国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
悲惨な過去の上にある現在 
木村 巖(きむら いわお) 
性別 男性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2010年 
被爆場所 三菱重工業㈱広島造船所(広島市江波町[現:広島市中区江波沖町] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島市立造船工業学校 造船科 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆体験を語る決意
現在七十八歳の私は、観光タクシーの運転手として現役で働いており、今年で四十九年目になります。若い頃は原爆の話をすることに抵抗があり長い間、口をつぐんでいました。十三歳で父を原爆で失い、自らの手で荼毘に付したことなど当時を思い出すと、話そうとする気持ちとは反対に言葉が詰まり、とても話すことができなかったのです。ようやく少しずつですが原爆のことや被爆した家族のことを、乗車してくれたお客さんに話すことができるようになったのは、父が亡くなって二十年以上も過ぎた三十代半ばになった頃でした。広島駅から平和記念公園までの短い乗車時間の中で語る私の体験に大変熱心に耳を傾けてくれる人がいる一方、「自分には関係のない話だ」というように全く関心を示さない人がいることも事実です。以前、気心の知れた古い友人に、「もう原爆のことなんて関係ないだろう」と言われたときは、さすがに複雑な気持ちでした。

最近では、原爆小頭症患者や家族・支援者で組織する「きのこ会」の活動にも積極的に参加するようになりました。きっかけを与えてくれたのは妹の君代です。君代は、被爆した母と原爆小頭症の弟を夫婦で長年支えてくれましたが、三年前に癌で亡くなりました。もちろん私にとっても弟のことですから、放っておくこともできませんし、弟の将来が心配です。そういったこともあり、私は原爆のことを知ってもらいたい、残しておきたいという気持ちが次第に強くなりました。兄弟に被爆体験を残したいと相談したところ、快諾してくれたので今回、書き記す決意をしました。

●被爆前の生活
我が家は元々、電車道沿いの天満町で長屋の一角を仕事場兼自宅として使い、食堂などに納める巻き寿司や箱寿司、押し寿司を作っていましたが、戦局の悪化に伴い段々と米が手に入らなくなり廃業しました。そこで父は、「陸軍御用商人」の鑑札を取り、「酒保」の仕事を始めます。酒保とは、軍の施設内や艦船内で食料品等を販売する売店のようなものでした。母が自宅で仕込みをしたうどんやぜんざい、おでんなどを部隊内で販売し、それが飛ぶように売れたといいます。ですから、私や兄弟姉妹も幼い頃から家業の手伝いをするのが当たり前の生活でした。

昭和十九年四月、父の「これからは工業の時代だ」という勧めと、自宅からも近いということで市立造船工業学校(旧市立第一商業学校から改称)に進学を決めました。授業は入学した当初は少ないながらも行われていましたが、徐々に農作業等の勤労奉仕や教練の時間へと変わっていきました。二年生からは毎日が勤労動員作業になり、勉強どころではなくなりました。私たち造船科の生徒は、江波町にあった三菱重工業広島造船所内で溶接の実習を重ねており、あまり勉強が好きでなかった私は内心助かったと思っていました。

昭和二十年八月当時は、家屋疎開のため、立ち退きに遭い、広瀬北町に転居していました。自宅には、父・健次(四十五歳)、母・カズヨ(三十七歳)、広島女子商業学校に通うソロバンの得意な姉・清子(十六歳)、天満国民学校一年生の弟・泰敏(六歳)、妹・順子(四歳)と色白でかわいらしい光子(二歳)と私(十三歳)の計七人で暮らしていました。長男(十八歳)は満州(中国東北部)に志願兵として出征中、国民学校六年生の君代と四年生の勉は比婆郡東城町(現在の庄原市)へ学童疎開中で不在でした。

●八月六日
この日の朝も、いつもと同じ造船所の作業のため、私たち学徒は鉄骨で組まれた船台の下に集合して作業開始の合図を待っていました。溶接の実習もやっと終了し、現場に出るようになってまだ数日目であったと記憶しています。八時が過ぎ、作業がもうそろそろ始まる時間になろうとしていました。そのとき、飛行機の爆音が聞こえてきたのです。警戒警報が解除になっていたので、「あれ、おかしいな」と思った瞬間、ピカッと閃光が走り、ドーンという衝撃と爆風を受け、私はすぐに頭を抱え込み防御の姿勢を取りました。幸いなことにけがはありませんでした。工場で何かトラブルでも起こったのだろうかと思いましたが、一体何が起こったのか全く分かりません。しばらくして外がザワザワと騒々しくなったので作業場から出てみると、血を流しながら走っている人が見えます。爆風で飛んできた物が当たりけがをしたのでしょうか。江波山の北側上空にはモクモクと雲が立ち上っていました。後で知ったことですが、これが原子雲だったのです。

造船所でも詳細はつかめないのか、私たち学生は足止めされ、その場を離れることはできませんでした。午後三時頃になって、やっと自宅へ戻る許可が下り、そのとき「これから自宅へ帰って、寝る所がなければ、もう一度ここへ戻ってきてもよい」と言われました。私は早速、自宅を目指して天満川の左岸沿いの畑が続く土手道を北進することにしました。土手筋には放心状態の人が座り込んでいました。私たち学生は皆、巻脚絆(ゲートル)を付けて兵隊さんのような格好をしていたからでしょうか、座り込んでいた人に「兵隊さん、助けてくれ」と声を掛けられましたが、子どもの私にはどうすることもできません。しばらく歩き観音橋付近まで来ると市内中心部がまだ燃えているのが見えました。周りはブスブスとくすぶり続け、その熱気がそれ以上中心部へ進むことを諦めさせました。そこで、母の実家が南観音町にあったことを思い出し、何か分かるかもしれないと立ち寄ってみることにしました。観音橋を渡ると、被爆した人たちが橋の両側の欄干にもたれかかり、「兵隊さん、助けてくれ」、「助けてくれ」と先ほどと同じように声を掛けてきました。しかし、母の実家に向かうことで頭がいっぱいの私には何もできませんでした。

母の実家は天井が落ち、家の中はひっくり返したような状態でした。必死に片付け作業に追われる祖母に、「何か、家から連絡があったか」と尋ねるとたった一言「無い」と答えた祖母の寂しそうな顔は今でも忘れられません。私は、このような状態では今夜ここに泊まることもできないと思い、造船所に引き返すことにしました。

造船所に戻った私は、敷地内の砂地を掘り盛り土をしたような小さな防空壕で夜を過ごさなければなりませんでした。真っ暗で狭い防空壕の中で横になりましたが、今日起こったことを思い出すと興奮してとても眠れるはずもありません。私と同じように造船所に戻ってきた友人も数人いましたが、自分たちの家族の消息や街の様子などを話したという記憶はありません。造船所を出るときには、「土橋の方で爆弾が落ちたらしい」といううわさを耳にして、自分の家はきっと無事だろうとそのときは信じていましたが、実際に街へ出るとそんな状況ではありませんでした。不安を抱えたまま、防空壕の中で、じっと夜が明けるのを待っていました。

●家族を捜して
翌朝、ぞろぞろと郊外に向かって避難する人たちの後ろについて、造船所を後にします。広瀬北町の避難場所に指定されていた安佐郡古市町(現在の広島市安佐南区)の国民学校へ向かうことにしました。昨日と同じ道を進む途中、救援に来た兵隊さんが炊き出しのむすびを「食べてけー、持っていけー」と配っていました。丸一日まともな食事をしていなかった私は、むさぼるように口へむすびを押し込み食べながら歩き続けました。その姿を見た上級生に「学校の恥だ」と怒鳴られましたが、空腹には勝てません。真夏の暑さの中、歩き続け喉が渇くと道端の民家の手押しポンプを使って水を飲み、一生懸命、古市の国民学校を目指しました。私が持っていたのは、常に身に付けていた防空頭巾の入った袋一つきりでした。学校に到着したのは夕方の三時か四時頃だったと思います。入り口付近に張り出された被災者名簿の中に家族の名前が無いか必死に探しましたが、ありませんでした。学校には大勢の人たちが避難していましたが、お医者さんや看護婦さんの姿は無く、古市の地元町内会の方や婦人会の方たちがボランティアでお世話や手当てをしているようでした。そこで榎町の知り合いの子を見付け、近くにあった寺の縁の下を借りて二日目の夜は一緒に休むことにしました。

●家族との再会
三日目、榎町の知り合いの子とは寺で別れ、安佐郡祇園町長束(現在の広島市安佐南区)へ行ってみることにしました。ここは、姉の嫁入り道具やミシンなどの荷物を疎開させていた親戚の家(叔母の実家)で、以前父は弟の泰敏を連れてリヤカーで二度ほど荷物を運んだことがあったからです。

長束の家に着くと、驚いたことに泰敏がいました。国民学校一年生の足でよくここまで来ることができたと感心しました。泰敏は学校で被爆し、建物の下敷きになりましたが校舎の基礎が高かったので、その間に体が挟まり助かったそうです。顔中傷だらけで、長束に来てから倒れて二日間は寝ていたと聞きました。とにかく無事でいてくれたことが何よりもうれしかったのを覚えています。また、叔父が長束の家を訪ねて、古市の学校で私たちの両親の名前を見付けたことを教えてくれました。残念ながら、まだ本人たちには会えなかったそうですが、両親が生きていることに安心し、私は次の日に学校へ行くことにしました。

四日目、学校の入り口で父を見付けました。父はふんどしとネルの腰巻きを着け、上着を羽織っていましたが、とても見られた格好ではありませんでした。しばらくして、こぎれいなズボンに履き替えていましたが、自宅のトイレに入っているときに被爆したから仕方がなかったのでしょう。父は自宅に一緒にいたはずの順子のことは、私に何も話してくれませんでした。たまたまその日自宅を訪問中であった父の友人から聞いた話では、「被爆直後の衝撃で、上半身は壁土や木材の下敷きになり足だけバタバタさせている順子ちゃんを見付け、お父さんと二人で一生懸命引き出そうとしたんだよ。そのうち、火が回ってきたから、もうダメだと思って、まだ順子ちゃんを助け出そうと必死になっているお父さんを無理やりその場から連れ出したんだ」とのことでした。子煩悩な父は、胸を引き裂かれる思いだったと思います。そのときの父の気持ちを考える度、私はいつも切なくなるのです。

父に泰敏が元気で長束にいることを報告すると、父は大変喜んでくれました。父からは、母が意識不明の状態で教室に寝ていることを聞き、私がそのまま母の世話をすることになりました。母は六日の朝、自宅近くの北広瀬橋東側付近に光子を連れ勤労奉仕作業に出ており、屋外でリヤカーを引いていました。そのとき被爆したため両肩・肘・指・手の甲にやけどを負っていました。母を見付けた父は、とてもひどいやけどで動かすことができず、川土手で二晩過ごし、やっと学校まで運んだそうです。川土手で寝かされていた母が土手下へ転がり落ち顎の骨が折れたことも聞きました。意識不明の母の顔を見ると、顎の左側に折れた骨が飛び出していました。一緒にいた光子のことを後日意識の戻った母にたずねても「分からん」とか「吹っ飛んだ」と言うばかりで何も説明してくれませんでした。

私は父と交代で、母の看病と家族の捜索をすることにしました。父が家族の捜索を主にし、私が母に付き添い世話をすることを主にしていました。八月六日当日、動員先の芸備銀行本店から天神町の家屋疎開作業に従事していたはずの姉・清子の行方がまだ分からなかったからです。父は、自宅の焼け跡から順子の骨を、北広瀬橋近くで光子と思われる骨を掘り返し持ち帰っていましたが、姉については何も話してくれませんでした。父は市内へ何度も入ったことが悪かったのか、八月の終わり頃に急に体調を崩します。声がかすれ、体に斑点が出たり、髪の毛が抜けたりしました。当時は放射線障害という知識がなかったので、風邪でもひいたのだろうと言っていました。ある日、夜中に目覚めるとそばにいるはずの父の姿が見当たらず、急に不安になった私はトイレにでも行ったのだろうかと、生活していた学校内を捜しました。歩き回っていると、門の所に倒れて死んでいる父を見付けました。被爆直後の父には両肩に小さな傷があったことと、目が真っ赤になっていたことを除けば、やけどや大きなけがはありませんでした。「長束へ帰りたい、帰りたい」と言っていた父が亡くなったのは、一か月後の九月五日のことでした。

●避難所を後にして
父の死からしばらくたった九月十七日夜半、枕崎台風が襲いました。安川の堤防が決壊し、私は病床の母を背負い避難しました。真っ暗な中どうしてよいか分からなかったとき、見知らぬ人が私たちを窓枠につかまらせてくれたので、流されることはありませんでした。遺骨は学校に見舞いに来てくれた知人に預けていましたので無事でした。

被爆後、下痢の症状は少しありましたが元気だった私もこの頃、何となく体のだるさを感じるようになっていました。しかし、病床の母や弟、妹のことを考えると自分の体を気にする余裕はありません。泰敏は、脱毛したり口の中に小豆大の血の塊ができたりしていました。

十月に入ると学校に避難していた人たちも徐々に少なくなり、学校の再開もあるのでしょう、学校から出て行ってほしいと言われたので、追い出されるように長束の親戚の家へ一時身を寄せることにしました。学童疎開中であった君代と勉は、一度南観音町の母の実家に戻ってきていましたが、長束でやっと再会することができました。それから、三滝町の叔母の家でもお世話になりました。いずれにしても居候の身でしたので肩身の狭い思いをしました。

●生活再建
昭和二十年の終わり頃、君代は昔の知り合いを頼って、かつて家族が暮らしていた天満町の焼け跡の土地を借りる相談をしていました。地主が生前の父を知っており、信頼してくれたことが助けとなり無事借りることができました。その土地に家族が住む小屋を建てたのですが、小屋といっても私が廃材を使って見よう見まねで造った粗末なものでしたから、家の中に雪が降り込んでくるといった具合です。出征中の兄はまだ戻ってきてはいませんでしたが、母と君代・勉・泰敏・私の五人で何とかしのげる生活に一息つけました。その頃母は起き上がれるまでに回復し、ゆっくりでしたが動くこともできるようになったばかりでした。母はそんな体にもかかわらず、いつ寝ているのだろうかというほど働き詰めの毎日でした。生きることに必死だった私たちも再開した学校に通うこともできず、働いていました。何か仕事があれば、遠方でも住み込みでも構わず働いたので、残った家族が一緒に暮らせたのもほんのわずかな間でした。

●弟の誕生
昭和二十一年三月、母が寝ていた君代を起こし「子どもが生まれたから産婆さんを呼んできて」と言うので足元を見たらもう生まれていたらしいです。産婆さんにへその緒を切ってもらったそうですが、まさか母が妊娠していたとは夢にも思いませんでした。母は大柄でしたので、妊娠していることに気付いた家族は誰もいませんでした。

母は、子どもが生まれて一週間もしないうちに、生まれたばかりの勇次の世話を君代に任せ再び働き始めました。家でむすびを作って売り、売った代金でヤミ米を仕入れ、またむすびを作るというように、生きるために一生懸命でした。

●結婚
私は二十九歳の頃、一度結婚しましたが縁がなかったのか別れました。その後、十六年前に他界した妻と再婚しましたが、子どもは授かりませんでした。病院での検査の結果、原因は私にありましたが、おたふく風邪の影響だったのか幼少期のけがのせいなのか、あるいは原爆に遭ったことが原因であったのかは今となっては、はっきりしません。詳しい検査を受ければ事実は判明したのかもしれませんが、妻が「夫婦二人の生活でいいよ」と言ってくれたことと、分かったところで何も変わらないのであれば、それ以上の検査をしてもどうすることもできないと思い、精密検査は受けませんでした。

自分たち夫婦に子どもがいなかったこともありますが、泰敏に子どもができたとき、自分のことのように心配しました。無事生まれた子が成長して、「膝が痛い」と訴えたときは、原爆の影響ではないかと恐ろしく感じましたが、成長期による痛みだと分かりホッと胸をなで下ろしたこともありました。

●平和への思い
私たち一家は、戦後皆が苦しい時代だったにもかかわらず、親戚や周りの大勢の方々に助けられました。父の周りの人に対する親切や思いやりの気持ちがあったからだと思います。父が残してくれた「人からの信頼」は、どんな物にもかえがたい財産です。父には今でも感謝しています。

私が体験したことを通じて若い人たちに知ってほしいことは、現在の平和な時代が、悲惨な過去の歴史の上に築かれていることです。失われた多くのものを礎にして築かれた平和であることを分かってほしいのです。広島の人は皆、原爆で大切な人たちを失っています。私の家族は、姉と二人の妹は八月六日当日に、父は約一か月後に、母は昭和六十年の暮れに癌で、それぞれ亡くなりました。つらい思いをしたのは自分たちだけではないのです。障害を持った勇次のことについても、「兄弟だから」、「兄弟だからこそ」という思いでとらえています。何があろうと、切っても切れないのが「絆」なのです。皆さんの生活の中でも親子や兄弟姉妹・友人、周りの人たちとの絆を大切にしてほしいと思います。そういった思いが、戦争の無い世界を築く第一歩になると、私は信じています。

 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針