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原爆に家族を奪われて 
木原 朝子(きはら あさこ) 
性別 女性  被爆時年齢 22歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2010年 
被爆場所 三菱重工業㈱広島造船所(広島市江波町[現:広島市中区江波沖町] 
被爆時職業  
被爆時所属 挺身隊 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
当時、私は二十二歳で、富士見町に住んでいました。父・大屋音市は、軍医で、遼陽陸軍病院長として満州(中国東北部)に赴任しており、自宅には、専業主婦の母・弥生と、県立広島第一中学校三年生の弟・恵市、私の三人がいました。広島高等師範学校附属国民学校四年生の妹は、比婆郡西城町(現在の庄原市西城町)へ学童疎開中でした。

昭和十八年、弟の県立広島第一中学校入学にあわせて、父を除く私たち家族は、九州から広島へ引っ越し、父方の祖父と同居を始めました。高齢の祖父の面倒をみるための同居でしたが、しばらくして祖父は亡くなり、富士見町の家には、私たちだけが住んでいました。

昭和十九年の秋頃、各家庭から女性一名を挺身隊に参加させるようにと命令があり、我が家からは、私が参加することになりました。広島市役所に集合し、そこで動員先の軍需工場が割り当てられ、私は江波町の三菱重工業広島造船所で働くことになりました。

造船所では、ドリルで缶に穴を開ける作業を一週間ほどさせられた後、事務に移動になりました。工場で作業をしていた人の中には、手を切ったりした人もいましたが、私は事務員だったので、それほどきつい仕事や危ない仕事はありませんでした。しかし、休日はほとんど無く、毎朝六時くらいに家を出て、仕事に行きました。朝まだ暗いうちに家を出る私を心配して、母が毎朝、鷹野橋のバス停まで見送ってくれました。当時のバスは木炭バスなので、途中でエンジンが動かなくなることもあり、そんなときは、乗客が降りて、うちわで炭をあおいだりしました。また、なかなかバスが来ないときなどは、元安川と本川を渡し船で渡り、歩いて行くこともありました。

●昭和二十年八月六日
原爆が落とされたとき、私は造船所にいて、ちょうど朝礼が終わり、事務室に入ったところでした。突然、窓にメラメラメラッとフラッシュをたいたような赤い閃光が見え、窓ガラスが全てガチャーンと割れました。私は夢中で、机の下に潜り込みました。しばらくして机の下から出ると、机の上や床は、ガラスの破片でいっぱいです。血だらけの本部長が、「大丈夫かぁ」と言いながら、みんなを見回っていました。私がいた建物は、爆心地から四キロ以上離れた海岸近くにあったので、それほど大きな被害はなかったのですが、市の中心部の方角を見ると、四階建ての建物の窓から、赤い炎や煙がモクモクと出ていました。

その後、けが人が、ゾロゾロと造船所へ避難して来ました。けがをした人々は、意識がもうろうとして、体中にやけどを負い、裸同然の姿です。やけどで両足の皮膚が剝がれ、つま先立ちで歩く、幼い男の子の姿が忘れられません。造船所の人たちは、あまりに大勢の人々が所内に入ってくるので止めようとしていましたが、みんな、痛みに「ヒィヒィ」と言葉にならない声をあげながら、どんどん入って来ます。その人たちは、むしろなどを敷いた上に寝かされましたが、次々に亡くなっていきました。おそらく、ほとんどの人が助からなかったでしょう。私は、その様子を見ながら、これはただ事ではないと感じていました。

市の中心部は火災のため通ることができず、家族のことが気にかかりながら、夕方まで造船所で過ごしました。食事は、江波ダンゴ(食糧難の時代に江波町で作られたとされる、野草や海藻を混ぜたダンゴ)のようなものが、みんなに配られ、それを食べたように思います。夕暮れになって、江波町から宇品町まで、造船所の船で送ってもらうことができました。同じ挺身隊の友達と二人で、宇品町から牛田町まで歩いて行きました。牛田町の天水という所に、母方の祖父の家がありました。

比治山下を通り、広島駅に向かって真っすぐ進み、線路沿いを饒津神社まで行き、そこからまた牛田町に向かって真っすぐ行きました。途中、比治山橋まで来たとき、自宅に帰りたいと思いましたが、火災の熱気で熱く、橋を渡ることはできませんでした。すっかり日も暮れましたが、道は、避難する人々でいっぱいです。やけどをして、服もボロボロの人たちが、ゾロゾロと歩いています。途中で、力尽きて倒れる人もいて、たくさんの死体が転がっていました。全身焼けただれた人たちが「水、水」と言って、私たちに手を伸ばしてきますが、どうしてあげることもできません。「危なーい」と叫ぶ声がするので見ると、真っ赤に燃えた電信柱が倒れかかってきます。友達と二人で手をつなぎ、必死で逃げました。

牛田町の祖父の家に着いたのは、すっかり夜も更けた頃でした。

●弟の被爆状況
翌日、いとこと一緒に、富士見町の家の焼け跡に行きました。焼け跡に立て札があり、炭で安佐郡祇園町山本(現在の広島市安佐南区)の植田さんというお宅に弟が避難していることが、書いてありました。植田さんは、父が朝鮮赴任中に親しくしていた方で、我が家の疎開荷物を預かってくれていました。弟は、疎開荷物を運ぶ手伝いをしていたので、植田さんの家の場所を覚えていたのでしょう。いとこと私は、すぐに植田さんの家を訪ねていきました。

牛田町から、太田川を渡し船で渡り、祇園町に着きました。その渡し船の船頭さんは、被爆して顔にやけどを負っていました。次の日には、もうその船頭さんはいなくて、後で亡くなったと聞きました。

弟は、全身大やけどで、唇が腫れあがっていました。やっと会えて、二人で大泣きしました。
弟はとても動かせる状態ではないので、世話をするために、私が牛田町から祇園町まで通いました。

原爆が落とされた日、弟は建物疎開作業のため、土橋付近にいました。普段は、古田町にある軍需工場へ、学徒動員で働きに行っていましたが、たまたまその日に限って、市内中心部の建物疎開作業に出ることになっていたのです。原爆が落とされたとき、弟は、屋根の上で作業をしていたため、爆風で吹き飛ばされ、体を道路にたたき付けられました。血だらけの先生に「付いてこい」と言われ、弟を含む何人かが、己斐国民学校へ逃げのびました。弟は、そこから祇園町行きのトラックに乗せてもらい、植田さん宅へたどり着きました。トラックに乗せてもらうとき、「トラックに乗った途端死ぬ人が多いから、おにぎりを食べることができる人しか乗せない」と言われ、吐きそうなのに無理やりおにぎりを食べたと、言っていました。同級生の友達と一緒にトラックに乗りましたが、友達はトラックの上で「おかあさーん」と言って、亡くなったそうです。その友達は、東京は危ないからと広島に疎開して来て、原爆に遭いました。後日、お母さんが訪ねて来られたので、最後の様子を伝えました。

弟は「水、水」と言って欲しがりましたが、やけどの人には、あまり水を飲ませてはいけないと言われていました。私は「飲みすぎてはいけない」と弟に言い聞かせ、夜の間、水をいれたヤカンを置いておきましたが、朝には、すっかり空になっていました。ひどいやけどなので、喉が渇いてたまらなかったのだと思います。

弟は、ほとんど手当てらしい手当ては受けられませんでした。一度だけ、医者に診てもらっただけです。全身大やけどで、医者にも手の打ちようがなかったのでしょう。

弟の意識ははっきりしていて、「僕のことはいいから、お母ちゃんを捜してきて」とか「自分が家を建て直すんだ」というようなことを話していました。

食べ物は、においさえ嫌がり、全く受け付けませんでした。ただ、叔母が黄スイカを持ってきてくれたときは、「おいしい、おいしい」と言って食べました。弟は「もっと食べたい」と言いましたが、私は「また、明日ね」と言って、半分を残しました。しかし、その翌日に弟は亡くなり、「全部食べさせてあげればよかった」と、とても後悔しました。弟は、八月二十日に亡くなりました。最後は、ほとんど意識が無く、何か空をつかむようなしぐさをして、私を母と間違えたのか「母ちゃん」と言って亡くなりました。

亡くなる少し前に、もう危篤だからと、植田さんがお坊さんを呼んでくれました。弟は、お坊さんの声が耳に入ったのか、パッと意識が戻って、「姉ちゃん、僕を、焼いちゃだめよ」と言いました。僕はまだ生きているよと、知らせたかったのだと思います。弟が亡くなったとき、「焼いちゃだめよ」という言葉が心に残りましたが、焼かないわけにはいかず、結局焼いてお骨にして帰りました。

●母の被爆状況
親戚から、いつまでも自宅の焼け跡をほっておいてはいけないと言われ、被爆後一か月ほどたって、みんなで、焼け跡の捜索をしました。母の骨は、ちょうど家の縁側の所から見つかりました。「縁側から空を見ていたのかな」と、みんなで話しました。逃げのびた隣家の人の話では、被爆直後「大屋さんと呼んだけれど、返事がなかった」とのことです。その方も、しばらくして亡くなられたと聞きました。

●その後の生活
八月七日に、自宅の焼け跡から、埋めてあったお皿などを掘り出しました。それが悪かったのか、右肘の傷がひどく化膿して、しばらくの間、夜眠れないほど痛みました。

その年の十二月に、夫と結婚しました。夫は軍人として戦争に行っていて、乗っていた船が何度も沈んだけれど、かろうじて命が助かったと話してくれました。

戦後は、農地改革によって、お米も手に入りにくくなり、畑でサツマイモを栽培したりして補いました。多くの苦労がありましたが、母の兄弟が多かったので、親戚のみんなが、助けてくれました。

満州(中国東北部)にいた父は、ソ連のタシケントに抑留され、日本に帰国できたのは、昭和二十三年のことでした。抑留生活では、多くの日本兵が亡くなっていますが、父は医者だったため、それほど過酷な労働に従事することはなかったようです。赤十字を通じて、タシケントの父に何度かはがきを出しました。戦地に行く前、父は、家族に何か悪いことが起こっても隠さずに知らせてほしいと言っていたので、本当のことを書きました。何枚か書いたうちの一枚が、無事に父のもとに届いたようです。父からは、「あとをよろしく頼む」という返信が、私に届きました。

●平和への思い
戦争だけは、絶対に避けてほしいです。戦争は、本当に惨めなものです。人間はみんな短気だから、すぐ「やっちゃえ」ということになるのかもしれませんが、それで犠牲になる人たちのことを考えなければいけません。「平和」も、人によっていろいろな意味に使われますが、穏やかな政治を心がけてほしいと思います。身近なことで言うと、とにかく腹を立ててけんかをしないように、ということです。

 

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