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被爆体験について 
城戸 真子(きど まさこ) 
性別 女性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月六日。私は姉の家族の再疎開に付き添って広島から約五〇キロ離れた山村に着いた翌朝だった。その朝の太陽は月蝕の時の様に暗く、昼頃には、焼け焦げた紙片が中国山地を越えて、ひらひらと降ってきた。役場も郵便局も通信不能ながら「広島が新型爆弾にやられたらしい」と丈は解った。
 
家に母一人を残した私は、翌早朝徒歩で山越えをし、途中、民家に一泊して、八日の昼前、横川駅に着き、その足で平塚町のわが家へと急いだ。爆心地に近づくにつれ、腸(はらわた)をむき出しにして横たわる軍馬、川に浮かぶ筏(イカダ)の上や家々の防火用水槽に水を求めて頭を突っ込んだまま息絶えた多数の人々、又橋の袂には遺体を運んでは山積みにしてあったし、市電は骨組み丈を残して止り、この車内には多数の通勤途上の人が電車と運命を共にされたものと思う。
 
さて、平塚の私の家に着くと、ここも倒壊後に全焼して、勿論母の安否も不明。この状態ではとても無事とも思えず、それでも家の辺りを探していると、いつも母が寝る場所辺りに西を頭に寝た格好の白骨体を見つけ、私は母だと直感した。「生きながら白骨になるまで、どんなに悶え苦しんだことだろう」と想い、泣き泣き晒布の袋に入るだけ拾って入れた。その夜は近所の人と屋根の無い防空壕で一夜を明かし、空腹に絶え切れず、しかしまだ救援の食糧も届かず空き地に植えていた甘藷を掘って生のまま噛って食べた。この時期の藷はまだネズミの尻尾の様に細くてまずかったが空腹には勝てなかった。知らぬ事とは云え、その藷は多量の放射能を含んだ黒い雨のしみ込んだ土の中から掘り出し、しかも生で食べてしまったのだ。
 
母とは、その後落ち合い場所で、生きて嬉しい再会を果たすことができたが、そうすると私が拾って来た白骨は一体誰の・・・・・?思うに爆心地方面から、倒れた家の上を無我夢中で逃げてきた人が、私の家の上まで来て行き倒れ、そのまま家と共に焼けて白骨にまでなられたのであろう。冷静になって考えれば、その白骨は屋根の上だったのだから・・・・・。
そして、この方のお骨は私が拾った事によって遂にお身内の方の必死の捜索にもかかわらず行方不明のまま現在に至っていることになる。それを思うと何とも申し訳なく思うけれど、私のせめてもの救いは母と再会後近くのお寺に無縁仏としてお経を上げてもらってお預けして来た事である。
 
あれから五十年、被爆者の多くが、放射能の後遺症を引きずって生きている。しかし世界には未だ多くの核が存在し、フランスや中国では、現在なお核実験が繰り返されている。この美しい星、地球を破滅させてしまわないよう、そして核の犠牲者を再び作らぬよう、「核の使用に絶対反対」を声を大にして語り継ごう。
 
これが今の私の使命だと思っている。
  

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