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教師になった元軍国少年の被爆体験 
加藤 久男(かとう ひさお) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2016年 
被爆場所 三菱重工業(株)広島造船所(広島市江波町[現:広島市中区江波沖町] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 修道中学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●家族について
私は当時五年制の中学四年生(昭和四年生まれ)で、修道中学校に通っていました。生まれは安芸郡中野村字山王(現在の広島市安芸区)で、家は兼業農家でした。両親と姉と妹二人、弟、私の七人家族です。

父・加藤義夫(明治三十年生まれ)は、当時、広島鉄道局(広島駅)に勤務していました。母・ウメヨ(明治三十四年生まれ)は、自宅で農業をしていました。姉・ミヨ子(十八歳)は、県庁の林務課に一~二年勤務していて、妹・エミ子は広島女学院高等女学校の二年生でした。もう一人の妹・百合子(昭和十年生まれ)、十歳年下の弟・明之(昭和十四年生まれ)は、中野国民学校へ通っていました。

●被爆前の生活
その頃の私は完全なる軍国少年で、将来は軍人希望でした。昭和十八年に海軍兵学校の物語として出版された『江田島』という本を読みひそかにあこがれていたのです。その本を通して、海軍兵学校の教練や古鷹山登山のことなども知っていました。中学三年生のときに江田島(切串)の作業に動員されて、一週間くらい泊まり込むことがありました。古鷹山が見え、向こうに兵学校があると思うと、もう我慢できなくなって友達何人かと昼休憩のときに登ったのです。山の頂上から真っ白い体操服姿の授業風景が見えました。休憩時間の間に行って帰れると思ったのですが、戻ってみると時間を超えてしまっていました。もうちょっとで停学になるほど叱られました。

その頃、陸軍幼年学校や陸軍士官学校などもあり、どれも難関で、成績もよくないと合格できなかったのですが、中でも一番の難関が江田島にあった海軍兵学校だったのです。

修道中学から進んだ先輩が時々母校を訪れ、一、二年生を集めて講演するといったことも行われていました。大東亜共栄圏を建設するため、東洋平和のためという言葉が盛んに叫ばれた時代でした。

また、当時の中学校は、落第制度があり成績が悪いと進級することができませんでした。試験で六十点以下は赤点といって、落第することになります。全教科の平均が六十点以上あっても、英語か数学が赤点ならば落第です。もう一年同じ学年をくり返さねばならないのです。中間や期末試験には必死で勉強しました。何しろ、一年生のときは真新しい制服を着ているのに、落第した人がいると、着古した制服が目立つので自分に置き換えて考えると、とても恥ずかしいのです。

動員前に通っていた修道中学は広島駅から徒歩で四十五分掛かりましたが、学生で電車に乗って通学できるのは病気をしていて「車」と書かれた一円玉よりちょっと大きいくらいのセルロイドのバッジを制服の胸に縫い付けている人だけでしたので、通常は電車やバスに乗って通学ができませんでした。

当時は制帽制服を必ず着用しなければならず、夏は暑くてたまりませんでしたが、今思えばそのおかげで被爆した際にガラスによる傷が軽くて済んだのではないかと思います。

私は三年生の七月七日から江波の三菱重工業広島造船所に動員されていました。その日はちょうど昭和十二年に盧溝橋事件が起きて、日中戦争が始まったのと同じ日だったので、よく覚えています。造船所には、私の学校の他にも広島文理科大学や、広島高等師範学校、広島商業学校など、いくつもの学校から生徒が動員されていましたが、修道中学からは二百五十人が動員されていました。作業時間は午前七時から午後五時まで。一般の工員と同じです。自宅から中野駅までは徒歩で二十分、午前六時過ぎの列車で二十五分~三十分掛けて広島駅に行き、駅の近くの預かり所に預けてあった父の自転車に乗って、造船所まで通っていました。時間がとても厳しくて、七時過ぎたら正門が閉まって入れなくなります。列車が遅れたら、作業時間に遅刻するので、木戸門というのか、人ひとりくぐれる程度の小さな門から入ることがよくありました。

造船所では、一万トン級の貨物船を建造していました。私は第二船穀穴あけ工という、貨物船の外壁などをつなぐのに鋲でとめるため、鉄板に鋲を入れる穴を開ける仕事をしていました。広い砂場に並べられた台の上に鉄板が置かれ、そこに上がりエアードリルで鉄板に穴を開ける仕事でした。工場の建物の外での仕事なので、夏は鉄板が焼けて熱くてたまらない、冬は海の方から吹いてくる海風が冷たくてたまらない、大変つらい思いをしながら仕事をしていました。

大変つらい仕事でしたが、昼には弁当が出るのが楽しみでした。弁当と言っても、木箱に入った薄茶色の小麦や大豆で、米など入っていません。時々肉が入ってはいますが黒い毛が付いたままの肉や、フカのような白い魚の身を炒ったもので、お粗末な弁当でした。それだけでは足りないので、雑炊が出ました。雑炊といっても今のようなものではなく、オカラを溶かしたようなものを、もうそう竹を切った椀に入れてくれました。遅刻をした場合は、その弁当をもらうために教員室に行き、入った所で大きな声を出して「第何学年何組、誰々、誰々先生に用事があってまいりました」と言わなければなりませんでした。先生が「よし」ということになってから先生の所へ行き、帰りも「第何学年何組、誰々、帰ります」と言ってからでないと教員室から出られないのです。教員室に、他の学校の先生もたくさんいるので、大声で報告するのが恥ずかしくてとても嫌でした。

造船所では、朝鮮半島から徴用された朝鮮人の二十歳前後の若者たちも私たちと同じような仕事をして働いていました。今の広島観音高等学校付近に寮があって、彼らはそこから江波の造船所まで集団で通勤していました。ボロボロの服を着て四列でずらっと並んで歩いている姿を見ると、当時私は子どもだったので事情は分かりませんでしたが、かわいそうに思えてなりませんでした。

●原爆投下
そういう生活をしていた中で、当日の朝もいつもと同じように教室で授業の開始を待っていました。造船所にはバラックで仮校舎が建てられていて、作業の合間に授業があったのです。いくつもの学校の生徒が働いていたので、交代で仮の校舎を利用していました。教壇に向かって右側の窓側から三列目くらいで、前から三番目くらいにいました。

午前八時十五分。オレンジ色の光がメラメラッと何秒か続き、周り全体が赤みがかった色に包まれました。真っ赤でもない、真っ赤に黄色を混ぜたような赤黄色でした。身の回りだけでなく、前も後ろも横も、全体が赤黄色に染まったのです。よく「ピカッと光った」と言う話を聞きますが、私の印象としては、パッと光ってすぐに消えたのではなく、何秒かバァッと光が続いて、メラメラッとした感じだったと思います。

熱線は右側の窓から来たのですが、熱いのではなく「暖かい」感じでした。それが数秒続くのですから、何が起こったのだろうと思って驚きました。江波山の山腹に横穴を掘った防空壕があり、一度避難訓練で入ったことがありましたが、そこが火薬庫になっているといううわさも聞いたことがあったので、そこの火薬が爆発したのかとも思いました。

当時は原爆が投下されたなどとは想像もできませんでした。ただ、マッチ箱くらいの大きさでものすごい破壊力のある爆弾があるようだという話は聞いたことがありました。

光ったあとは、まず本能的に反対方向に逃げ、何列か机と椅子を飛び越えて、机と机の間へ伏せっていました。当時、学校では空襲に備えた避難訓練があり、グラウンド周辺の縦穴の防空壕へ逃げるのです。そんな、普段の訓練が役に立ったのでしょう、私が机と机の間に伏せたあと、爆風が襲ってきたのです。おかげで私は助かりましたが、椅子にそのまま座っていた生徒はガラスで眼の下をえぐられた者もいました。ガラスの窓は、木端微塵に飛び散り天井には穴が開き、バラックの教室は倒れかけましたが、外に置いてあった自転車は爆風を真後ろから受けたせいか、倒れていませんでした。

広島市内に目を向けると、驚いたことに広島駅の辺りまで市内全体が見渡せるのです。今のように高い建物は少なかったとはいえ、木造の建物は皆倒れて、ぺしゃんこになっていました。広島市内全体が平たくなったように感じました。印象的だったのは、街の色です。本当なら屋根瓦の色で、黒っぽく見えるはずの街全体が、黄土色なのです。屋根瓦が爆風でみんな吹っ飛んで、瓦の下の色が全体的な色になったから黄土色に見えたのではと思いました。しばらくして市内のあちらこちらから、白い煙が立ちのぼり始めました。

何より恐ろしかったのは原子雲です。爆心地から四キロメートル以上も離れているのに真上に見えるのです。まるで、竜がだんだん大きくなって迫ってくるように見えました。そして雲からは爆風で巻き上げられた紙片などが落ちてくるのです。そのときの光景と恐怖は今でも忘れることができません。

すぐにでも家に帰りたかったのですが、市内の様子が分かるまではということで工場からすぐには帰れませんでした。午後になってからようやく帰宅許可が出たように思います。その日、昼飯は食べていなかったし時計も無いし、時間が分からないのですが、午後二時か三時頃だったかと思います。普段広島駅から自転車通勤をしている仲間と三人で、一緒に帰ることになりました。幸い三人とも自転車は無事でしたので、広島駅を目指して自転車で工場を出ました。

●帰路で見た地獄
江波からは川沿いの道を北へ進みました。最初に渡る橋が住吉橋ですが、橋の手前にある山陽木材防腐工場が燃えていて真っ赤な炎が道を覆い、通ることができませんでしたので、引き返して舟入川口町にある広島市立第一高等女学校(市女)のずっと西の辺りから迂回して電車通りを通り、住吉橋へ戻ることにしました。右手に市女のプールを眺めながら電車通りを通ると、真っ黒になった人たちが道路の隅にしゃがんだりしていました。私たちは広島駅に向かっていきましたが、逆に市内中心部から市外の方向へ逃げていくたくさんの人とすれ違いました。皆一様に髪の毛は縮れ、顔はやけどで腫れ上がり、唇がめくれ、歯と目玉だけが白っぽく見え、それ以外はピンク色をしていました。

住吉橋のたもとの坂になっている辺りに差しかかったとき、私の自転車はパンクしてしまいました。当時はチューブが無いタイヤの自転車(タイヤが人造ゴムでできている自転車で、ガタガタして乗り心地が悪いのですが、パンクすることはありません)が多かったのですが、友達二人もそのノーパンクの自転車でした。私が父親から譲り受けた自転車は継ぎはぎだらけのチューブ入りのタイヤでしたので、たくさん飛び散った瓦の破片ですぐにパンクしてしまったのです。友達二人は振り向きもせずに自転車を走らせ、そのまま橋を渡っていってしまいました。私だけが取り残され、そのときはずいぶん心細く思ったものですが、あの惨状のさなかに他人のことなどは構っておられないと思うのが(人間として寂しいことですが)自然の姿であったのではないかと、今では思います。事実私も、一人の女性から助けを求められましたが、逃げるのが精いっぱいで助けることができませんでした。それが今でも心残りです。

独りぼっちになった私は、自転車を押しながら住吉橋を渡りました。住吉橋は、逃げてきたたくさんの人であふれていました。むしろみたいなものの上に寝そべったり、欄干に寄りすがったり、歩道は真っ黒な人でいっぱいでした。するとその中に、「診療所へ連れていって」と救いを求める半袖シャツにモンペ姿の女性がいました。髪の毛は縮れ、真っ黒な顔。彼女の無残な姿とその声を今でも忘れることができません。住吉橋の上には、ほかにもたくさんの人が座っていたり、寝そべっていたりしました。皆、一様に顔は真っ黒で、髪の毛は焼けて縮れていて、やけどを負った人もいました。不思議なことに北側の歩道には誰もいませんでした。

住吉橋から明治橋の間は、電線が垂れ下がったり、電柱が倒れたりしていて、まともに歩ける状態ではありませんでした。そんな中、電線を踏み越えたり下をくぐったりしながら明治橋まで行くと、誰ひとりいませんでした。住吉橋にはあんなにたくさんの人がいたのに、明治橋には一人もいないのです。それがなぜなのか想像するしかありませんが、私が通るときも熱気と煙でむせかえる思いでしたのでおそらく、そこにはいられなかったからかと思います。

その後、鷹野橋まで逃げました。交差点一帯は瓦の破片がたくさん飛び散っていました。その上をトラックが走っていたのを見ました。動員中の広島高等師範学校の生徒が、やけどした人たちをそのトラックで宇品の方へ運んでいたのでした。

鷹野橋を過ぎると、東千田町の広島高等師範学校や広島文理科大学がある一角に差し掛かります。周りが薄煙に包まれ、赤茶けた校舎の壁がひと際目立ちました。そのすぐ下の通りを比治山橋に向ったのですが、そのとき広島中心部の方向は昼間なのに薄煙に覆われて薄暗く、その中に焼け残った立木やビルがぼんやりと見え、ひどく恐怖を覚えたことを思い出します。それから進徳高等女学校の校舎があったであろう防火壁を右手に見ながら比治山橋へ出ました。そのときは、比治山橋にも人がいませんでした。

比治山の木が焼けくすぶっているのを左手に見ながら比治山橋を渡り船舶通信補充隊の裏を通り、比治山の東側に向ったのですが、体中に包帯を巻いた女の子がごろごろと道路をのた打ち回っていたり、裸の男の人が焼け跡にある蛇口の方へよろよろと水を求めて歩いていたりするのを見ました。比治山の東側にある段原地区は、焼けてはいませんでしたが、家の壁が家の中に崩れ落ちていたり、屋根瓦が吹き飛んでいたりの被害が多かったです。柱だけ残して家が筒抜けに見えていました。爆風で吹き飛んだ家の壁や瓦の破片がたくさん道に飛び散って、道が狭くなった所に自転車を押して歩くものだから、本当に大変でした。そのまま比治山の東側を通り、的場町辺りまで行きました。そこから猿猴川の川沿いを引き返し、東大橋を渡り大洲町へ出ました。地図で見ると近いようですが、当時はレンコン畑が広がり、人がいないので遠くに感じられました。橋を渡って広い道路に出ると、やけどをして薬代わりに小麦粉のようなものを付けられ真っ白になった人が車に積まれて運ばれているのを見ました。

広島の街の中は煙で薄暗くて時間は分かりませんでしたが、旧山陽道を通って中野村の自宅に帰ったのは夕方だったと思います。廃虚と化した広島の街を抜け出すときの不安と恐怖、熱気と静寂等々、複雑に入りまじり、今でも記憶から離れないでいます。

●家族の被爆と健康への影響
広島駅で仕事をしていた父は、駅裏で点呼をしているときに被爆しました。後ろから熱線が来たそうです。帽子をかぶっていたので首の後ろや帽子で覆われていない頭にやけどをしました。

姉・ミヨ子は、元安橋付近で被爆したと聞いています。母は、八月七日から何日もミヨ子を捜して広島中を歩き回り、似島まで捜しに行きました。しかし、今でも姉の行方は分かりません。

母は、原爆投下直後の広島市内をくまなく歩いたのが影響したのか、平成になってからですが、白血病を患いました。

妹・エミ子は当日、雑魚場町付近の建物疎開作業中に被爆しましたが、ちょうど休憩中で土塀の陰だったようで、左肘をやけどしただけでした。私より早く帰宅しましたが、帰ってから何か黄色いものを吐いたそうです。その後四十度近い高熱を出し、毎日うわごとを言うようになりました。小豆大の黒い斑点が出て髪が抜け、生死の境をさまよいました。妹の同級生も、被爆して家まで帰ったものの、その後何日かして亡くなっていたので、妹ももう助からないのではないかと思ったのでしょう、目の前でそんな妹の姿を見て父が涙を流したのです。行方不明の姉・ミヨ子のことも重なったに違いありません。普段は怖い明治生まれの頑固おやじだと思っていたのに、男泣きに泣く姿がとても印象的でした。寝込んだ妹にはどくだみを飲ませていたのが良かったのか、被爆による急性症状は一応治まりました。その後結婚もして子どもが三人生まれましたが、それ以上の出産は禁じられていました。妹は七十代で亡くなりました。癌でした。

●戦後の生活
旧制中学の五年生で卒業し、労働基準局へ入りました。周りは大学卒の高学歴の人ばかりでしたので、私は電話の使い方も知らず、苦痛の二年間でした。その後、夜間の定時制高校四年生へ編入し、新制高等学校の卒業資格を取り、大学を受験しました。労働基準局のYさんという京都帝国大学出身の方が、自分が受験勉強をしたときの英単語帳や参考書などを私に下さり、応援してくれました。そのおかげで、広島大学の教育学部へ第一期生として入学しました。教育学部は、今も残っている広島陸軍被服支廠として使われていたれんが造りの建物でしたが、千田町の文学部で授業を受けたり、江波まで政経関係の単位を取りに行ったりもしました。卒業後は海田中学校に社会科教師として赴任しました。その後は瀬野中学、矢野中学など安芸郡一帯で教師を三十七年間勤め、最後は地元の瀬野川中学に勤務して、平成二年に退職しました。

父は戦後すぐに広島鉄道局を辞めて、農業に専念しました。子ども心に、それで生活は大丈夫なのか?と思いましたが、乳牛も飼うことにして、何とか生計を立てていました。そのおかげで学校も出してもらったようなものです。

●教師への道
戦時中は「八紘一宇」というスローガンがあり、アジア全体が一つになって仲良くしようという精神のもと、東洋平和を合い言葉にして戦争へ行って命をささげることが当たり前で、悪いことだと思わなかったのです。今思えば、だまされていたようなものです。

終戦後の九月頃から中学校の授業が再開されたのですが、まだ学校の教育制度は戦前のままでした。戦前と同様に月曜日の朝、一年生から五年生まで全員がグラウンドに集まって、全体朝礼をしていました。全校生徒の前に先生方が並んで、最初に「東方遥拝」を行います。「東方遥拝」とは、皇居のある東に向かって「東方遥拝」という号令で最敬礼をすることです。ところが、一人だけ考え方が違っている先生がいらっしゃいました。日本史のM先生です。他の先生方が皆東を向いておられるときに、一人だけ東を向かずにそのまま立っているのです。私は「他の先生とは違った考えの、おかしな先生だ」と思っていました。

教育の制度が変わり、東方遥拝も廃止になりました。そのとき初めてM先生の考えが分かり、M先生は素晴らしい先生だと思いました。それから、人間とはそのような生き方をしないといけない、教師の道を選ぶのならば、そういう教師になりたいと思い、教師の道へ進んだのです。

●次世代へのメッセージ
当時は戦争が悪いことだと思わなくなるような教育でした。今の言葉で言うとマインドコントロールされていたのだと思います。反対もせずに、戦争へ向かう波に乗っていくしかなかったのかも知れません。それが大きな後悔です。

しかし、戦争を本当に嫌だと思うなら、これからの子どもたちは、そこへ行くまでに反対しないといけないときは反対する、そういう生き方を学んでほしいと思います。だまされないで本当のことが分かる人間であってほしいと思います。

人間や平和の尊さをしっかりと胸に刻み、決してだまされることなく、真理、真実を求めて、誠実に生きて下さい。

 

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