余裕などありませんでした。この時、建物の外でおしゃべりをしていた同僚の看護婦たちは、直に被爆しやけどした者もいたと後に聞きました。

避難した防空壕には一時間もいなかったと思います。出動命令が出たため兵器補給廠に戻りました。戻ってみると、兵器補給廠は罹災者のための臨時救護所として開放され、数百人という患者が敷かれたこもの上に寝かされていました。その時は、やけどの人はまだ少なく、ガラスの破片などによるけが人が多かったと思います。私たちもけがをしていましたが、お互いに治療をし、看護に当たりました。次から次へと運ばれてくる罹災者の治療は一般市民、軍人の区別なく行われました。ガラスの破片が体中至るところに刺さり大けがをした人や全身に大やけどをした人などなどの手当てに当たりました。出動命令から一時間後に外に出てみると、市街は一面火の海と化していました。その夜は比治山の防空壕で仮眠を取りましたが、眠れないので防空壕の入り口から外を見ると、青い火や赤い火で街全体が覆われていました。あれは、死体が焼けているのだと聞きました。
 
●休みなしの救護
次々と運ばれてくる罹災者の看護に明け暮れる日々が続きました。被爆から半日しかたっていないのに、やけどの傷口にはもうウジが二、三匹わいており、あくる日はやけどの傷全体にウジがひしめいているような状況です。このウジを取り除く処置は、やけどとウジで異臭がきつく最初のうちは慣れなくて吐き気を伴いました。慣れてくると、気の毒なという思いで必死で取りました。やけどの傷は、時の経過とともに横に広がり、それに伴ってウジも増えていきます。まず、わいたウジを自分の指でかき分けるように取り除き、小型の容器に入れ、その容器が一杯なったらバケツに移し、衛生兵に渡します。二、三人ごとにウジを取り除いた後、タオルで手を拭き、ハケでやけどの患部に薬を塗ります。やけどの状態がひどいため、患部から出血したり黄色い体液がにじみ出て薬がなかなかつきません。このような手当てをしながら次から次へと歩いて行くのです。その他、やけどの大きさを測り、その記録を取ったり、昼夜、患者をみて回るなどの任務もありました。

兵器補給廠には多い時は何千人という患者が収容されており、看護婦一人が三百人程度の患者を担当しましたが、翌日にはその中の五十人程度が亡くなっているという状態でした。亡くなった人たちを衛生兵が二人一組になり大八車に積んで、付近の広場に掘った穴の中にサーと移して、油らしきものをまいて、荼毘に付していきました。兵器補給廠の救護活動は、そこに収容されていた患者全員がそれぞれほかへ疎開し終わる九月末か十月初めまで続きました。その間、私たち三十人程度いた看護婦は、文字通り話す時間もなく働き詰めでした。

最初の三、四日間は全然食事もとれませんでした。四日目に初めて一口で食べられるほどの小さな玄米のおむすびが一個配られたぐらいでした。飲物もないため、こっそり医療用の蒸留水やブドウ糖のアンプルの中身を飲んで体力、気力を振り絞ったものです。また、着替える物もありませんでした。私たち看護婦は、空襲警報の時には必ず自分の着替えを一着か二着、布製のかばんに入れて出勤していたので、それがあるだけです。防空壕の近くの小さな川で、夜、水で洗うだけの洗濯をして防空壕の中で乾かしていました。家族に送ってもらおうにも、通信、輸送の手段がなかったため、後には病院にあるさらしやガーゼで下着を縫って着用しました。

一週間目ぐらいだったでしょうか、学徒動員で比治山か霞町方面に出た女の子のお母さんが、釜とお米を持ってきて石でかまどを作り、けが人のためにかぼちゃ飯を炊いていました。私はそこに集まるけが人を心配してその方に行った時、そのお母さんが手招きして呼んでくださり、「看護婦さん、これを食べて頑張ってください」と言って、こっそりとかぼちゃ飯を一杯食べさせてくれました。ほとんど食事をとっていない時でしたから、この時のかぼちゃ飯のおいしかったこと。ありがたく泣きながら食べさせてもらいました。その方は、私が忙しくしているのをご存じだったのでしょう。食べ終わると「もう行きなさい」と言ってくださいました。その時、その方のお名前も住所も聞かず、満足にお礼を言うこともできないまま立ち去ってしまったことが今も悔やまれてなりません。今となっては捜しようもありませんので、この場を借りてお礼を言いたいのです。かぼちゃができる夏が来るたびにこの時のことを思い出し、ほんとうはあまりかぼちゃは好きではないのですが、かぼちゃ飯を少し作り、仏前に供えてお礼を言っています。

私は看護婦学校に入学した時、国泰寺町にあった次兄の家に下宿し、兵器補給廠に勤務が決まってからもそこから通いました。ちょうど八月六日の三日ぐらい前に次兄とお嫁さんが疎開したため、その後は、そこで一人で暮らしていました。私は知らなかったのですが、次兄は一人になる私を心配して、疎開する前に兵器補給廠のすぐ近くに住んでいた知人のおばあさんに私の荷物を柳ごうりに入れて預け、できればそこに住まわしてほしいと頼んでくれていました。

しかし、八月六日以降は、国泰寺町の家に帰る時間はまったくありません。次兄が被爆後一週間して兵器補給廠に私を捜しに来た時、おばあさんの家のことを聞いたのですが、休みなく働き続けなければなく、見に行く時間もありませんでした。終戦後、ようやく時間がとれるようになった時に国泰寺町の家に行ってみましたが、国泰寺町は焼け野原で何もありませんでした。おばあさんの家の辺りにも行ってみましたが、家はぺちゃんこになっており、おばあさんの姿はありませんでした。
 
●忘れられない悲しい光景
被爆によるやけどやけがの状況は、どれも目を覆いたくなるほどひどく、六十五年たった今でも悲惨なけが人の様子を思い出すと胸が詰まって悲しみのため涙が出てきます。その中で今でも鮮明に思い出す光景が幾つかあります。

六日のことでした。街だけではなく川も火に包まれていましたが、その川を渡って避難してきた男性がいました。「わしは妻と子どもが一人おったんじゃ。二人を助けにゃいけんと思うて、火がまだ出ていない時に、子どもを頭と首にしがみつかせて、妻の手を引っ張って川を渡ってきた。けど、途中で上がってみたら自分だけ一人じゃった。どこで妻を放したんか、どこで子どもを放したんかわからんかった」と激しく泣きじゃくっていました。どうしてあげることもできず、軍医の指示で精神安定剤を注射してあげたのですが、その後どうされたのか、今でも気にかかります。

また、指が大きく反り返り、手の甲にくっついているような男の子がいました。「お母ちゃんのところへ行く。お母ちゃんのところへ行く」と泣いていたので、「ボク、これをね、お姉ちゃんたちにきれいに治させてくれたら、お母さんを捜しに行こうね」と慰めると、その男の子は「はいっ」と言って、少しも泣かずに治療を受けました。「よほどお母さんに会いたいのだろう」とかわいそうに思いました。しかし、看護婦たちがその子のお母さんを尋ねて歩くわけにもいかず、六日間ほど同僚の看護婦たちと一緒に連れて寝ましたが、その後、疎開先に連れて行かれました。当時六歳でしたから、今、生きていれば七十歳を過ぎています。手がうまく治っているだろうかと、今でも思い出します。

七日になると兵隊さんもたくさん運ばれてきました。ある兵隊さんから「わしには子どもが六人おるけえ。わしが死んだら子どもが生きていかれんけい。わしがいんじゃらにゃ、子どもが生きていかれんけい、看護婦さん、助けてくれ。助けてくれ」と手を合わせて拝まれましたが、私にはどうすることもできません。隣の患者が「おいおい、おいおい」と言って呼んでいるので、「またね」と言って、その時は、その兵隊さんの懇願に十分対応できませんでした。しかし、寝ている間もその兵隊さんのことが気になりました。せめて住所を聞いておこうと思い、次の日、勤務の始まる一時間前にメモ帳を持って行ってみたのですが、既にその兵隊さんは亡くなっていました。せめて前日に住所ぐらい聞いてあげていたら、なぜ名前ぐらい聞いてあげなかったのか、戦争はこんなにも人を苦しめるものなのかと、いつも頭から離れません。

この兵隊さんの三人ほど先に十四歳ぐらいの男子生徒が寝かされていました。その子は「看護婦さん、何で僕らがこんな苦しい目に遭わんといけんのじゃろう。こんな目に遭うくらいなら、敵に降伏してくれたらええのに」と泣き叫んで言いました。当時、このような発言は禁句であり、憲兵隊の耳にでも入ると大変なことになる時代です。私は「お姉ちゃんに言うのはいいけど、憲兵隊の人には言わんのよ」と言うと、「憲兵隊に怒られてもいいから言いたい。どうして戦争をやめないのか」と言いました。その時の様子がかわいそうで、かわいそうで、今、思いだしても涙を抑えることができません。

七日の午後には、学徒動員で被爆した娘さんを捜しているという親御さんが来て、子どもさんの名前を呼んでいました。それを聞いて「お母ちゃん、ここ、私、ここよ」と言う女の子がいましたが、その子は顔中が腫れあがり、人相が変わっているためか、二人は「これは違う。違う。わしの子どもじゃない」と言って、ほかを捜しに行きました。二人が部屋の端まで捜して戻って来た時には、その女の子は既に息を引き取っていました。その女の子の腰のゴムの所だけ残っていたもんぺの柄を見て、「ああ、これは私が縫ってあげたかすりのもんぺじゃ」と言って、その子が自分たちの子どもだったことに気付き、泣き叫んでいました。

私は、もともと内科部門の看護婦でしたが、被爆後の救護には内科も外科も区別なく対応しなければなりません。腕の関節のところから手にかけて大きなガラスが刺さり、切開してガラスの破片を取り除かないと、腕を切断しなければならなくなるという八十歳くらいのおばあさんがいました。このおばあさんは、「我慢します。泣きません。私の父も軍人、夫も息子も軍人、その軍人の妻が泣いてどうなるか」と言って麻酔なしで切開・縫合手術を受けたことを今でもはっきりと覚えています。お国のためにみんなが頑張っていると思えばこそ、我慢できたのではないでしょうか。
 
●不安な健康状態
八月六日の夜から腹痛と激しい下痢に襲われました。看護で疲れており、すぐに寝入ってしまうのですが、翌日、起きてみると背中の辺りがぬれているようなので汗だろうかと思って見てみると、寝ている間に下痢をしていたのです。人に知れると恥ずかしいので、川で洗っていると、同僚の看護婦たちも同じように洗っていました。こんな症状が三日くらい続きました。

一週間後には、顔が茶色くなり、一か月後、身体に斑点が出ました。現在でも皮下に原因不明の小さな斑点が出ます。

また、あの時以来、頻繁に頭痛に悩まされています。被爆直後に負ったけがで一番ひどかったのが首のあたりなのですが、首の軟骨が少しずれていて、髄液が流れにくくなったことが原因のようなのですが、これが原爆と関係があるかどうかは定かでありません。

しかし、出産の時や体調が悪い時などは常に「被爆の影響はないだろうか」とか「原爆のせいではないだろうか」という不安につきまとわれていました。
 
●次世代を担う人々に伝えたいこと
暑い、暑い夏が来るたびに、悲惨な光景とともに、命の大切さ、悲しみ、苦しみ、無念さ、後悔、自責、いとおしさ、感謝の念など、様々な思いが巡ってきます。今の子どもたちに当時の話をしても信じてもらえないでしょう。

戦争があったために、子どもたちは、黒板や紙きれやノートなどはなく、問題などを運動場の地面に書いて勉強しました。覚えるといっても限界があり、書き残して家に帰ってから復習するということもできませんでした。習字は、新聞紙が真っ黒になって何の字かわからなくなるまで書いて練習したものです。

戦争があったために、わずか十四、十五歳ぐらいの子どもたちが勉強したくても勉強できず、動員学徒として原爆の犠牲になりたくさん亡くなられました。今生きていれば、大きな会社を興す人もいれば、新しい産業をひらく人もいて、日本は随分変わっていたでしょうに。

戦争があったために、食べ物もなく、戦時中も皆が我慢して我慢して暮らし、戦後も貧しい生活などの苦労を強いられなければなりませんでした。

あれから六十五年、戦争は人々に苦しみや悲しみ以外何ももたらさないものであるということを、戦争を知らない、これからの時代を担う若い人々に是非知ってもらいたいと心から願っています。 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針