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苦痛の記録 
北川 勝子(きたがわ かつこ) 
性別 女性  被爆時年齢 7歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1970年 
被爆場所 広島市皆実町三丁目[現:広島市南区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 国民学校1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
今から思い起こしても、二五年前(執筆時一九七〇)のことですから、ずい分幼かったときのことです。その時のことが現在の私の脳裏からどうしても離れないのです。それは、私だけでなく、ヒロシマ・ナガサキにおいてあの恐ろしい原爆を体験された方なら、今さら、私がくどくど申し上げなくても、人生のどの体験よりも、忘れることのできない、過去の傷を持っていらっしゃると思います。私もその痛みを二五年間持ち続けてきました。いや、いまからのち、私の人生が煙と化しても、この歴史はいつまでも残ることと思います。残らなくてはいけないのです。だが、それが、皆の心にどのように、刻まれるかということです。私はその体験者の何万人のうちのひとりですが、幼い小学一年生(国民小学校)のときの体験として、お話します。

私は皆実町三丁目(現・南区)に住んでいたので、不幸中の幸いとで申しましょうか、家は焼けませんでした。昭和一八年(一九四三)一一月に父がフィリピン・ラバウル海上で戦死し、祖父と兄二人弟二人と、母と私の七人家族でした。しかし、学童疎開で兄二人は安佐郡戸山(現・安佐南区)のお寺にいて留守でした。

母は、市の命令で郵便局や広島文理大(現・広大)の留学生の寮母をしたり、転々と色々な職に就かされ、八月六日の原爆投下時は、住友銀行(爆心地より約二七〇メートル)の四階にあった、造幣局広島支局に勤務していました。

たまたま、確か前日が日曜日だったと思いますが、学校が休みなので、母が緊急の場合にと思い、勤務先を知らせておくということで、私は、朝母に連れられて広島支局まで行きました。造幣局の工場は、当時海田の方にあったのですが、事務所だけは、住友銀行広島支店にありました。

あの日のことを思えば、前日までやさしく声を掛けて下さった母の同僚は、翌日にはアッという間に灰と化したのですが、銀行の階段の途中にある人の死影が、石段にまざまざと残っているという話は、聞かれて知っている方が多いと思いますが、母の話ではやはり前日に私が会った人で、職員と同じ弁当を私に持ってきて下さった人らしく、その方の奥さんは、現在五日市(佐伯区)で再婚して今健在ですが、一人息子さんが終戦後外地から引き上げられ帰ってきましたが、衰弱していた身体は、もう生きる気力がなくあの世に旅立たれました。

私の父の戦死の公報があったときは、玄関に近所の人たちが、私の家を訪れるのに、当時五歳だった私は、門の所に立って母が泣きながら、近所の人たちに対応している姿をじっとみていました。その時母は、三三歳でした。その後も、再び戦争の犠牲になるとは夢にも思っていませんでした。

八月六日朝、警報解除になって、防空豪からでてきて母は、膝に末弟を抱きながら化粧をし、出勤の支度をしていました。

私は縁側で、セーラー服を着ようと思い、頭と手を通しているときでした。何かピカァーと光りましたが、爆風に吹き飛ばされて、家の下敷きになりました。その瞬間記憶がなくなり、気づいたときは、もうもうと壁の土ぼこりと部屋の崩れ落ちた柱等の下敷きになっていました。

ちょうど縁側でタバコを吸っていた祖父は、そこに伏せたので、別にひどいけがもせず、バールで建具や柱をかき分け、土煙りの中にいる私を探しました。私は身体にのしかかっている重いものをのけられると、気を失っていたのか目が覚め、いきなり大きな声で泣き出したので、祖父は、大丈夫だったと安心して手で引っ張って起こしてくれました。またすぐ茶の間にいる弟たちと母のいる所へ行き、庭の方へ引きずり出してくれました。私も家族も皆頭から、血まみれになっており、周りにあったシャツ等で頭を固く締めてもらい、ともかく宇品の県病院へ行くことにしました。

家々の塀は倒れ、瓦は道路に散乱し、ケガをした人、ヤケドをした人達がぞろぞろと家から這い出すように出てきました。広大付属高校の裏門の中を通り、私たちは幸いにも足を負傷していなかったので急いで行きました。でも、当時三歳に満たない末弟は、一番ひどい状態で、頭はザクロの如く割れて、歯は飛び、唇はぶら下がり、まゆ毛の裾から耳まで切れ、到底助かるとは思ってもいませんでした。もう一人の弟は、膳の下へとっさに身を隠したので打撲傷だけで、頭部や胸部にはガラスの破片のかすり傷程度でした。母と私は同じように頭部にかなりの裂傷を浴びていました。胸部にはやはりガラスの傷が沢山ありましたが、気が立っていたので、その時あまり痛かったということは、覚えていません。どこの道を歩いたかそれからは、記憶にないのですが、病院へ行くとここでも、負傷した人たちがかけつけるのが見えました。白衣を着た看護師や医者らしい人は、渡り廊下の方でチラッと見えましたが、どうもその様子は、みんなの看護に当たっているのではなく、逃げているように見えました。中へ入ってみると思ったとおり、病院も被爆に合い窓ガラス等は全部壊れていました。さらに驚いたことは、私たち家族が足を踏み入れようにも、入る場所が全然ないくらいに負傷者とそのうめき声。泣き叫ぶ声、藁をもつかむ気持ちで神に祈る声、ああ、この修羅場、なんたることです。病院の医者はこの有様に恐れなして皆逃げて行った。

それから自宅へ帰っても、何も食べるものはなく、それでも保管していた大豆をへこんだ鍋の中で煎って食べ、そのばをしのぎました。水道の水も出ないし、また、水が出たとしても、飲んではいけないと知らせが出たりしました。だんだんとその日も夕方近くになり水槽に皆が来ていた服が投げ込まれてあり、水槽の水の色は赤い油絵の具でも解かしたかのように見えました。

惨事のあった茶の間付近まで行くと、窓ガラスはなく外のブロック壁も大分部屋の中に入っているので、外の景色がよく見えるようになっていました。怖々と割れた戸のところから、まっすぐに空を見上げると、比治山方面の空は赤くまだ燃え続けているのでしょう。何とも言えない、あまりにもきれいすぎるほどの紅空でした。私はあの時の空の色を、未だにハッキリと覚えています。どれくらいそこに立っていたかわかりませんが、当分の間そこから動かなかったということは確かです。

それからというもの、市の命令で傷の手当てといって、ピンポン玉の如く、貨物列車にのせられたり、歩いたりして、さまよい歩きました。戸山の兄たちが通っている学校の講堂にも収容されたことがありますが、現在のような道路はなく、八月の炎天下をガタガタトラックに乗せられ、ケロイドも腐りかけ、半分死にかけているような人たちと共にしたことも幾度となくありました。戸山に着いた晩はとうとう伸び、四〇何度の熱に侵され、もう駄目だと思っていましたが、食べ物をきれいに吐くと、運良く朝には熱も大分引いていました。

それから幾日かたって、造幣局の声がかかり、五日市(現・佐伯区)の官舎に移ることになりました。当時運送といっても何もなく、近くの馬曳きのおじさんに頼んで運んでもらうことになりました。それも何日もかかって運びましたが、ときには雨の降る夜にも遭い、焼け野原には無数の燐が燃え続け、私に「うらめしや~」とでも話しかけているようでした。

五日市の小学校に転校してからは、頭に包帯をしたまま栄養失調から関節リュウマチにかかり、足が立たなくなったりしたので、毎朝医者の所へブドウ糖を打ちに通いました。

荒壁の官舎住まいもつかの間、母は昭和二四年(一九四九)の人員整理には辞めさせられ、未亡人の癖に給料が多いとか、何でも未亡人の癖にと、周りの人に非難され、辞めた次の日から五日市町役場に勤務するようになりました。  

五日市町役場は、半分にも満たない給料で、官舎も出なければならないことになり、橋の下に7人家族は寝れないので、母は再婚を決意し、一軒の小屋をあてがってもらいました。また、それも束の間、戸籍上三年だけ入籍をしていましたが、破局し、母の犠牲の家だけはもらい受け、肝心の恩給は受給できず、それから、身体が動く限り、母は働きましたが、遂に定年となり、一九年何カ月という官庁勤めでこれも年金はなし、現在別府の病院にて療養中です。

振り返ってみれば、この長い年月、なぜこんなにも戦争の犠牲にならなくてはならなかったのでしょうか。他にも沢山の、私以上に苦しい経験を身にしみていらっしゃる方も多分いるでしょう。また、全然原爆を知らない人、若人よ、人と人との殺し合いほど一番重い刑に処するひとたちではないでしょうか。そしてそれを操る人、私たちは決してその仲間に操られないようになりましょう。ふと顔を上げると写真立ての中の父の顔が微笑みかけているかのように見えます。

「原子雲の下に生きつづけて」(一九七〇(昭和四五)全電通広島被爆者連絡協議会発行)に書いた手記を修正加筆しました。
  

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