私はこれまでまったく被爆体験を記録に残しておりません。妻にも子供にも周りの人にも語り継いでおりません。上手く説明できませんが、心の中で被害意識よりも加害意識が強く戦争体験は対等であるように思っておりました。苦しみを知らない幸せものだったのかも知れません。
七六才になって初めて被爆当日のことを記録として残します。
比治山橋東端に旧県立師範学校が東雲に移転後寄宿舎のみ残っておりました。同級生は殆ど勤労奉仕に出ていましたが、六、七名の農場当番のみと予科一年生が寄宿生活をしておりました。夏休みでもあり生徒が何人くらいいたか記憶は定かでは無いのですが・・・私はピカッと光ったとき二階で寝ていたのですが、爆弾直撃と思い二階の窓から飛び降りようとして窓際に走りました。下級生は廊下に出て一言二言で校舎が倒壊し廊下に出た者は押しつぶされ骨折や重傷を負いました。
一階の者は土壁に押し潰され窒息死・二階の防火用水槽に頭を打ち砕かれた者悲惨な最期でした。夏休みでもありみな寝ていたのです。
私は真っ暗闇の中に何分いたかは分かりませんが、意識はあって死での道をひた走っていました。死の恐怖はありませんでしたが「お母さん」の姿が見えた記憶があります。闇の中は結構永く感じましたが、一筋の光明がさしてきました。だんだんと明るさを増し二階から見下ろしていた樹木が高く聳えています。先ず助かったと思い光に向かって一生懸命進んだことを覚えています。意識が戻ったときには、校舎の前にあった防空壕の上に立っていました。たぶん伏せていたのでしょう。腕と背中と顔にガラスの破片がたっていました。三か月後に現れたガラスもありました。二、三人の下級生と会話を交わし私は一人で東雲町の本校に向かいました。農場に朝早く作業に出ていた級友もいませんでした。
人の命の表裏は計り知れないものがあります。
爆弾が落ちたら溝に入って身体を丸くしゃがみこみ指で耳を押そう。それを守った級友はやけどを負い亡くなりました。溝まで行く余裕のなかった級友はアスパラガスにもぐり込みやけどを免れました。近くに校長の官舎があり、校長夫妻は柿の木の下で話しをされていたようですが、木の陰にいた校長は助かり、わずか一、二メートルの差で奥様は火傷を負って間もなく亡くなられました。
私の話に帰ります。血だらけになった姿を見て沢山の人から声をかけられました。「被服廠へいきなさい治療所が出来ていますから、気分が悪いと言わないと入れてくれませんよ」いろいろと教えてくださる方があります。気が張っているためか痛みも感じず意識もはっきりしていたのですが、言われるまま被服廠に向かいました。外傷の手当てを受け今も残るレンガ造りの倉庫に向かいました。中は悪臭がみなぎり女工さんは怯えて入り口にたたずんでいました。入り口には包帯・ガーゼ・やけど用の油等救急医薬品が置かれていました。級友のことを思い何点かポケットに入れ本校に向かいました。学校も殆ど空の状態でその後何をしたか記憶にありません。
昼食を食べた記憶もありません。心に強く印象に残っているのは、大正橋付近での痛ましい光景です。白いシャツを着ていた人はそのまま火傷を免れ、出ていた腕が爆風で剝がれていました。色物の着衣の人は殆ど全裸の状態で目をそむけて通るような痛々しい姿でした。夜強い夕立が来たこと、学校の周りのブドウ畑 学校が交渉したのか爆風で落ちたブドウを生徒皆で畑に入りました。今でもあの時のブドウのお陰で今日まで生きてこられたような思いを持っています。
私は軽傷の部類で、身寄りの無かった音楽の畑先生の看護当番を言いつけられました。仁保小学校が救護所となり炊き出しもあったので助かりました。
翌日は被爆現場に行ってみました。倒壊した校舎で私が助かったわけも分かりました。一階にいた下級生がどうして逃げ出せたのか頭を抱えていました。天井板を破り二階の床板をどう破って出られたのだろう。
遺体の救出作業も続いていました。三日四日続いたと思いますが、後には悪臭を放ち針金で引き出すこともしていましたが、父親が来られてその遺体を手掴みでひきだされました。肉親の情を強く感じたものです。
被爆したものは、頭髪が抜けるものも出て帰郷を許されました。
帰宅してからが大変でした。足の裏の釘の踏み抜きの後が化膿するし、ガラスの破片が次々に現れ通院を重ねました。一ヶ月を過ぎた頃から下痢が始まりました。青便の下痢が二ヶ月近く続きました。
高熱を出し髪の抜けた級友は殆ど一年以内に亡くなりました。私は奇跡に近い生き残りの一人です。
今思うと一六歳の少年。平和を願う心は戦後の復興と共に広島人として育まれて来ておりますが、宗教、領土・人種問題全て心に豊かさを持って生活できる世の中を構築することを願っております。原爆をなくすることが最終目的とは思いません。
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