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被爆体験記 
木原 正(きはら ただし) 
性別 男性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2006年 
被爆場所 広島駅(広島市松原町[現:広島市南区松原町] 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島鉄道局 施設部 広島電修場 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●原爆投下の瞬間
私は、岡山県津山の出身で、学校を卒業後、昭和十六年四月広島鉄道局施設部に就職しました。そのとき、十五歳でした。私は、技工士として継電器の検査・修理をしていました。当時は、朝七時には就業開始。南蟹屋町に役所があり、そこが広島鉄道局管内を一括していました。

六日は、呉線小屋浦駅まで学徒(仁保国民学校六年生)十名を引率し塩田の奉仕に出掛ける予定でした。当時、食糧難のため鉄道局が所有する線路脇の空き地に海水をくみ、塩を採っていました。集合場所が広島駅でした。呉線が十分遅れていたため、六日は八時十五分、ちょうど原爆が投下される時刻に発車と変更になったのです。列車の中では、仁保の学徒と雑談をしていました。私は、入り口のつり革を持ち、学徒たちは着席していました。空襲警報から警戒警報へ切り替えられ、警戒警報が解除されたか、私には記憶が無いのですが、とにかく高高度で一機だけブーン、ブーンと飛んでいたのは記憶があります。

呉線は、呉海軍工廠があったため、発車直前に車掌さんがよろい戸を下ろしていきます。呉線辺りは敵のスパイに撮影される、機密が漏れるとかで呉線には必ずよろい戸がありました。窓ガラスが外側にあって、内側の木製のよろい戸を閉めると絶対に開けられないのです。当日は、まだ車掌さんがよろい戸を下ろさないうちに、発車前にピカッと私たちは光を浴びました。

その瞬間と言うのは、とにかく何が何やら分かりません。昔は写真屋さんが三脚を使って黒い布をかぶって「はい、いいですか」と言って写真を撮っていました。そのときのフラッシュの何千倍の光が、目の玉がえぐり取られるような光が最初にきたわけです。そしてあとからドーンときました。辺りは、真っ暗闇です。職場の訓練通り、耳や目をふさいで伏せました。学徒たちも同じように列車の床に伏せました。幸いにも負傷者のみで直爆死した学徒はいませんでした。

よろい戸が下りていないため学徒たちは窓ガラスの破片であちこち切っていました。私は無傷でしたが、学徒たちは、顔をガラスで切ってワーンワーン泣いていました。屋根が落ちたホームから反対側の線路へ学徒たち一人ひとり抱えて降ろして、東練兵場へ避難しました。

練兵場はもう避難してきた人たちでいっぱいでした。一角にやっと負傷した学徒たちを休ませるための場所をとり、私は急いで役所へ向かいました。当時の宇品線線路に沿って南蟹屋へ進み、救急箱を取るため一目散に役所へ帰りました。

●被爆の惨状
役所は柱が折れ、大混乱の中、救急箱を探しあて、それを抱えてまた練兵場へ飛んで帰りました。線路で転んで擦りむいたり枕木につまずいたりしながらやっとのことで帰り着いたけれども、学徒たちは誰もいません。後日分かったことですが、家恋しさ、親恋しさに皆、帰っていったようです。

六日の晩は、役所から鉄道局職員の先輩や後輩の捜索、救助のため東練兵場へ救急箱を持って向かいました。負傷した足に包帯をして、職場で使う電池を二つ背負っていきました。その晩、練兵場で見た惨状のなかで強烈に記憶に残っていることがあります。それはほんとうに気の毒なお母さんと乳飲み子のことです。お母さんは、私の足音に気付き、「兵隊さん、兵隊さん、水、水を下さい」と言いました。乳飲み子を抱えたままお母さんは息絶え絶えに水を訴えました。おそらく、朝、この場所へ逃れて来て、飲まず食わずだったと思います。乳飲み子は乳房に口をつけたまま息をひきとっていました。もう手を合わせて私は先を進みました。この親子のような負傷者はいっぱいいます。とにかく「水くれ、水くれ」と言います。乳飲み子が死んだのは何とも言えぬ、今でも胸が詰まります。黙って立ち去りました。

一週間の捜索活動の中一人、一年先輩の方が見つかりました。しかし今でも気がかりなのが仁保の学徒たちのことです。十名がどうなっているのだろうか。練兵場で別れてからもうそれっきり消息が分かりません。今でも原爆の文字、新聞を見る度に、まず、仁保の学徒や鉄道局の先輩、後輩のことが頭に浮かびます。

翌昭和二十一年、私は鉄道局を辞め岡山へ帰りました。

●戦後の生活
岡山に帰ろうと思ったのは、親きょうだいが私を心配したからです。広島にいてもらちが明かないため、実家に戻り家業の和菓子の製造販売を手伝いました。私にはきょうだいが八人いました。当番制で父親の手伝いをしました。帰郷後も職を転々としました。広島へ戻ったのは、何年だったでしょうか。弟が大阪で事業をしていたのでそれを手伝った後、広島に戻りました。

被爆者の中には、原爆のために病気になったと言う人がいます。私も腸閉塞や胆石を取るなど手術は数回経験しています。原爆が災いしているのか。そんなことは分かりません。国からお金をもらおうとか思っていませんでした。被爆者健康手帳については昭和五十一年に取得しました。手帳の存在は大阪で検査を受けるときに初めて聞きました。

私は、原爆にあってもここまで生きてきました。つらいとは思いません。もうこれは自分の定められた運命です。もし列車があのとき、定刻通り出発していれば、向洋か海田方面に自分はいたでしょう。そうすると、こうして原爆体験を記録することもありませんでした。被爆していないということになるのですから。

原爆にあってずっと入院していたら苦しいかもしれません。元気だからつらくないと言えるのかもしれません。来年は八十歳になります。現在は、健康管理のために歩き、朝晩は必ず体操する毎日を過ごしています。

●平和への思い
戦争とか核を持っているとか最近報道していますが、日常生活において一人ひとりが「平和」という言葉を自覚してほしいと思います。「平和」とは非常に簡単なことだと思います。自分自身が自覚して、親のため、家のためにまずは「家庭の平和」から考えれば、自然と平和というものが生まれてくると思うのです。

親が子どもを殺し、子どもが親を殺す。他人様を傷つける、殺すなど毎日のように報じられています。これは、一つは今の親にも責任があると思います。私たちの時代は紙一枚も節約する もったいないと教えられました。この教えを守って私たちは育ってきました。だから私はいまだに子どもにやかましく言います。むだな電気をつけるな、むだなガスを使うなと。私があまりにも言うものですからうるさい親父だなと思われます。自分の子どもが生まれたとき、自分が親からやかましく言われてきたことを考えてほしいのです。世の中のため、親やきょうだいのため、子どものためと信念を持って生活すれば今日のような問題は起きないと思います。世の中の秩序を守ること、それが平和の始まりではないでしょうか。

もったいないとかこれは悪いことという教えが必要だと思います。こんな世の中でも田舎へ行くとほっとするようなこともあります。毎年、趣味で渓流釣りをやるのですが、朝早く川で釣っていたら、子どもが「おはようございます」と言います。これには「ご苦労さん、おはよう」と応答したくなります。街の子は顔見知りの子でもものも言わないし、あいさつをしない。そこからつまずいています。

私が被爆体験記を書くようになった時期は他の被爆者よりも遅かったと思います。今では時間もあり、過去を残しておきたい、そんな気持ちで書きました。先ほど書いたように練兵場でお母さんが死んだ乳飲み子を抱えたまま息絶え絶えに水を要求している、その状況を思い浮かべてください。震災など自然災害とは違った人間の惨めさ、地獄を感じてほしいのです。平和について考えてほしい。そして八月六日の式典などの行事をこれからも続けてほしいと思います。
 

 

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