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広島の空襲と原爆 
岡本 篤夫(おかもと とくお) 
性別 男性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2016年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島工業学校 土木科 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●呉市の空襲
昭和二十年当時私は十五歳、県立広島工業学校土木科の三年生で、呉鎮守府呉海軍施設部の一〇一部隊へ動員され宿舎に住んでいました。軍では地下工場建設のため、二十メートルおきにトンネルを掘り進める作業が行われていました。私は測量隊として、呉海軍工廠内にあった山の全体を測量するのが主な作業でした。

昭和二十年七月一日深夜、宿舎で休んでいたときに、照明弾が落とされ、ぱっと時計を見ると零時四分前だったことは忘れもしません。宿舎にいた全員が急いで山に掘ってあった防空壕まで避難しました。バシャッと水を掛けたような音が聞こえ、何だろうと思っていましたが、油脂焼夷弾が落とされ、辺り一面が火の海になりました。ここにいたら蒸し焼きになる、大変だと思い、友人と二人で防空壕の中に備えてあった毛布を持って山を登っていきました。山には松の木が生えており、避難する人々はどんどんその奥へ入っていきましたが、同じ死ぬなら、早く見付けてもらえる方がいいと思い、松林の入り口で頭に毛布を被っていました。

そこから真正面に女子挺身隊の宿舎が見えました。その宿舎も焼夷弾でいっぺんに火事になって、廊下を走って逃げたり、二階から飛び降りて外へ逃げており、かわいそうでした。あの宿舎でも随分多くの女子学生が亡くなられました。

この空襲で一〇一部隊の宿舎も無くなってしまったので、防空壕の中にござを敷き、その上で毛布を掛けて寝ていたら、七月末に体が痛くなりました。医務室へ行き「痛いけん、何や」と医師に尋ねると、「これ脚気じゃからの。心配することはない。転地療養が必要なので、家へ帰って休め」と言われ、実家のある安佐郡亀山村勝木字大野(現在の広島市安佐北区可部町)に帰りました。

●実家に疎開していた人たち
実家には両親、妹、弟のほか、親戚を含め四世帯十八人ほどの人たちが疎開していました。

布団屋をしていた森富さんは、ご夫婦と勤労動員に行っていた子ども二人と乳飲み子が鳥屋町(現在の大手町二丁目)で暮らしており、おばあさんが他の子どもを四人連れて、勝木の実家に疎開していました。しかし、八月四日に「天気がいいので、ちょっと広島へ出てくる」と言って、子ども四人と鳥屋町の家へ帰りました。森富の奥さんは入れ違いに、疎開させたままになっているミシンでご主人の服を直すため、乳飲み子を連れて勝木へ来ました。

山本さんも子どもを四人連れて疎開していたのですが、「森富さんも出たなら、わしも久しぶりに広島へ帰ってみる」と言って、五日の日に子どもたちを連れて帰りました。

●八月六日
私は自宅療養をして元気になっていました。父と二人で田の草取りに行き、父は下の田んぼから、自分は一番上の田んぼから草を取りに入った瞬間、突然ピカッと光りました。ドンと爆発音が聞こえ、その後少しして風の波がザーッと山の木々を押し倒すように吹き抜けました。おかしいと思い、広島市内の方をよく見てみると、もくもくときのこ雲が上っていました。誰にも言ったことはありませんが、七色に光るきのこ雲は極楽へ行ったようにきれいに見えました。田んぼから出て、周りの人たちと、「あれはどこだろうか」、「あれだけの爆発しとるんじゃけ、ガスタンクでもやられたんじゃろう」「兵器いうたって、あれだけの爆発するような爆弾は恐らくないだろう」「しかしひどいな」と話をしていました。そのとき、B29がブーンと唸って飛んでいるのが聞こえました。「あらB29だ。爆弾落としやがったんかいの」と言っていたら、落下傘が一つ見えました。その後、B29は旋回をして南の方へ飛んでいき、落下傘は頭上を通り北の方向へ消えていきました。やがて雲が広がっていき、空が真っ暗になりました。それから黒い雨が降り始め、焼け焦げた紙も降ってきました。松の木の下に入りましたが、雨でぬれてしまいました。
 
正午前に被災者を乗せた列車が安芸亀山駅へ着いたのを聞き、安芸亀山駅まで行って、列車を降りてきた人に広島市内の様子を聞くと「広島はもう爆弾で焼け野原じゃ」と言っていました。

●市内での捜索
私には養子にいった兄がいて、その兄が野村生命保険に勤めていました。七日の朝、その兄を
捜しに自転車に乗って行きましたが、横川駅まで行ったところで地面がとても熱く、それより市内へは入れませんでした。市内の方を見ると焼け野原になっており、福屋百貨店のビルしか見えなかったので驚きました。

八日に市内に入れるようになったという話を聞き、九日に再び兄を捜しに自転車で市内に行くと、市電が焼けて、たくさんの遺体がありました。寺町にある本願寺広島別院の辺りまで行くと地面の熱でタイヤがシューと焼けて、パンクしてしまいました。これではどうにもならないので引き返して祇園の自転車屋に行ってタイヤを交換してから帰りました。

家へ帰ると、勤労動員に行っていた森富さんの息子が来ていました。十日に一緒に鳥屋町へ行きましたが、その周辺は爆心地から百メートルほどの所で、やはりまだ地面が熱くて入れませんでした。その後、学徒動員に行っていた彼の弟を捜すため、紙屋町の電車通りをまっすぐ下がって、南大橋を渡り観音の方へ行きました。しかし、捜すと言っても、皆、やけどで体が黒くなって捜し出すことができず、己斐の方まで出てから横川を通って帰りました。息子さんは翌日すぐに山口のおじさんの家へ向かわれました。

その後、森富の奥さんに「うちの主人、おばあさん、子どもたちが広島へ帰っているので、すまんが、うちの家へ連れていってくれ」と泣きつかれて、奥さんと二人で再び森富さんの家へ向かいました。周辺は焼けていましたが、奥さんは「この道が曲がっているから、ここが家だ。この石門があるから、ここが家だ」と言って、家があった場所へ入ってみると、台所があったであろう場所に白骨がありました。「これ小さいけえ、子どもじゃろう」と言って、六体分の骨を拾って持って帰り、仏壇でお経をあげました。勝木の実家に疎開していたおばあさんと子どもたちは全員亡くなられており、五日に自宅へ帰った山本さんと四人の子どもたちも亡くなられました。

私は再び兄を捜しに行きました。会社の建物は覚えていましたが、きれいに焼けてしまっていて、目標となる物も無く、会社のあった場所は分かりませんでした。兄は捜しようがなく、あれから半年に一度は兄の夢を見ました。

それから九月まで学校の片付けがあったので、ほとんど毎日広島市内へ行きました。あるとき、本川国民学校の付近に数人の人が集まり、「ここに誰かいるわ。臭い」と言っていました。近づいてみると、吹き飛ばされた瓦礫の下敷きになって人が死んでいました。私は若かったので鉄筋を持ってきて、引き出す作業を手伝いました。引き出してみると、頭は少しも膨れていませんでしたが、体がすべて真っ赤に膨れていました。「ああ、つらかったろう」と言って皆で手を合わせました。

市内の状況は悲惨で、川の水が干潮で引くと、川の両岸が出てきて、そこにはいりこを干したように多くの遺体があり、地獄だと感じました。「こんちくしょう、このヤンキーめ、覚えとけ、くそ」と怒鳴りました。日にちがたっているので、ウジ虫がいっぱいいましたが、どうしようもありませんでした。それはもう生き地獄でした。「水をくれ、水をくれ」と言われ、水をあげたら死ぬから、あげてはいけないと聞いていましたが、一、二人には水をあげました。アメリカめ、広島を全滅させやがってと思い、アメリカへの反発心で胸がいっぱいでした。あのときの気持ちは、皆さんに言っても分からないと思います。

●戦後の生活
森富さんの長男が復員して、鳥屋町の自宅の整理に行くと、奥さんが骨を拾った場所は自宅ではなかったことが分かり、改めて自宅跡から骨を拾ってお経をあげ、納骨したそうです。以前奥さんが拾って帰った骨は箱に入れて、私の家のそばにあったみかん畑の下の石垣の間へ入れたそうですが、当時は私はそのことを知りませんでした。

十二月のある日、夢の中で、みかん畑の前に行くと、風が無いのに畑の木がワーッと揺れて、あれっと思っていたら、木が人に変わり「ここは凍えて寒い。家の裏の墓所へ連れてってくれ」と言われました。目が覚めてから、父に夢で見たことを話し、みかん畑へ行ってみると、石垣の 間にぺちゃんこになった箱があり、開けてみると骨が入っていました。すぐに、お経をあげてもらい、墓所へ納骨しました。それから何年か後に、平和記念公園内に原爆供養塔があると聞き、骨はそちらに納骨しました。

私の実家は一反か二反の田んぼで米を作っていましたが、供出制度で政府が米を強制的に買い上げていたので、たった一俵しか残らず、食べ物が無くて苦労しました。

昭和二十一年三月に県立広島工業学校を卒業し、四月から元々呉にあった水野組(現在の五洋建設)に就職して、いとこと結婚しました。髪はあまり抜けませんでしたが、病気ばかりして、よく寝込んでおり、就職してからも病院に通い続けていました。水野組は全国に展開していったので、私も和歌山や島根など全国津々浦々に働いていましたが、昭和五十年、神戸の営業所長をしていたときに、母の体調のことがあり、仕事を辞めて広島へ帰ってきました。

●兄のお墓
広島で再び生活を始めてから、十二指腸潰瘍にかかり強い痛みを感じていたので、いくつかの病院へ行き、「頼むから、死んでもいいから、とにかく切って開いて見てくれ。十二指腸を取ってくれ」と頼みましたが、「大したことない」「あなたの言う通りにしてあげたいけど、この症状で手術したら、うちが業務停止になる。だからこの程度じゃ切れません」と断られてしまいました。

ちょうどその頃、兄の夢を見たのです。兄が墓になって、私の体を押さえ付ける夢を見て、これは墓を建ててくれという願いだと感じました。兄のお墓を建てたいと思いましたが、兄は養子縁組で私の実家からは離れていたので、私が死んだらいずれ無縁仏になってしまうと心配になりました。三滝寺の住職さんに兄のお墓の相談をすると、兄の法名が釈龍泉で、三滝寺の元の寺名が龍泉寺なので、「これは深い因縁があります。どうぞ好きな所に建ててください。あなたが死んでも無縁仏にはならん」と言っていただき、兄のお墓を建てました。すると不思議なことにその後、お腹の痛みは感じなくなりました。

●平和への思い
原爆を投下された後の広島の町を思い出すと、言葉では言い表せません。あの惨めさと残酷さは話にできません。もう地獄、地獄に二乗も三乗もつくほどです。核兵器は使ってはいけません。それはもう誰がどう言おうと、原爆は絶対に廃絶するべきで、廃絶してもらわないといけません。とにかく原爆反対、戦争反対です。原爆を自由に使えば、人類はいなくなり、世界はなくなります。

 

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