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遠い雲 
木村 知博(きむら ともひろ) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2014年 
被爆場所 三菱重工業㈱広島造船所(広島市江波町[現:広島市中区江波沖町]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 修道中学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

バスの中から呉水道の向こうの青空を背に、古鷹山など江田島の山々が背を連ねているのが見えた。その上を冬雲が南へ流されていた。妻に付き添われて呉の国立病院へ行ったのが今年の初仕事であった。海上保安大学校の上辺りで反対の魚見山側を振り返り「この上の山径を幼稚園の頃、独りで吉浦から両城のおじいちゃんの家に行って、おじいちゃんに連れられて帰ったのだが、家では私を探すのに大騒動だったそうだ。」と妻に話した。三キロメートル半の道程である。このときの家は潭鼓町の現在の国道魚見山トンネルの入り口にあった。八〇年前の話である。

魚見山トンネルは川原石まで八〇〇メートル余ある。第二次大戦中に工事が進められ、戦後開通した。私の家は昭和二〇年の終戦の年の初夏、工事中のトンネルを広航空廠の地下工場に転用するため強制疎開になり、その後、吉浦町の東北側にある谷間の新出町に引っ越しした。家が取り壊された直後、終戦になった。私が中学四年生のときである。小学生の頃、魚見山によく登った。魚見山からは呉軍港に停泊している多くの軍艦が見られた。建造中の大和、小型空母の鳳翔などの記憶がある。太平洋戦争開戦まで気楽に山登りはできたが、戦争半ばになると機銃陣地などが出来、山には登れなくなった。

ここで私は自分の青少年時代の記録を子、孫たちに書き残しておきたくなった。いや、私自身の記憶の整理をしたくなったのかもしれない。以下、中学時代から社会に巣立つまでの記憶に残ることを記しておく。

[中学低学年の頃]

私は呉一中の入学試験に失敗している。私の組の成績トップのS君も駄目だった。このとき、県会議員の一級上の息子が広島一中に入ったこと、金持ちの子が呉一中に入った話など、少年としては初めての社会の裏話を聞いた。S君は呉の私立中学に行ったが、後日、難関の陸軍幼年学校に入学した。私は広島の私立修道中学の入学願書の写真を乾かしながら、締め切りに間に合うように修中三年生の親戚の方に依頼した。

受験前のシンガポール陥落直後、戦勝祈願と中学合格を願って初めて宮島にお参りに行った。修道中学に入ったのは大東亜戦争開始四ヶ月後の昭和二一年四月であった(修中三七期[四年卒]・三八期[五年卒])。

修中入学当時の校長は半世紀を教育界に捧げた盲目の吉田先生であった。しかし、入学式で講話を聞いた後、逢うことはなかった。四月に旭川師団長を退任して故郷の広島に帰っていた国崎登中将が後任校長として赴任して来られた。この間の事情を上杉誠一氏は「秘話で綴る旭川第七師団」丸別冊、太平洋戦争証言シリーズ一九、 秘めたる戦記.(一九九一).の第二章「かかる将軍ありき」でつぎのように述べている。

開戦後、毎月八日を大詔奉戴日として戦意高揚の式があったが、そのとき目の悪い校長が詔書の一節を読み落とした。そして校長は別れの言葉も残さず学校を去った。(入学時に貰った「修道中学校保護者会 会員名簿 昭和十七年度入会者」の学校長名は空欄になっている。) 一方、国崎師団長がいた旭川師団では、昭和一六年秋に、ある小隊長が上司の部隊長夫妻、他一名をピストルで射殺する事件があった。いじめなど両者の確執が原因であった。師団長はこの責任とって東條首相に辞表を出した。国崎中将は杭州湾敵前上陸、南京攻略戦で武勲をあげた閣下であり、詔勅誤読事件で、軍部が軍人校長を送り込んだもので、配属将校などの軍隊式規律が強まることを学内では予想していた。しかし、国崎校長は南京事件、ノモンハン事変の悲惨さなどを経験し、自身も次男をシンガポールの激戦で失っておられた。校内の私的制裁、体罰なども禁止させ、配属将校などが生徒の陸士、海兵、予科練などへの出願を強制することを止めさせた。私には軍人と云うより好々爺の印象が強い。戦後わだつみ会の事務局長をした梅靖三氏(修中三六期、昭和二〇年卒)が少年兵に志願しようとしたとき、「戦場で死ぬだけが国に尽くす途ではない」と諭されたそうである。梅氏は、国崎中将を反戦軍人として位置付けている。戦局が押し詰まり、昭和一九年七月に再召集、旭川留守第七師団長、旭川師管区司令官を務められた。この再召集は私らが勤労動員中で見送ることもできなかった。

しかし、この校長のかげで配属将校や予備陸軍少佐だった歴史の教師が威張りだした記憶がある。戦時の止むを得ない事情であろうか。マレー作戦に従事した配属将校が、全校生徒を集めた講堂で作戦の講演をしたとき、プリンス・オブ・レパレスを轟沈し、ゴム林ばやしを突破してと話し、みんなの苦笑をかったことがあった。お目玉を頂戴したことは云うまでもない。

私は中学時代から就職後しばらくの間は、通常の文学作品を読むことが多かった。中学時代には、「レ・ミゼラブル」、「宮本武蔵」などが記憶にある。変わったもので「昭和維新」がある。あるときこれを担任の白木先生(陸軍予備少尉・教錬担当)に話したところ、拙そうな顔をされた憶えがある。白木先生は軍人ではあったが苦労人の印象が強い。昭和の五・一五、二・二六事件などの思想、行動の記録であったのがひっかかったのであろう。この本は同じ四組の級長をし、呉から一緒に列車通学をしていた福井俊平君から借りたものである。俊平(クラスではこのように呼んでいた)は、海軍の予科兵学校から復員後東大に行き、昭和二七年に本郷キャンパスで起きた「ポポロ事件」を起こしている。その判決は最高裁までいった。その後、俊平は前進座と共に中国に行ったとの話を聞いたが、同級生で以後の消息を知るものはいない。四組の副級長は三原から寮に入っていた勝村達喜君で、彼も予科兵学校に行き、戦後医師の道を歩み、川崎医大病院長、学長を務めた。

同じ四組に田中正晴君がいた。彼は私より一年遅れて函館高等水産学校(現北海道大学水産学部)に入学したのであるが、二年生のとき父君が亡くなり、長男の彼は機械工具、ゴム製品販売の家業を継ぐため退学し広島に帰った。その後、彼は岡山の水島に店を拡大した。現在引退し趣味の文筆を楽しんでいるが、平成一〇年には作品「オブリガード 命の水」が第一回倉敷市民文学賞、翌一一年には海を題材にした「数の子」で壷井栄生誕百年記念エッセイ優秀賞を受けている。更に、修道学園(中・高)同窓会報「修道」七五号.(二〇一一)に、「咲いた桜・散った桜」と題して修道中学の寄宿舎で同室だった四年生から一年生までの四人のことも書いている。三年生が上述の勝村達喜君、二年生が日本画家となった平山郁夫先生で、一年生の岡野壮一郎君は原爆の日、疎開作業に出て被爆し、迎えに来た母と因島の実家に帰り亡くなっている。別途、田中君は「平山郁夫画伯に画を教えた勝村君」との短文を書いているが、この「咲いた桜・―」によると、厳しい図工の山本四郎先生から画の宿題を云い渡され、画が完成してない平山君を見かねた勝村君が、デッサン、色彩などを手伝って完成させた。この画は長いこと図工室に張り出されていたと述べている。

田中君は、平成一一年三~四月に三回にわたり倉敷新聞に「原爆異聞」として、昭和二〇年七月二八日に沖縄から呉周辺の艦船爆撃に飛来し、広島北部の沼田に撃墜されたB29、ロンサム・レディ号の乗組員七人と原爆のことも書いている。後日、田中君はNHKのニュースで、唯一人原爆を生き延びたこの機の機長が、墜落地点の柳井市伊陸を訪れたことを見て、墜落場所の訂正をしている。「呉空襲記」中国新聞.(一九七五)によると、「二八日は広島周辺の高射砲陣地の一斉射撃でB24が一機撃墜され、飛行士七人が廿日市署管内で捕まり中国憲兵隊にひきわたされた。」とある。この墜落位置は、二八日に江波上空で撃墜され、私が見に行った五日市奥に墜落した機に類似するが、私の見た落下傘降下人数は二人で相違する。そのB24の撃墜状況は、頭上高度二〇〇〇メートル位の低空で被弾、墜落したもので、墜落現場にも行ったので確実な話である。呉で被弾した機と、私の頭上で被弾、墜落したB24は別の機と思われる。昭和二〇年に話が飛躍してしまった。

中学一年生に戻る。泊まり込みで瀬野町の暗渠排水作業に農家に一週間くらい宿泊したこと、稲刈りの手伝いに可部のお寺に泊ったことがある。勤労奉仕は日帰りの陸軍兵器廠が多かった。弾薬庫、浄水場工事、そして吉島の埋め立て工事もあった。

二年生のときだったか、軍事教錬の行軍で、南千田町の学校から祇園まで行軍し、最後に武田山四一一メートルの頂上まで分隊単位で競争させられたことがあった。また、歩き方がだらけていると井の口から廿日市まで駆け足をさせられてことも思い出される。勉強以外の記憶が多い。

「戦艦武蔵の赤い糸」

中学二年生、昭和一八年夏のことであった。呉市の西にある狩留賀浜海水浴場に泳ぎに行ったときのことである。戦時中のことで人は余り多くなかった。目の前は江田島との間の幅約二キロメートルの呉水道である。このとき、呉軍港側から大和級戦艦二隻と長門級一隻が、主砲を右舷に仰角をつけて堂々と出て来るのを目近に見ることができた。巨大な戦艦である。塗装も新しく、砲門の真鍮部分は金色に輝いていたのが瞼に焼き付いている。

しかし、後日になってこの日の正確な日付が思い出せない。また、長門級は長門、陸奥と二隻で戦隊を組んでいるのに一隻足りないことに気付いた。長い間疑問として私の脳裏に引っかかっていた。

昭和六三年の雑誌「丸」エキストラ版一一八号、吉村昭「戦艦武蔵」新潮社文庫、他によって多くの疑問が氷解した。長門級戦艦一隻は長門で、陸奥はほんの少し前、昭和一八年六月八日に柱島沖で謎の爆沈をしていたのだ。昭和一八年二月一一日に連合艦隊の旗艦は大和から武蔵に変わり、六月九日に二代目艦長の古村啓蔵大佐が着任し、六月二四日、横須賀に天皇の行幸があった。その後呉に回航、二七日に入港した。

七月三〇日に呉港を出港し、愛媛県長浜沖で特殊潜航艇の訓練を見て、翌三一日にトラック島に向けて十数隻の巡洋艦、駆逐艦を従えて出航したのである。即ち、私が戦艦三隻を見たのは、昭和一八年七月三〇日で、戦隊序列は武蔵、大和、長門であることが分かった。この長浜寄港について吉村昭氏は「戦艦武蔵ノート」のなかで、「古村啓蔵氏が戦後[古賀連合艦隊司令長官が特殊潜航艇回天の訓練をみたいとのことで長浜に寄った]と話したが、このときに回天は未だ造られていなかったから疑問である」と記述している。しかし、広島県水産試験場の用地が、戦時中特殊潜航艇「甲標的」(ハワイ攻撃の潜航艇)の製造・訓練基地であったことの関係で、また東京高等商船学校出身の予備学生だった広島のかき養殖業者の方が、長浜で「甲標的」に関係していたことから、長浜はこの時期「甲標的」の訓練基地だったので寄港したと私は推定している。古村啓蔵氏が「回天」と「甲標的」とを間違えて話したものであろう。

長々と話したのは、このときの武蔵の艦長古村啓蔵大佐は、私と水産講習所で同じクラス(漁業科五二回生)古村肇君の父君であったからである。古村君は海軍兵学校から戦後水産講習所に入り、三年生のとき私とは寮の同室であった。演劇に熱中し、麻雀好きで隣室からクレームがしばしばあった。試験のときには私のノートは彼に没収されていた。父君が久里浜の寮にみえられたのに逢っている。更に、父君の第一種軍服を、古村君を通じて頂いたことを思い出している。しかし、父君が武蔵の艦長であったことを知ったのは卒業後のことである。父君は大和の沖縄特攻のとき、第二水雷戦隊司令官(少将)で、爆沈した軽巡矢矧に乗っておられた。昭和一八年にみた戦艦武蔵の艦長の服を私が着ることになったのは不思議な因縁である。古村君も数年前に亡くなった。

[中学高学年のころ]

昭和一九年六月頃から中学三年生の私たちは、江波沖町の埋立地に造成された三菱重工業広島造船所に勤労動員されていた。当初はウインチで鉄板運搬の作業が主であった。

一九年の夏、二ヶ月ほどの短期間であったが、広島高等師範の動員学生の中野忠善さんが私たちの班長をしておられ、艤装中の船の陰で「広島高師の山男の歌」を教えてもらった。中野さんが海軍予備学生として出陣するとき「山男の歌」を扇子に書いて頂いた。戦後、昭和五〇年代半ば、芹洋子の「坊がつる賛歌」を耳にしたとき、私は「山男の歌」ではないかと直感した。福井市に復員し高等学校の校長をされていた中野さんも同窓会でそれが話題になったと知らせて来た。新聞などでこの経緯を知ったが、私としては大切な思い出の歌が替え歌で歌われていることには釈然としない蟠りがあった。平成一二年一二月、JAC(日本山岳会)の年次晩餐会で、テーブルマスターをされていた現JAC副会長の西村正晃氏から同席の九州支部の松本征夫氏を「坊がつる賛歌」の作詞者として紹介された。その時の複雑な気持ちは今でも記憶に残っている。松本氏は明朗な方で。山口大学の地質学の教授を退官後、チベット東部の踏査に活躍され、「横断山脈研究会」でお世話になった。平成二三年に亡くなられた。中野さんは昭和六二年一一月二〇日、松山への出張途中で広島に寄られ、想い出の江波山の上のレストランで会食を共にした。残念ながらその後暫くして亡くなられた。

昭和二〇年三月一九日には、米軍の沖縄上陸の援護攻撃として、米五八機動部隊の艦載機約三五〇機による呉湾周辺の残存聯合艦隊への空襲があった。このとき私は休み明けで、呉市吉浦の実家から広島に帰る途中の列車にいたが、列車は狩留賀西のトンネル内で停車し、私は止むを得ず家に帰った。高射砲弾の小さな破片がビシ、ビシと路に跳ねる音が聞こえた。

その後四月三〇日に、広島市の市街地に爆弾が数発落とされた単機の空襲があった。私はその火災の煙を、他言は出来ない行為であったが造船所のクレーンの上から眺めた。その後、広島市の青空を背に、北東から南西に飛行機雲を長く引いて、銀色の双胴機(多分P三八の偵察型)が飛行したのがみられた。

七月に入ると、一日の呉市街地の焼夷弾爆撃、二四日の呉の艦船を対象に艦載機約八四〇機の空襲、二八日には艦載機九五〇機、B29、B24、約一一〇機の空襲があった(機数は「呉の歩み二」呉市役所(一九九六)による)。七月下旬に私の見た日本の迎撃機は江波対岸の吉島飛行場に緊急着陸した単発戦闘機一機のみであった。淋しい防空戦と思われた。この七月下旬の空襲で、残存連合艦隊の艦船、戦艦三隻、空母四隻、重巡三隻他多くの艦船が沈没した。この艦船の沈没について。別宮暖朗氏は[大日本帝国の「負け方」の研究]文芸春秋.(二〇一三.三)で、「戦艦などは魚雷でなければ沈没させることは出来ず、これらの被害はポッダム宣言を受諾することを知ったことで、敗戦後の艦船引き渡しに対処するために自沈処分を開始したのだ。」と述べている。戦艦艦長二名他、千人以上の戦死者を出した防衛戦の記録などもある。年月を経ると残念な発言も生じてくるのであろうか。

七月前半の空襲警報のときには江波山の横穴防空壕に避難したこともあった。後には造船所西の埋め立ての砂地に掘った蛸つぼ防空壕に避難するようになった。

この蛸つぼでは、七月二八日に呉の艦船を爆撃して高度二〇〇〇メートルあたりを堂々とした編隊で帰途についていたB24が、頭上、ほんとに真上で高射砲弾の直撃を受け五日市奥の山間に墜落したのを見た。脱出した二つの落下傘が観音の三菱造機方向に降下した。開けた埋立地は絶好の観覧場所であった。 このときB24の編隊が頭上まで来ても爆弾が落ちてこないので助かったと思ったことが生々しい思い出としてある。「空白の天気図」では、高射砲隊のB24撃墜の記録はないようだ。前述の田中君が記述したロンサム・レディ号とは異なるB24と考えられる。好奇心の強い私は、多分八月一日と思うが、休業日に五日市の級友三浦淳君とB24の墜落現場まで行き、分解、飛散した機体をみた。町から遠い山中であった。焼け残った部品の陰に、草色の軍用靴下を穿き切断された下肢を見出した。周辺は火災と焼死体の臭いが漂っていた。小さなジュラルミンの破片を拾う。

 [柳田邦男の「空白の天気図」]のあらまし(以下、この章敬称略)

昭和二〇年八月六日、私たち修道中学四年生は原爆に逢うのであるが、その前に柳田邦男氏の「空白の天気図」新潮社(一九七六)についてその要約を記す。これは、広島市江波町の江波山にあった広島地方気象台職員の「原爆」、「枕崎台風」時の厳しい生きざまの記録である。私は気象台から五〇〇メートル南で被爆し、枕崎台風も呉で大きな山津波に逢っている。この作品は氏がNHK広島支局の記者時代に集めた資料を基に書きあげた大作であるが、私の体験と接合することも多く、発刊当時、のめり込むようにして読んだ。昨平成二五年一〇月、後藤正治「探訪 名ノンフィクション」中央公論社(二〇一三)が発売された。氏なりに名著と思われた書を一八点あげている。そのトップに柳田邦男「空白の天気図」をあげて解説をしている。

 (原爆から終戦)

第二次大戦が開始されると、気象台の観測資料、気象予報の発表は禁止された。時の中央気象台長は藤原咲平、広島地方気象台長は平野烈介であった。

八月六日の朝、北技手は観測資料の受信作業などをしていた。八時一五分、閃光が走り、直ちに床上に伏し、一~二秒後天地が避けるような爆風が通過した。事務室では血を流した台員が一〇名位いた。北方の市街地をみると、江波山周辺の住居はほぼ元のままであるが、舟入辺りから市の中心部の家屋は姿を消し、一面に白い砂塵が舞い上がり砂漠のようになっている。その二〇分後には市内の各地で火柱が上がりはじめた。気象台内では傷の手当て、陸軍病院江波分院への担送を行った。幸い多くの観測器具は無傷で定時観測は続けられ、先の中央気象台長岡田武松の指導した「観測精神」は立派に守られていた。一〇時過ぎ、江波の渡し舟で被爆し、右顔面の皮膚がむけて顎の下にぶら下がった状態で、測候技術官養成所実習生の津村正樹が入ってきた(柳田は津村の悲惨な後半生を記すのが忍びなかったので仮名としたと述べている)。彼は七月二三日に舟を仕立てて迎え来た姉と共に大崎下島の実家に帰った。

北には観測データ―を中央気象台に送る仕事があったが、気象台の通信施設が故障のため、古市、山根、高杉の三名を一八時過ぎ、市内の通信局か郵便局に向かわせた。しかし、彼らは住吉橋手前で家屋倒壊のため、また舟入の電車通りでは火災のため市街地に入れなかった。家屋の下敷きになっている女性を助けたりして二二時近くになって気象台に帰ってきた。「電報は駄目でした」との古市の言葉と、三人の痴呆のような目に北はそれ以上の質問を控えた。

八月七日は市街の炎焼地域の縁の火災を残しながら、淀んだ空気の中に熱い日を迎えた。北は尾崎、田村などと今後の観測の継続、重傷者の看護、行方不明者の捜索、市内の状況調査などについて相談した。また、手の空いた者の自宅調査の手配をした。北自身は中央気象台への気象電報をうつために、死体が散乱する消失地域の舟入、横川を通り、祇園方面の郵便局まで出かけた。重症の津村、福原を宿直室に休ませ、尾崎は彼らの食べ物を江波山の高射砲隊に依頼した。鈴木は火傷によいと云われた油を求めに海田町まで出かけた。高杉は市内の様子を見廻ったが、水主町の県庁は跡形もなく焼け落ち、出勤途中で県庁に寄った栗山すみ子の生存の可能性はないと思った。

このような状況で日は過ぎていった。台員のなかには原因不明の病気で倒れる者が出始めた。白血病である。六日に舟入に入った古市も熱を出し、死ぬなら自宅で死にたいと、半死半生の状態で高松の実家に帰宅した。一三日午後にようやく気象台に電気が通じた。しかし、通信は出来ず台員が交代で通信局に気象電報を持って行くことにした。

八月一五日の終戦の詔勅を台員はラジオで知る。

一七日になって郵便物が届き始め、台長に菅原芳生が任命され、広島地方気象台が管区気象台に昇格したことも知った。その後更に二二日の電報で、気象管制は二二日の午前零時に解除されたことも分かった。天気予報もこの日正午のニュース直後に復活した。しかし、広島だけは原爆のせいで業務の復活は遅れた。

(枕崎台風と「原爆」、「枕崎台風」の調査)

台風は九月一七日一四時半過ぎ薩摩半島枕崎町に上陸し、最大瞬間風速六二・七メートル毎秒、最低気圧六八七・五ミリメートルの勢力で、NNE四〇キロメートル毎時で速度を速めていた。広島気象台でも異状を察知し、総員体制で、三〇分毎に観測を行う臨時観測体制に入った。また、気象特報も出したが、市役所、県庁、県警察部止まりであった。白井が二一時の定時観測をする前に停電となった。二一時から三〇分間の雨量は二四ミリメートル、その後の三〇分間で二九・五ミリメートルに達していた。一時間に五〇ミリメートル強の雨量があれば浸水や山崩れを生じる。この豪雨で広島周辺の河川の氾濫、橋脚の流出、そして沿岸山間部の土砂崩れの被害が多かった。
[筆者補記] 九月一日~一六日までの総雨量一三九・四ミリメートル、無降水日は一ヶ日のみ、一七日の雨量一九七・一ミリメートル「広島気象台百年誌」広島気象台(一九八四)より。広島県下で死者・行方不明者数二〇一二人となった。急斜面の呉市では、山津波、河川の決壊で二千戸近い住宅が全半壊か流出し、死者一一五四人が出ている。犠牲者数は「広島の気象百年誌」、「呉市の歩み二」呉市(一九九六)による。枕崎台風は、昭和の三大台風の一つと云われている。(一)昭和三四年九月の伊勢湾台風(死者四九七六、不明者四〇一)、(二)昭和二〇年九月の枕崎台風(死者二四七六、不明者一二八三)、(三)昭和九年九月の室戸台風(主として大阪、死者二〇七二、不明者三三四)。犠牲者数は全国計。

九月二五日、東京に出張していた菅原台長が帰広し、藤原咲平中央気象台長から原子爆弾災害と枕崎台風災害の学術的調査を前神戸海洋気象台長の宇田道隆の指揮で実施するように指示されたことを伝えた。宇田は広島の陸軍船舶練習部の動員を先日解除され、原爆後、皆実町から高須に引っ越ししていた。九月二八日、宇田は気象台を訪れた。

宇田、北らは当初太田川の洪水に調査の重点をおいていたが、一〇月一四日に気象台を訪れたれた福岡気象台の田原から大野、宮島の土砂災害の酷い状態を聞き、翌日から宇田は大野に、北は宮島に向かった。宇田は大野駅の西二キロメートルにあった陸軍病院を訪れその被害の酷さに驚いた。更に陸軍から要請されて来ていた京都大学医学部の杉山教授たちのグループの遭難を知り、それらの状況をつぶさに記録した。

原爆、台風被害の調査を終えた宇田、菅原、北らは台員の手をかり、資料の整理をした。報告書には一一六人の原爆体験談要旨が併せて掲載してある。原爆調査目的の第一の爆心地については、商工陳列館南の墓地の上、高度六〇〇メートル前後と推定している。第二目的の黒い雨については、(一)降雨の範囲、降雨時間等の降雨状況 (二)雨水中の泥の本体、放射性物質、降雨量を追究した。市の北西地域では一時間から三時間の間に五〇~一〇〇ミリメートルの降雨量があったと推定している。雨は爆発後、二〇分から一時間後に降り始めたところが多いが、市の北西部では二時間から四時間も経って降り始めている。降雨の範囲は爆心地から始まり、広島市西部を中心に北西部に延び、遠く山県郡に及び、長径一九キロメートル、短径一五キロメートルの長卵形をしている。更に二時間以上の土砂降りの地域も記録している。

結果の報告会が一一月二九日に二階の会議室で行われた。若い台員たちは台長たちが業務を犠牲にしてまで没頭した調査に納得がいった。北はこの調査報告書を市内の印刷所でガリ版印刷をし、一部を秘匿して、MPの没収を免れた。

柳田は、枕崎台風で呉市に大きな被害があったことに気付き、「空白の天気図」の終章に呉市の状況を述べている。この記述は、北が呉市図書館から得た調査報告書「昭和一九年九月一七日における呉市の水害について」広島県土木部砂防課(一九五一)を手掛かりに始まる。報告書には、降雨状況、数百ヶ所の山津波、地質調査などが分布図で示され、体験記も載せ、災害の原因として戦争、乱伐、松根掘り、情報途絶などが記されていた。更に気象情報の記録が某氏により残されていたことへの感謝の言葉があった。柳田はその某氏を、糸を手繰るように探し出し、広島県立工業高校の事務長をしていた木村芳生に逢った。呉の測候所は海軍鎮守府の観測所で中央気象台とは別組織であった。木村は西条農学校を卒業後、海軍軍属となり中央気象台測候技術官養成所に半年派遣された三〇歳の技手であった。岡田武松の「観測精神」を叩き込まれていた。木村と若い技生三人は終戦後の世情の不安定な時期に、測候所の施設を転々と移しながら日々の観測を守り続けていた。そして一七日の一八時から二二時の四時間に一一三・三ミリメートルの豪雨を記録として留めていた。呉測候所は昭和二四年に広島管区気象台の呉測候所になった。北薫は昭和四七年四月一日に広島気象台を定年退職し、広島県公害対策局大気汚染監視センターの嘱託になった。宇田道隆は戦後、東海区水産研究所長、東京水産大学教授になる。
 

[私の「原爆」、「枕崎台風」体験記]

二〇年の春から私たちは特殊潜行艇「回天」の胴体部品の溶接作業をしていた。八月六日八時一五分、私は小さな傷の手当てに正門近くの診療所の土間にいた。江波山の気象台から五〇〇メートルばかりの距離である。原爆の閃光を感じた時、私は瞬時に両手で耳、目を覆い土間に伏せた。爆風が来たのはその後である。光と爆風の時間差は五秒位と思っている。このような動作が瞬時にとれたのは、この時期の訓練によるものである。

目をあけると窓から真っ白い入道雲が江波山の向こうに上がるのが見えた。私たちは舟入のガスタンクの爆発かと思っていた。一五時位まで待機させられ、その後帰宅が許された。私はクラスの太田信爾君と帰途についた。後日聞いた話であるが、同じ職場の浜田一君は江波から宇品の自宅まで泳いで帰ったそうである。似島出身の彼らしい。

私らは江波山の東を廻り、舟入方向は火災、倒壊で通行不能と判断し、江波の山文から吉島への渡しに乗った。気象台の津村氏が出勤時に被爆した渡しである。川面に幾つかの死体が浮いていたが多くはなかった。上げ潮時だったのだろうか。最近、広島大学文書館紀要、第一号(二〇〇九)に、谷整二「一九四五年八月六日、広島の川の状況」と云う論文を見出した。多くの人が亡くなった当時の広島の川の状態を明らかにするために調査、検討されている。二〇頁に渡る論文である。広島験潮所などの水位測定結果では一五時が最干潮であった。潮汐についての私の記憶は残念ながら誤りであった。

吉島では飛行場北の土手を抜け、南大橋を千田町に渡った。東詰に山中高女の生徒が数人蹲っていた。これから東千田町の広電車庫に抜けたのであるが、この間は倒壊した家屋の屋根の上、下を抜ける大変なアルバイトをさせられ、広電車庫の空き地に出た時にはほっとした。私は知らなかったが、広電より二五〇メートルばかり南東の御幸橋西詰の交番付近では、火傷を負った多くの被災者がたむろしていた。中国新聞写真部の松重美人記者がこの情景を涙ながら写真に撮った。これは後日多くの人の目に触れる貴重な記録写真となった。この場所は南千田町にある私の学校への通学路でもあった。東千田町の文理大のテニスコート横、平野町の高級住宅街を抜けて、比治山橋を渡った。そして比治山西沿いの広い道を的場近くの段原小学校の前まで辿った。これは太田君の寄宿していた親戚の家を探すためだった。長い夏の日も暮れ、暗くなった夕闇の中にまだ大きく赤い炎が上がっていた。誰もいなかった。私たちは東大橋西詰の私の姉の家に帰った。

翌七日、太田君と再度段原小学校前まで行ったが、彼の親戚の消息は何も見つからなかった。ここで太田君と別れ、私は江波の造船所に向かった。これ以後太田君とは昭和五七年に可部奥で会うまで三〇余年間消息が解らなかった。私は比治山下から鶴見橋、そして戦後平和大通り、百米通りと云われるようになった強制疎開地を西に大手町に進み、白神社から電車通りを紙屋町、相生橋と歩いた。相生橋に廻ったのは火災で元安川、本川の橋は渡れないと思ったからである。爆弾が原爆とか、相生橋近くが爆発中心地とか、また放射能の問題は知らなかった。強制疎開地では多くの死体、火傷を負った人たちをみた。白神社前の一坪位の防火用水に一〇人近い焼死体があり、立ちあがった一人の女性が虚空を掴むよう右手に伸ばしていた。黒く焼けただれた遺体であった。

また、大手町の日銀前辺りか、脱線して焼けた電車の中に、被爆前のまま、焼失して無いつり革に向かって手を伸ばし、並んで立っている黒焦げの遺体を見た。後日長い間、このことについて記載した本を見ていないので、私の記憶違いと思うようになっていた。四年前に、黒羽清隆「太平洋戦争の歴史」談社文庫(二〇〇八)に、第五九軍参謀の宍戸大尉がこの黒焦げの電車を見、「車内に二〇名ほどの運転手、車掌、乗客が爆発以前の姿勢と位置のままで焼け死んでいるのをみた」と書いており、私の記憶が確認できた。この時の熱線と爆風はどのような暴力を電車に加えたのであろうか。相生橋の東側では集められた焼死体にトタンが被せられていた。しかし、相生橋西から江波までの経路の記憶は失せている。「空白の天気図」では、八月七日、気象台の北技手は観測電報を打つため、死体が散乱している舟入、横川の焼け跡を抜けて祇園方面の郵便局に行っている。私はこの頃、これと反対に相生橋西から舟入、江波と南下したのである。ただ、舟入の電車通りを通ったのか、本川の土手道を通ったのか記憶がない。帰路も同様である。この土手道にバス停の名前となった古い茶屋があったことは従前から知っていた。

また、八月九日か一〇日頃、自転車で造船所に出勤したが、この日付、往復経路もはっきりしていない。 このとき、江波の陸軍射撃場南の畑道のなかで、火傷を負い肥大した体で、顔、手から皮膚が垂れている罹災者に自転車に乗せてくれないかと頼まれたことを憶えている。 乗せる場所もなく、行場所も分からず、逃げるよう別れた。私にはこのことが現在でも心の凝として残っている。更に、衣服の破れもない姿で焦土を歩くのが、奇妙なことだがある種の恥ずかしさを覚えていた。

「空白の天気図」では、七日高杉は市内の様子を見に本川沿いに歩き、川面を埋める風船のように膨れ上がった多くの遺体を見、また、小町の浅野図書館の焼け跡で兵隊による遺体の収容作業が始まっているのを見ている。私は浅野図書館に収容された遺体の山を、広い石造り階段上の入り口を通し、二度見ている。 電車通りからである。しかし、その日付が思い出せない。二度目には遺体の山が高くなっていた。不思議なのは原爆の火災、焼けただれた遺体の臭いの記憶がないことである。この醤油を焦がしたような臭いに気付いたのはしばらく経た通学再開のころであった。

私は八月一五日の終戦の詔勅を呉市吉浦の自宅で聴いた。灯火管制を続けていた家の電燈の明るさに驚いた。

枕崎台風の気象予報については憶えがない。九月一七日、勢いよく降り落ちる雨を、何時止むのかと縁側から眺めていた。夜、一〇時近かったのかも知れない、大きな音がして、山崩れを直感し、家を出て二〇メートルばかり先の谷筋、日頃は水流も途絶える小さな流れの縁まで出てみた。周辺の家はなくなり土砂の山である。助けを求める声がしたが、暗くて泥水のためその方法はない。その時轟音がしたので谷筋から横段の上に飛びのいた。二回目の土砂の流出である。翌朝みると、昨夜いた石垣の角に二メートルばかりの大岩が食い込み止まっていた。現在も石垣の修理跡がある。三〇メートルばかり横に離れた本家は主人のみ生き残り、七人の家族を失ってしまった。また、五〇メートル位下に家があった中学で一級下の高専寺君は、母上とロープで結んだ遺体で見つかった。彼は優秀で副級長をしていた明るい小柄な少年であった。流出土砂で白い広場となった河原で荼毘に付した。明るい日差しが射していた。 何体の遺体を焼いたであろうか。九月に入り毎日のように降っていた雨は台風一過後晴れに変わり、一八、一九、二〇日と晴天の日が続いた。

私が広島の学校に登校するのは、呉線の列車の復旧などを待って一〇月に入ってからだった。「原爆」前、五クラスいた同級生は三クラスになっていた。家庭の事情で複学出来なかった者が多い。二年生で市の中心部の疎開作業に出ていた学年は一三七名の死没者が出ていた[修道学園中高同窓会会員名簿 第三五号(二〇一〇)]。学級人数の過半数である。

[昭和二〇年、そしてその後]

昭和二〇年始め私の家は、吉浦=川原石トンネルの海軍広空廠の地下工場転換のために強制疎開になっていた。「原爆」、「台風」の苦難を経て、二一年一月には母が病没した。毎朝四時半に竈の火を起こし、弁当をもたせ広島に送りだしてくれた母だった。ここで父のことにも触れておく、父は明治二六年呉市両城の末永家に生まれ、幼少で木村家に養子に来た。一生を呉海軍工廠の魚雷に捧げた人だった。父が亡くなる頃、アルバムで父が吉浦尋常高等小学校、第五回卒業時(明治四一年三月二八日)の、男一七名、女七名と教師の写真をみた。男子生徒は皆袴姿である。その中の父の左四人目に黒島亀人の姿がある。第二次大戦のハワイ攻撃作戦の主軸を計画した連合艦隊主席参謀を務めた人で、映画「トラ・トラ」で、ガンジーのあだ名で呼ばれていた。海軍でも一風変わった人物と云われている。この頃、野球で父がピッチャー、黒島がキャッチャーをしていたと,後日塾で教えて頂いた香川亀人先生から聞いた。香川先生は父たちより少し下級生だった。黒島参謀については小林久三「連合艦隊作戦参謀 黒島亀人」光人社NF文庫(一九九六)が出版されている。このなかの黒島の幼少期のこと、また戦後の吉浦との関わりは香川先生の話が基となっている。小林は海軍軍令部第二部長に転任した黒島を実務的に有能だったとは云えないとし、そして昭和一八年八月六日の海軍戦備考査部会議で、黒島が必死必殺の兵器の開発を主張した、その意味で特攻の発案者は黒島と判定して間違いはないと述べている。吉田俊雄「よい参謀 よくない参謀」光文社NF文庫(二〇〇七)ではつぎのように述べている。学校は小学校までで(呉県立中学校は明治四〇年設立)、後は殆ど独学で中学四年終了の学力を身につけ海軍兵学校の入学を果たした。このことが唯我独尊に近い自負心をもたせた。彼の孤独と無口は、幼いころからのもので、彼の母との生別が原因で、喜怒哀楽を表に出さない、社会性に乏しい、心の友はいないが頭のいい、刻苦勉励の異能の秀才が登場したと記している。そして、アブノーマルな頭、現状認識の欠如などの章を設けている。黒島の故郷吉浦への接し方にもその性状が窺える。

このような黒島についての事情は生前の父から聞いたことはない。

(水産講習所入学とその後)

昭和二一年初冬、中学四年生の私は最初に受験案内がきた東京の水産講習所を受験した。案内書には口頭試問があることは書いてあったが、筆記試験のことは記載がなかった。試験日には英語、数学、物理の試験があった。戦時中で真面目な勉強はしていなく、周辺には海兵、陸士、高等商船などの復員者が多く、合格は無理だと思っていたが運よく合格できた。中学四年終了の資格で受験したのであるが、合格発表が四月末まで遅れ、五年生に進級後の五月初めに退学の手続きをした。実は経済関係の学校に進みたかったのだが、主任の山本先生から今後の日本の水産の将来性を説かれ、水講への進学を決めた。

昭和二一年五月に農林省水産講習所漁科に入学した。漁科は後年、遠洋漁業科と合併し、一〇〇名余の大所帯の漁業科になった。漁業科五二回生である。

入学してみると、中学で三級上の池田民雄さんが同じ組に、橋川弘さんが一級上の製造科に、林一彦さんが同級の製造科にいることが分かった。池田さんと橋川さんは大崎下島出身で、修道では成績良好で風紀係をしておられたので面識があった。二人とも陸士からの復員組である。林さんは病気休学だった。父君は終戦後の広島県会議長、弟さんは現在の県会議長をしておられる。呉市から一級上の漁業科に沼田一昭さん、同級の製造科に堀井洌君、共に呉二中からの入学者がいた。堀井君の父君は長崎県水産課長を務めて亡くなられた。後日分かったことであるが、同級生のうち私は若年者の二番目らしかった。同級には陸軍中尉の柴山二郎君(父君は陸軍次官)、海軍中尉星光久君もいた。彼らには私たちの授業レベルは問題外のことであった。

校舎は深川区越中島にあったが、戦前の立派な校舎は進駐軍に接収され、隣接の旧東京高等商船学校の二階建木造三棟の寮に、私たちの教室と寮が入居していた。深川は昭和二〇年三月一〇日の大空襲で焼失し、天気の良い日には周辺の空き地から富士山が見えた。秩父の武甲山も見えた気がする。食料難で芋の買い出しなどをした。室会のとき一年生の私と渡辺君は三浦三崎まで魚の買い出しに行き、先輩から大きな冷凍マグロの塊を、サバを陸揚げ中の漁師から大きなのを数匹を頂いた。マグロは刺身で食べ、カレーライスの肉の代わりにも使った。寮では、日曜日の食事代わりに進駐軍放出の携帯レーション(中にはチョコレート、タバコまで入っている)、ビスケットの配布になることがあった。美味しいのでビスケットを食べ過ぎ下痢になったこともある。栄養不良で胃腸が弱っていたのであろう。江の島に遊びに行ったとき、大きな放出缶詰を持参し、開けてみるとケーキ用のサクランボが一杯入っているのに参ったことがあった。芋の買い出しに行ってもそれを蒸す薪がない。寮の外れにあったバラック小屋を、最初は内壁板、天井板と剥がして薪にしたが、最後は小屋を崩してしまった。

このような食糧難の生活であったが、時には佃島、月島を歩いて銀座まで足をのばし、東京劇場、日比谷劇場などで戦前のフランス映画、「パリ祭」、「格子なき牢獄」、「うたかたの恋」などを見にも出かけた。帝劇で歌劇「ラ・ボーエム」もみた。私の初オペラ観劇である。映画は一〇円位、芋の薄切り一皿が最初は五円、後日一五円まで値上がりした。寒さが厳しい日には、最後の授業をさぼって相生橋を渡り、一五時に開く佃島の風呂屋に行った。帰路、相生橋の上でタオルが凍って棒のようになったことも憶えている。厳しいなかの息抜きであった。

この越中島の寮では悲しいできごともあった。寮の外れに二階建の独立家屋があり、海軍、陸軍の軍人で複学した人達が入居していた。私たちはこの建物を「高天原」と呼んでいた。このなかに養殖四九回生で、昭和一八年に学徒出陣し、海軍少尉で石垣島警備隊小隊長であった田口泰正さんがいた。田口さんは、撃墜されパラシュートで降りた米兵の斬首を上官から命じられて実行した。BC級戦犯として昭和二五年四月七日処刑された。この裁判で見苦しい態度をとった上官に比して、田口さんは一言の弁解をすることもなかった。連行は越中島「高天原」時代、昭和二二年二月一九日であった。このことを魚類学の海老名謙一教授は小樽の実家に電報で知らされた。多くの方の助命嘆願書も虚しかった。田口さんは温和な学級肌の人だったらしい。 同窓会誌「楽水」NO.八一二.(二〇〇五.一〇)に長谷川義信氏の「六〇年目の[鎮魂]海の防人編集後記」があり、田口泰正さんのことを述べている。また、森口豁士氏も「最後の学徒兵BC級戦犯死刑囚・田口泰正の悲劇」講談社(一九九三)を書き、田口さんの苦難の歳月を詳しく一冊の本に纏めている。

二年生になった昭和二二年四月、学校が一丸となって作業をし、横須賀市久里浜の元海軍通信学校跡に移転した。木造二階の寮の部屋は広く、一二名の室員であった。

何しろ貧乏の食料難で、裏の丘の百合根を掘ったり、海岸でカキを剥がして食べたことがある。丘の上から眺めた富士山は美しかった。しかし、花より団子であった。級友の武川君が飼っていたヤギの乳を飲んだこともある。武川君は渡波水産高校の先生をしていたが、生徒の人望が厚く、また生徒の卒業後の面倒見もよかった。五〇才代半ばで亡くなった。葬儀に千名近くも参列者があり、石巻の三大葬儀の一つだと云われたらしい。二二年秋の移転祭では古村肇君の演出で「アルト・ハイデルベルグ」を上演した。

学校の授業も順調に進み、三年生の夏休みの間に一〇日ばかりの館山実習が行われた。水泳・遠泳、カッター訓練・帆走、漁具補修などの訓練で、久里浜への帰路は曳航訓錬となった。

昭和二四年四月、四年生になると練習船三隻での乗船実習が始まった。このときの練習船は、小型トロール形の神鷹丸(二三五屯)、戦前は北洋漁業の監視船であったトロール形の俊鶻丸(五三一屯)、戦時中海軍の特務艦荒崎で払い下げを受けて改装された初代海鷹丸(七五四屯)の三隻あった。これに分乗したのであるが、私は俊鶻丸に乗り、山村、井上、古谷、榎田君と計5名で同じワッチとなった。この五人は卒業後揃って、水産庁、県庁の役人となった。

俊鶻丸は七月の遠州灘のトロール後、下旬より瀬戸内海で神戸、その後下関、戸畑、長崎と寄り、五島西でトロールをした。長崎では長崎在住の同窓の方たちから丸山で中華料理の御馳走に預かった。隠岐(漁業調査)、輪島(台風避難)、新潟と北上した。焼尻島北のトロールで、ウインチが故障し小樽に入港した。このとき札幌で水産の先輩たちに料亭で御馳走になり、修道で池田さんと同級で、札幌駅前の加藤物産店を経営しておられた加藤駿冶さんのお宅で夕食を御馳走になった。お陰でこのときは札幌の街は余り見ていない。御馳走になった記憶は強い。この頃になると少し食料事情も好転してきた。

函館では函館高等水産を友好訪問し、大手水産会社の寮の温泉に入らせてもらった。東北沿岸では宮古、鮎川に寄港し、鮎川では沿岸捕鯨基地を見学する。九月末東京に帰港、下船した。この時代、日本周辺はマッカーサー・ラインで遠方の航海は制限されていた。戦前は、北洋、南洋、ハワイなどにも行けたのであるが、残念である。海技免状をとる者は、この後一年の学外漁船での実習があり、免許を取らないものは半年の官庁、会社での卒論作成の勉強をした。私は広島県水産課で漁業制度改革の手伝いをしながら沿岸漁業についての卒論を作成した。

昭和二五年三月に水産講習所を卒業した。この時代も就職難で県庁受験者が広島女子商業学校の校庭に溢れていた。神の御加護か二〇名ばかりの合格者のなかに紛れ込んで、水産課に勤務することができた。二〇才であった。二七年には希望して水産試験場に転勤になった。

この後の仕事のことは、水産講習所漁業科五二回生回想録(二〇〇三)に「広島の牡蠣と共に」として記述しているので、記録はここで終わる。しかし、気象台との交流のことを若干加筆しておく。その後、水産試験場から気象観測の資料整理、報告のことで気象台に行くことがしばしばあった。もともと気象には興味があり、沿岸海域の赤潮発生、かき養殖の海況変動には海陸風の影響や降雨が大きな影響をもっていると考えて、観測資料の閲覧、研究会への出席でよく気象台を訪れるようになった。この時期、原爆投下日八月六日の「観測原簿」を何度か目にした。広島山稜会の会報「峠」一‐一(一九五九)に掲載した「広島地方の降雪と積雪」は、気象台の上田君雄技師が纏めた「太田川上流域の積雪調査概要」水文気象、7-2などを基礎資料としている。また、広島地方の海陸風の研究発表で、広島女子大におられたJACの宮田賢二氏の話も聞くことができた。

更に気象台関係では、昭和二七年に潮汐のことで戦災跡の神戸海洋気象台に出張し、深瀬繁技師にお会いした。後日、北大教授となられ赤潮調査報告会などでお世話になった。当時の神戸気象台長は松平康雄先生で、その後広島大学水畜産学部長になられ、海況観測、その他で多くのご教示を受けた。

[私の戦記図書]

私は 従来読んでいた通常の文学書、山の本、芸術関係の雑誌に加えて昭和四〇年頃より戦記ものと云われる本、雑誌を手にするようになっていた。最近、私の山関係の読書が少なくなっているのに気付く。私の読書力の低下もあるが、昭和時代前半までのように、心に感動もたらせるような山岳書が少なくなったのではなかろうか、とも思う。私の読書のノンフィクションには戦記ものが多いことは先にも書いた。そのなかで強く印象を受けた本を数点記しておく。私の戦記ものを読む気持ちが少し理解できると思う。

大岡昇平「レイテ戦記」上・中・下、中央文庫(一九七六)、吉田満「戦艦大和」一三判 角川文庫(一九七五)、吉村昭「戦艦武蔵」二九刷 新潮文庫(一九八六)、高木俊朗「陸軍特別攻撃隊」(一)~(三) 文春文庫 (一九八六)、澤地久枝「滄海よ眠れ」(一)~(三) 文春文庫 (一九八七)、辺見じゅん「男たちの大和」(上)・(下) 角川文庫(一九八〇)、亀井宏「ガダルカナル戦記」(一巻)~(三巻) 光文社NF文庫(一九九四)、伊藤桂一「悲しき戦記」光文社(一九九三)、古山高麗雄「フーコン戦記」文芸春秋社(二〇〇三)。更に沖縄戦、硫黄島戦、南京事件などの各十余冊の本もある。軍人自身が体験したこと、文筆家が資料を集めて執筆したものなど幾種もあるが、客観的資料を土台にして人間の真実に迫った文に遭遇すると感動する。長大なW.C.チャーチル.佐藤亮一訳「第二次世界大戦」河出書房新社、リデル・ハート.上村達夫訳「第二次世界大戦」中央公論新社や、児島襄の「日中戦争」文春文庫も読みごたえがあった。

しかし、名著と云われた吉田満の「戦艦大和」でも、沈没位置、救助の駆逐艦初霜の救助艇指揮官の救助者の手首切りの話、伝聞としながらも問題点が多い。筆者の若い意気込みでの執筆であろうが、ノンフィクションの難しいところである。

また、最近、映画「永遠の0」の宣伝が激しい。これは百田尚樹の同名の小説、講談社(二〇〇九)の映画化である。 私はこの小説を発刊の翌年に読んだ。全体に少し甘いように感じられた。 それはリアリティや、また特攻への志願、搭乗機の交換などの必然性の問題と思う。二月初め、朝日新聞に氏のNHK経営委員会のこと、南京大虐殺は無かったとの発言についての記事が載っていた。政治的に、思想的にある種の偏りが感じられる人と思った。「永遠の0」と共に資料の文献に偏りは無かったのであろうか。

ふと巡洋艦最上のことを思い出した。昭和一〇年夏、呉軍港で竣工した最上を父に連れられて見学に行った。沖合に停泊していた。小学校入学前年である。軍艦を見ても勇ましい、カッコよい船と思うだけで、この後の呉軍港の空襲は想像もしていなかった。竣工時の主砲は一五・五センチメートルで軽巡とされていたが、昭和一四年に主砲の換装工事が行われ、二〇・三センチメートルとなり重巡となった。この取り外された主砲は大和、武蔵の副砲として再利用された。最上も大和も武蔵も今はいない。最上はレイテ沖海戦のスリガオ海峡で沈没した。日本の重巡で最もスタイルの好きな艦であった。終戦を母港の呉で迎えてもらいたかった。何故、文の終わりになって最上のことを思い出したのであろう。

昭和二〇年三月一九日の呉湾の空襲のとき戦艦大和は柱島錨地で被害はなかった。その後戦備を整え、なけなしの燃油を補給し、第二水雷戦隊(旗艦軽巡矢矧、駆逐艦八隻)と共に、第一遊撃隊(特攻)として四月六日に徳山沖から沖縄に向かった。航空機の援護もなく、マーク・ミッチャ―中将指揮の第五八機動部隊の艦載機の攻撃を受け、沖縄まで五〇〇キロメートルを残し、北緯三〇度四三分一七秒、東経一二八度〇四分〇〇秒の海に、四月七日一四時二三分に爆沈した。大和の戦死者二七四〇人、生存者二六〇余人であった。随行艦船の状況を記しておく。矢矧四四〇(沈没)四、駆逐艦冬月一二(佐世保帰還)、涼月五七(船首破損し後進で佐世保帰還)、磯風二〇(大破のため処分)、浜風一〇〇(沈没)、雪風三(佐世保帰還)、朝霜三二〇全員(機関故障で鹿児島南方で離脱沈没)、初霜二(佐世保帰還)、霞一七(大破処分)。数字は戦死者数である。総計三七〇〇余人の死没者を出した。この一日の死者数は、昭和一九年一〇月の特攻開始より終戦までの神風特別攻撃隊(航空)の海軍二五三一名、陸軍一四一七名の戦死者数に匹敵する。

三月一九日の空襲を生き延びた聯合艦隊の艦船は呉湾周辺の岸近くに、燃料もなく、松枝で偽装して停泊していたが、七月二四日、二八日の空襲でその大部分が沈没した。その艦船の位置を記して冥福を祈りたい。戦艦[日向(情島北西)、伊勢(音戸北)、榛名(江田島小用)]、空母[阿蘇(倉橋亀ヶ首北)、天城(三ツ島)、龍鳳(江田島秋月)]、巡洋艦[利根(江田島湾中町)、青葉(呉警固屋)、大淀(江田島湾飛渡瀬)、北上(倉橋島鳴滝)]、装甲巡洋艦[出雲(江田島高須)、磐手(呉梅木町)]、標的艦[摂津(江田島大原北)]。現在、呉湾は大型船の造船、修理、海上自衛隊の護衛艦、潜水艦の基地となっているが、四国松山、江田島への客船が穏やかな海面に航跡を描いている。

[終わりに]

以上、思いつくままに私の青少年時代を主とした記憶を述べた。その多くは戦争に関係したものであった。最後の「戦記図書」にしても、悲しく、多くの人が亡くなった記録である。 現在、家族は呉、東京と分かれて生活しているが、孫たちは高校、大学と平穏に学業に勤しんでいる。家族の穏やかな生活が維持出来ることが如何に貴重であるか、振り帰って感謝せざるを得ない。私自身残り少ない人生と思うが、遠い流れ雲をみているような静かで美しい年月を過ごしたい。

戦争で「原爆」をはじめとして多くの方が亡くなった。この方達のご冥福を祈るとともに、この戦争を惹起した歴史の流れ、外国の方で亡くなった方への思いも忘れてはならない大切なことである。

[平成二六年二月八四才誕生日脱稿]
 

 

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