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廣島-ある被爆者の記憶 
井上 晶雄(いのうえ あきお) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2013年 
被爆場所 広島赤十字病院(広島市千田町一丁目[現:広島市中区千田町一丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島高等師範学校附属中学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

前書き 

平成十一年にケンタッキーのMurray State University の文学雑誌に載せられた私の廣島原爆の思い出を廣島の平和記念館に廣島高等師範付属中学校の同窓生中西巌君を通して贈呈しましたが、この度廣島訪問中に記念館を訪れて、拙著がdigital readerに納められて居るのを知りました。その時に中西君が、日本人にも君の話を読んで貰いたいから、和訳して欲しいとの依頼がありました。

帰宅後和訳を始めると、いろんな壁に突き当たりました。私は今迄日本語で原爆の話をした事が無いので、適当な用語が中々出て来ません。次に、英語で話していた時の語調や感じを日本語で表現するのが意外に難しいのです。心ならずも、日本語らしくない訳文になりましたが、我慢して読んで頂ければ幸甚です。

この度の廣島訪問を機に、世界大戦中に勤労動員で働いていた陸軍被服支廠を訪れ、其処から、旧専売公社前(電停)迄、原爆投下の日に歩いた道を歩いてみました。八十四歳になった今の私には、この道を歩くのは大変でしたが、原爆の日の私は十六歳の元気な体力を駆って可也のスピードで歩いていたのに気付きました。あの時、少しでも歩調を緩めていたら、原爆投下前に日赤病院の陰に入っていなかった筈です。其れは死を意味します。
 
又この廣島訪問中に思いがけないきっかけで姪に巡り会うことが出来ました。六十六年振りの対面でした。姪の話で私の思い出に記憶違いがあり、Murray State University 発行の「New Madrid」誌の編集者の校正にも不満な点もありましたので、幾分加筆しました。従って英語の原文と幾分かの相違があります。その点ご了承下さい。

この原爆の経験談で、特に注意して読んで頂きたいのは、私が生き延びた理由とその経路です。以下に箇条書きしてみました。

私は何故生き残ったか?
一 十六歳-最も回復力の有る歳だった。
二 仕事場から病院まで無駄無く、急いだ。
三 電車を飛び降りて近道をした為に、屋外で原爆を受けなかった。
四 即時に失神したため、火災、放射能、黒い雨の被害、などが人体に最悪と思われる最初の8時間に火中を逃げまわらなかった。
五 原爆後市内に留まる期間が短かった。
六 日赤病院は焼けなかった僅かな建物の一つだったので、失神していても焼死にしないですんだ。

末筆ながら、この度拙著の出版に尽力を頂いた平和記念館の語り部で世界平和の為に献身的な奉仕を続けている中西巌君に深く感謝します。貴君のますますの御健闘と御健康を祈ります。  井上晶雄
 
廣島-ある被爆者の記憶
       
今から始めようとする話は私が少年時代に廣島市に住んでいた時に起きた出来事です。此の事件で私の人生は大きく変わった道をたどる事になりました。
一九四五年の夏は私が十六歳になったばかりで、父母、姉、と老いた祖母と広島市観音町にすんでいました。私の父多樹雄は母の協力を得て、長年雑貨商の店を二ヶ所で運営していました。然し戦争が悪化するにつれて店の商品はだんだんと減少する一方で、既に店としての機能を失っていました。姉の千種は栄養士として廣島県庁に勤務していました。二人の兄が居ましたが、長兄は輸送船の航海士で、次兄は五ヶ月前に召集状を受けて、軍に入隊していました。長兄は終戦の数日前に釜山港でB−24の爆撃を受けて、船体が真二つに割れましたが、危うく船から脱出して死を逃れました。私達の生活も他の日本人家族と同様に苦しくなって行きました。其の夏は父が軍の命令で瀬戸内海の島の洞穴堀にかり出されて、辛い思いで家を出て行く事が多かったようです。洞穴は軍の弾薬、医療、食料等を貯蔵して、敵の空襲から守るためでした。父は軍に命じられた任務があって、連合軍に降伏する直後迄は広島市に戻り帰ることは出来ない予定でした。

其れより一年前の一九四四年の六月頃私達中学三年生は日本政府の命令で、学問を放棄して、廣島被服支廠に勤務する事になりました。其れからは、月の第一と第三の日曜日だけが休みで後は毎日被服支廠で働きました。私たちの主な仕事は、梱包された兵隊の編み上げ靴、兵隊服、武装品等を肩に担いで、トラックから倉庫、倉庫からトラック、トラックから船、等と運搬作業をする事で、来る日も来る日も此の重労働が続きました。此の労働は未成年者の私達には過酷な仕事でした。こんな仕事を一年以上続けたので、今でも右肩が上がって当時の歴史を物語っています。この労働は一九四五年八月六日の原爆が全市を壊滅し尽くしてしまう迄続きました。

一九四五年八月五日、即ち原爆が廣島の上空で炸裂した日の前日は丁度待望の日曜日でした。この大切な午後を私は蔵書の整理に費やしました。其の当時の私は本を貪る様に読んでいました。先ず、本の重要さによって区分わけをし、木箱に詰めました。其の数多い木箱を裏庭への出口近く迄運びました。当時の私の頭には敵機の空襲は焼夷弾攻撃だけに限っていました。焼夷弾が近くに落ち始めると、此の出口から裏庭に木箱を出来る限りを運び出せば、本の殆どは助かると子供心に考えていました。当時は、如何に想像力を駆使しても、広島市全土が十秒内に地獄に化すとは思いもよらないことでした。原爆投下の前日については、外に特別な記憶がありません。只、もう一つ思い出せる事は、本を整理した後、姉と二人で配給された小麦粉を材料にトースターオーブンでパンを焼いた事です。当時は主食の米が不足勝ちで小麦粉や大豆等が補助食として配給されていました。

翌朝の八月六日は何時もの様に、早く起床して仕事に向かいました。空は晴れて何時もの朝と何の変わりも有りませんでした。其の時姉は腹をこわして仕事を休むことにしていたのを知りませんでした。勿論母と祖母は家に居ました。父は瀬戸内海の何処かの島で、例の洞穴堀を始めようとしていたころです。

私は起きた頃から鼻の調子が悪くて頭が重かったので、仕事場に着くと医者に行く許可を得ました。

被服支廠は、間もなく落ちる原爆の爆心点から約二・七キロメーター離れていました。その日は早朝から警戒警報が発令されていました。でも警報には慣れていて無関心でした。此の警報が解除となると同時に、仕事場を出ました。七時半を過ぎた頃だったと思います。細い路地を十分ぐらい早足で歩くと専売公社の塀が見え始めて、道路も広くなって来ました。前方の電停に紙屋町行きの電車が止まっていました。懸命に走って飛び乗ると同時に電車は動き始めました。若し乗り遅れていたら、日陰も無い電停に立っていたでしょうから、放射線を浴びて、黒焦げになって死んでいたでしょう。

私の乗った電車は他の乗客も乗せて、何も予期していない運転手は時間が刻々と迫って来る炸裂予定の爆心地に向かって電車を走らせました。電車は次の停留所である鷹野橋に後三〇〇メートルまで近付き、日赤病院の正門を通り過ぎようとしている時に、私は衝動的に電車から飛び降りました。此の方が近道だったからです。此の近道が命拾いとなりました。日赤は爆心地から一・五キロ南にありました。日赤の正門をくぐり、正面玄関の石段を駆け上がり、車寄せの通路を横切って玄関口にある受付の窓口に近付くと、受付には二、三人の先客がたっていました。近付きながら後ろポケットから財布を引き出したと同時に、目も眩むばかりの閃光が後方に走りました。次の八時間は空白です。炸裂音も聞いていません。強烈な爆風は音よりも速い速度で私たちを襲撃したのです。

その後何十年を隔てて、科学者達が、爆心地から日赤よりも更に一二〇メートル離れた建物で原爆投下時をコンピュウターで再現しました。実験の結果は、衝撃波に打たれた「人間」は空中に投げ上げられて、空中をとび、床面にたたきつけられました。私も同様に空中に舞い上がり、空中を泳いだ後で床に叩き付けられたのでしょう。今も謎です。私が八時間後に目を覚ました時は想像に絶する惨状でした。阿鼻叫喚の巷とは此の日赤病院のこの日の事だと思います。目覚めた時は頭が朦朧として何故こんな所に自分がいるのかわかりませんでした。病院の床は怪我人で溢れ、既に死んだ人達や、今にも死にそうな人達も多く、泣き声、喚き声、等で病院はまさに地獄でした。私の頭が普通の思考能力を取り返す迄にかなり時間がかかったようです。空からの大爆撃が有って日赤の近辺が被害を蒙ったのであろう事は推察出来ました。然し、私自身が怪我をしている事まで考えが及ばなかったのです。後になって私の顔や身体に多数のガラスの破片が刺さっていて、唇は傷で腫上がり、左頬が焼けどの為に黒く変色しているのが解りました。それでも、私は罹災者の中では軽傷組に属していました。不思議にも、私の靴の片方がなくなっていました。周囲を探しましたが、何処にも見当たりませんでした。

先ず、自宅に帰れば、安全で、食べ物もあり、休養が取れると思いました。私は編上靴の片方だけを履いて、自宅に向かって歩き始めました。日赤から一歩足を踏み出すと、火災だけは逃れたが、骨組だけに変わり果てた日赤病院が寂しく幽霊のように立っていました。全市が壊滅して平になり、市の遠い端まで見渡す事が出来ました。煙や火炎があちこちに立ち上り、爆撃直後の壮絶さを想像させました。今朝楽しんで眺めた公園や街路樹の緑は完全に消え失せて、見渡す限り灰色の焼け野が原でした。余りの変貌を何と説明してよいか私には出来ません。今でも出来ません。朝私が下車する筈だった電車の停留所の辺りには黒焦げになった死体がごろごろ路上に散乱していました。若し、私がその朝衝動的に電車から飛び降りて近道を急がなかったなら、此の死体の仲間になっていたでしょう。

それから、私は三つの橋を渡り、約一里の道を家路へと急ぎました。何はさておいても母の居る家で休みたかったのです。この私の歩いている同じ道を僅か八時間前には、二万人以上の不気味で醜い幽霊に成り果てた怪人たちが廣島の燃え盛る地獄を何とか脱出しようと西の郊外へと必死に逃げて行ったのに違いありません。 

私が三番目の橋に差し掛かると、小学校時代の級友が欄干に寄り掛かっているのが見えました。彼は私が誰であるか解っていなかったようです。親愛の情も見せず、質問をしても返事無しで、ただ私の顔を凝視するだけです。後で考えると、彼には認知出来ない程私の顔が変型していたのです。

私達の家は爆心地から約一・五キロ西にありました。帰り着いて見ると、家は全焼で跡形も無く燃え尽くしていました。普通なら驚愕と悲嘆のどん底に突き落とされる所でしょうが、この日は既に余りにも酷い世の急変を見て来たので、心が麻痺状態になっていたようです。

前日整理して箱に詰めた本も総て完全燃焼を遂げて、本のあとを偲ばせる灰さえ残っていませんでした。庭の樹木は跡形も無く消え失せてしまい、但、残ったのは松の大木が地上一メートルで折れまがって静かに燻っていました。

母と姉は道路を隔てた空き地に避難していました。母は衝撃波で倒壊した家屋の下敷きになって、足と太腿が折れ、腰が半脱臼で、片方の踝は押しつぶされて、身動きも出来ない状態で土の上に横たわっていました。幸運にも、姉が腹痛の為に出勤しなかったので、家に火が回ってくる前に、辛うじて母を倒壊家屋から引きずりだし、道路を横切って向こう側の空き地迄引きずって行けたそうです。

私たちは福島川の川岸の直ぐ近くに住んでいました。母が横たわっていた所から七メートル位離れた所の川岸に沿って死体がごろごろころがっていました。彼らは燃えしきる街の火を何とか此処迄逃れて来ましたが、此処で息が絶えたのです。死体は既に熱い太陽の熱で膨れ上がって、グロテスクな風船のようでした。彼らの皮膚は太陽熱と放射能で剥けて肉をさらしていました。身のよだつ此の情景は今も瞼に浮かびます。こんな混沌とした騒ぎの最中に私は何処かで靴を手に入れたようです。何時何処で得たのか、私の記憶から拭い去られました。心が麻痺して、不可思議の連続でしたが、次にすべき事は行方不明の祖母を捜す事でした。祖母はその日の朝仏壇に供える花を買う為に出掛けた侭帰って来ません。祖母が毎朝花売りと会っていた辺りを何回か探してみましたが、衝撃波に破壊された家屋の残骸が一面に堆積して、祖母らしい姿は有りませんでした。今も思い出す度に痛恨の涙が出ます。遂に死体は見付からないままです。何年か後に、祖母は隣町の天満町で死んでいた事を知りました。何故天満町を歩いていたのか、今は悲しい謎です。

あの福島川の川岸で過ごした最初の夜にした事や隣人との心温まる触れ合いや助け合いも有りましたが、其の記憶も時の流れが拭い去ったようです。其れでも、哀れな死人の姿、川土手や浅瀬に行倒れた馬が、あたかも日本の将棋の駒が袋から無造作に投げ出されているかの様に散在していたのが、私の脳裏を掠めます。

辺りが暗くなって来ると、私は母のそばに行って、地べたに横になりました。間も無く寝込んでしまったようです。姉の声で目を覚ますと、結び御飯を持って立っていました。其の時に自分の顔が見えなかったのは幸運でした。何故なら、唇はガラスの破片と焼けどの為に膨れ上がっていたからです。姉のくれた結びを小さくくずして、腫上がった唇の右端から、一切れ一切れ指で押し込んで食べました。食べ終わると、廃墟と化した廣島市上に大きく美しく跨ぐ天の川の下に再び眠り込んで行きました。

あの原爆第一日目の夜に、起こった事をもう一つ憶えています。川土手に寝ていると、チョコレート色の液体が胃から湧き出て来ました。液体が頬を伝って地面に流れ落ちるに任せました。同じ経験をした生存者も随分いたそうです。放射能を含んだ毒を吐き出したから生き残る為に良い事だったと言う人も居ましたが、本当かどうか解りません。

夜が明けると、顔に射し込む太陽光線で目が覚めました。総てを失って途方に暮れた私達に、元気を出させる事が一つありました。其れは、近所の人が来て、医療手当の必要な人々の為にその日の午後トラックが迎えに来るとの朗報です。昼頃近所の人が何人か来て、母を担架に乗せて、二〇〇メートル先の大通りに運びました。母は建物の下敷きになって、足腰の至る所に大けがをしていたので、最低四人の助けが必要で、細心の注意を払って動かすことを必要としました。トラックの到着予定地に着くと、真夏の燃えるような太陽熱に熱しられた舗装道路に母を下しました。其処に日陰も無く待つ事約五時間、やっとピックアップトラックがやって来ました。私達はトラックの後ろに乗せられて宇品港へと走りました。宇品港は市の南端に位置します。宇品に着くと、何人かの男が現れて、母を船着き場に下ろしました。船着き場は四面に壁が無くて、床はコンクリートでした。医者らしい人は一人も現れません。此処で胸を裂かれるような悲しい人間の悲劇を目撃しました。どうした訳か此の罹災者の群れの中に、幼い子供達も居ました。そして、母親を求めて泣き続けるのです。未だ幼くて、突然孤児になったのを認識出来ないのです。ただ失った母を求めて歩き回っているのです。

時折空襲警報のサイレンがけたたましく鳴りました。警備の兵士が避難所に隠れるようにと怒鳴りますが、母が動けないので、私達三人はその場にとどまりました。

時々母は何処かで手に入れたぼろ布でトイレを済ませました。私はその度に其の布を海辺に持って行って洗って干しました。同じ布の反復使用の為です。この船着き場に来てから、食物と水があてがわれた筈ですが、私には何の記憶もありません。その夜はここですごしました。次の日は、似島と呼ぶ島に行く事になりました。瀬戸内海に点在する小島の一つで、避難と介護の施設も有る筈でした。大多数の罹災者が重病患者なので、人の助けを借りないで歩ける姉と私は重患の母と同船は許されませんでした。仕方なく別々の船に乗りました。船が目的の島に向かって走っていると、米国の戦闘機が低空で飛来して、機銃掃射を始めました。船の回りに水柱が立ちました。其れ迄上甲板にいた姉と私は直ちに下段の甲板に降りました。辺りを見回すと、自力では殆ど歩けないような罹災者達も下甲板に逃げ降りていました。 

似島に到着すると、数多い病人や怪我人が運び込まれていて、その中の殆どが、生死の境を彷徨っている様子でした。私達は母を懸命に探し、新しく入港して来る船に期待しましたが、母の姿は有りませんでした。トイレの始末も気になって落ち着きません。すると、誰かが、一隻の船が到着したが、中の罹災者を下船させないで、違う島に行ったと話して呉れました。その島は宮島だと解ったので、宮島行きの船を見つけて、乗船して、宮島に向かいました。宮島に上陸した頃には、港湾に夜の帳が下りていました。(後で知りましたが、似島で罹災者を下船させないで、宮島に運行したのは、似島が瞬く間に満員になり、収容出来なくなったからです。直ぐ後で、宮島も同じ問題を抱えて、他の収容所を探す事になります。)

同船で宮島に来た罹災者の中に、一人背の高い紳士がいました。彼は白いワイシャツを着て、気品と知性がただよっていました。暗闇迫る埠頭の上を行き帰りしていました。時折彼は宮島の対岸に見える阿品の小さな町の灯りを凝視しました。阿品町はあたかも宝石を散りばめたお伽の国のように幽玄に輝いていました。彼は時々大声で独り言を言いました。しかし、言っている事はちんぷんかんぷんで意味は皆目分かりません。時々海面に映る灯火を見る事もありました。明くる朝目が覚めたら、彼の姿は有りませんでした。

彼がたとえ新しく強力で無情な原爆の犠牲者でも、比較的幸福に此の世を去って行ったのだと思うと、私に一種の安らぎを与えて呉れました。と言いますのは、あの地獄と化した廣島の荒れ野を彷徨の末に死と直面しながらも、少なくとも水面にきらめき踊る無傷の美しい光景を彼が観賞したようでしたから。

宮島には数多くの神社仏閣が有りました。いずれも罹災者を保護して、罹災者名簿を表に置いて居ました。名簿を丹念にしらべて歩きましたが、母の名は何処にも見当たりません。母を探し疲れて精根つきはてた時に、一片の朗報を受けました。被害者を乗せた船が廿日市に向かったと言うのです。廿日市は宮島の対岸にある町です。再び船の乗客になり、廿日市へ向いました。船は河口の堤に付けられ、私達は其処で上陸し、徒歩で小学校に向かいました。その小学校の講堂と教室が被災者の仮の避難所になっていました。母は講堂の入り口近くに横たわっていました。二日の別離の後でやっと再会出来た母の目には涙が光っていました。やっと再会出来た安堵感と緊張感の弛みで姉と私はその場にすわりこみました。

私達はその避難所に三週間ばかり寝具無しの生活をしました。此処に入所して数日後郊外電車で、広島市の西に位置する己斐駅に行き、其処から徒歩で我が家の焼け跡に行きました。裏庭の防空壕から、非常食品として貯蔵していた食用油、米、バター等を取り出しました。つぎに手書きの告知板を立てて、現住する避難所の住所を明記しました。

講堂で療養中に、多くの悲劇を目撃しました。それらの殆どを努めて忘れました。それでも、忘れ得ないのも幾つか有ります。

一 毎晩十名ばかりの患者が意識混濁状態に陥り、譫言を言い始めました。大声で叫ぶのも、柔らかく話すのも居ましたが、両方に共通する事は、戯言は止まないで、長く続いて行く事です。然し、同居中の生存者は誰ひとりも小言も言わずに聞いていました。彼等が暗黙のうちに知っていた事は、必ず、夜明け前迄には、冷たくなって静寂にもどることです。

二 私達の寝場所から十メートルばかり離れた片隅に、日々に死んで行く罹災者を予期して、十ばかりの荒削りの木製の棺桶が常時置かれるようにしていましたが、毎日の補給が遅れ勝ちでした。

三 罹災者の中には、一見無傷な人達も見受けられました。彼らは被災した時には、防空壕の奥深くに避難していたか、コンクリートの建物の地下室にいたそうです。然し、罹災後一、二週間後に頭髪が抜け始めて、発熱し、死んで行きました。目に見えない放射線は其処に迄到着していたのです。外見完全無傷で避難所に到着した人が幸運だったと喜んだ幸福感もほんの束の間に消え失せるのを見るのは辛い事です。当時は頭髪が抜ける事は死の宣告でした。

四 避難所に可愛い八歳くらいの女の子が運び込まれて来ました。二、三日のうちに此の子の顔から笑みが消えました。此の子は片方の頬を床板につけて寝ていましたが、頬の弾力が失せて来ました.搗き立ての餅が重力に負けて裾が広がって行く様に、頬がだらりと板面に沿って延びているのです。絶望感に打ちひしがれた母親が何の術も無く、我が子の側の座っている姿は見るに忍び難いものでした。

五 母の傷の一部は黄色に変色して、蛆がわきはじめました。箸を使っての蛆取りが日課になりました。
六 入所してから数日経つと、耐えられないような頭痛が始まりました。巡回の医師に告げると、頭蓋骨折かもしれない。しかし、もっと急を要する患者が居るので、「君にはかまっていれない」と言われました。

私は原爆炸裂の時は、病院のコンクリートの陰に幾分か守られていました。それでも左頬が放射熱線で皮膚が剥けて褐色に変色し、ぬるぬるしていました。 姉が毎日防空壕から持ち帰った胡麻油を塗って呉れました。これが私達が精々できる傷の手当でした。此の姉の応急手当の功で、三年目には痕跡も残さず殆ど消えて行きました。然し、此の姉の成果は長兄(義雄)の失望でもありました。兄は此の熱線痕は私の頬に死ぬ迄残って、原爆の生きた歴史になるだろうと密かに期待していたようです。

私達は間もなく廣島に落ちた爆弾は新型爆弾であった事を知らされました。そして、少なくとも、落ちてから七十年は放射線の影響で動物や食物は育たないと聞きました。勿論此れは誤りでありましたが、当時は原爆に関しては何が正しく、何が誤りかを判断するのは至難の業でした。

三日後に長崎にも原爆が落ちた事を知り、八月十五日に戦争が終りました。

申し上げました様に、父は原爆投下の頃は広島市にはいませんでした。然し、間もなく宇品港に戻って来ました。父の後日談では、全市が消滅していたので、広島市の果て迄一望に見えたそうです。此の膨大な範囲にわたる壊滅状態を見た時に、父は全家族を失ったと悲壮な気持ちで呆然と立ちすくみました。幸運な事に、父の判断は間違いでした。私が焼け跡に立てた掲示板で、難なく家族を捜し出しました。その頃長兄も日本に帰り着き、避難所にやって来ました。今度は母が次兄(久雄)の安否が気がかりで落ち着きません。母の要請で、義雄兄と私は山口県の徳山市駅迄汽車で行き、其処から徒歩で久雄の入隊していた兵営に辿り着きました。上官の将校に尋ねると、久雄は人間魚雷操縦の特別訓練を受ける為に秘密の場所に送られたそうでした。此の話を聞いて、久雄兄は人間魚雷に乗って戦死を遂げたものとはや合点しました。(私達の判断は此の点でも誤っていました。久雄は死んでいなかっただけでなく、終戦の年の九月に 解散した軍隊の毛布をはじめ米、乾パン、その他の食料を小さな手押し車に乗せて帰って来ました。)
 

 

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