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原爆体験記 
木下 和蔵(きのした わぞう) 
性別 男性  被爆時年齢 25歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 独立混成第122旅団(堅城) 司令部(西部[睦]第13510部隊)(長崎市南山手町[現:長崎市南山手町]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 第二総軍第一六方面軍独立混成第一二二旅団司令部(堅城第一三五一〇部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
長崎市南山手町
長崎要塞司令部本庁舎

○ あの、驚天動地の一瞬
長崎に原子爆弾が投下されたのは昭和二十年八月九日で、広島より三日後でした。私は、当時、長崎要塞司令官陸軍中将谷口元治郎閣下の専属副官として、来る本土決戦に備え、敵の上陸地点を野母半島の場合と、橘湾(現在石油備蓄タンカーの錨泊で話題となっているところ)の場合を想定し、その迎撃対策樹立の為連日の空襲下、司令部地下壕作戦室で司令官や参謀と起居を共にしていた毎日でした。司令部本庁は、グラバー邸のすぐ坂の下で、現在は海洋気象台となっています。

当日は朝からB29の大編隊が飛来しましたので、空襲警報を発令したものの、爆弾の投下もなく退去してゆくのが確かめられたので、警戒警報に切り換え、司令官が本庁舎二階の司令官室に行かれたので、緊張もほぐれ、一服といったところでした。そのうち高射砲部隊から緊急報告が入り、B29、二機のみ、まだ上空で旋回中であったが、その一機から落下傘が落とされ、それが次第に降下して来ているとの連絡でした。私は司令官に報告すべく、地下作戦室から出て、本庁舎二階の司令官室の前迄昇りきった丁度その時です、世紀の原子爆弾が起爆されたのが・・・・。突如ピカッという大閃光に目が眩み、私は無意識にその場で腹這いになりましたが、二/三秒もたったでしよか、今度は鼓膜が張り裂けんばかりの物凄い爆発音と共に、一緒に襲って来た大爆風に私の体はフワッと階段の下迄吹き飛ばされ、とっさに両肘で身体を受けて起き上がっている自分に気付いたという全く驚天動地の一瞬の出来事でした。

ホッと我に帰り、夢中で階段を駈け登り司令官室を開けて「閣下」と呼びますと、司令官はその時身を隠されていた机の下からやおら起き上がられ「大丈夫だ」と泰然たる姿を現せられ、まずは安心しました。部屋を見ると、天井が爆風で傾いており、窓は全部壊れて硝子の破片が一面に床の絨毯に突きささっているという惨状で、司令官がカスリ傷一つ負われていないのが幸いでした。本庁舎の事務員や兵隊達が怪我をしたり、腰が抜けて倒れていたり、放心して右往左往している中を、私は司令官について「落ち着いて負傷者の手当てをせよ」と怒鳴りながら地下作戦室に降りて行きました。いよいよ、来たるべきものが来たという実感と、さてこれからどうしたらいいのか、私自身も考える余裕とてない心のショックを、どうすることも出来ませんでした。

各部隊からの有線電話が、殆ど断線してしまっていたので、無線による連絡と、伝令による情報蒐集しかなく、まず情況を摑むことに努め、逐次対策をたて手を打つことになりました。私は副官兼情報主任という任務がありました為、西部軍司令部のうるさ型で鳴るH参謀から指名電話があり「唯今長崎に大型特殊爆弾(当時軍ではそう呼んでおりました)が投下されたらしいが、被害の状況をすぐ報告せよ」と、あれはどうなったか、これは異常ないかなど一つ一つ質問攻めにあいましたが、私は今そんなことを言われても分からない、とにかく全市崩壊の危険あり、まず負傷者手当てのため救護隊の応援を考えて貰いたいと、私も、興奮も手伝って半ば喧嘩腰で、やりとりした事を思い出します。その時私は女子通信手(当時女学生を徴用していました)が、受話器を持った私の肘を濡れタオルで、包んで支えていてくれるのに気付きました。見れば両ひじから血が滲み出ており、先に爆風で吹き飛ばされた時に怪我したんだなあと気付きました。

○ 痛ましく悲惨な被害
司令部の岡の上に配置してあった肉眼監視兵から逐次状況の報告が入り、市街各地より火の手が上がって延焼中であるというので、工兵隊を派遣し破壊消防を行わせ、延焼拡大の被害を最小限に防ぐことが出来ました。この監視兵は丘の上の壕で遮蔽もなく六人並んで配置されていましたが、そのうち二人だけが火傷を負い、横にいたあとの四人は無傷ということでした。また港に停泊していた約二〇隻の離島向け油輸送船の中で原爆と同時に発火して燃え上がったのは、四/五隻であったこと等から類推すると、原爆の熱線が線上に放射されるものではないかと思われました。しかし司令部の立て掛けてあった梯子の桟の影が、そのまま倉庫の壁に残っており、影でないところは全面に焦げているところからみると、線状の熱線とのみも考えられませんでした。この影絵は後で三角法により爆心地を決める助けとなったようです。

山の上に布陣していた高射砲隊からの連絡が一番痛ましい報告でした。「中隊長以下殆んど火傷を負い逐次息絶えており、残っているのは私達地下壕にいる通信兵のみです。何とか至急救護班を派遣して下さい。」と。暑い夏でしたから、上半身裸で落下して来る落下傘を、全員注視していたところを、まともに被爆したものと思われます。当初落下傘は(観測用ゾンデ)八〇〇〇米ぐらいで落とされ、飛行機はその儘遠ざかって行き、落下傘下降高度約五〇〇米に降りた時、原爆が起爆されたものの様です。幸か不幸か、上空に北風があったため、落下傘が北の方に流され、起爆地点は長崎の北の方に片寄り、南の港地区にある要塞司令部や、造船所は被害が少なく、市街地住宅地区に被害が集中する結果となりました。

諌早地区との国道が通れるようにならないと、救護班の受け入れが出来ませんので、野母半島水際に布陣していた工兵隊を、海路諫早に回航し、北から国道を清掃する作業が命ぜられました。後で分かったことですが、この隊員の多くが第二次放射能に汚染されたのです。いまもって気の毒でなりません。国道清掃完了の報告を受け、私は司令官に随行し、自動車で被爆中心地をジカに視察することが出来ました。その時私が見た惨状は地獄絵さながらで、いまだに眼底に焼きついており、到底筆舌に尽くせるものではありません。爆心地近くは、既に白骨となっている死体が多く、内蔵が破裂して飛び出したと思われる黒焦げの死体が目につき、道の両側に累々と横たえられており、性別も分からないぐらいの大火傷を負っている人間の姿は、ただ悲惨というような形容では表し得ない、この世のものとは思えないみじめなものを感じました。特に火傷を負い、山の方にのがれようとあがいて、途中で死に絶えたと思われる山の中腹の惨状が、むしろ涙をそそられました。

陸軍病院の救護班(その時の軍医の-人が、後の郵政大臣白浜仁吉氏です)だけでは手が足りませんので、大村の海軍病院にも依頼し、大変な応援をいただいたのが有難くて忘れられません。私は先に被爆地を見て回った時、焦土と化した市街地で、残っていた防空壕の中から、息絶え絶えに這い出してきていた負傷者を思い浮かべ.フト三菱兵器製作所の建家鉄骨が崩れ落ちていたのを思い出し地下防空壕の入り口を塞いでいるのではないかとの心配があり、念の為兵隊に特命し、地下壕入り口を開けてくる様に頼みました。後で報告を聞くと、果たして壕の中で、約三〇〇名の勤労隊員が窒息しそうに苦しんでいたのが、タイミングよく間に合ってうまく助けられました、ということだったのは、私の忘れられない嬉しい思い出となっております。当時、約二〇〇名の英蘭系軍人を捕虜として造船所や兵器製作所で使役として使っておりましたが、彼等がどうなっているかという事が、軍として一番気がかりなことでした。憲兵隊と連絡をとり、捕虜をまず見つけ次第収容させましたが、生き残っている者は、只茫然自失、うずくまっていたと言うことでした。彼等とて初めての体験で、余りの悲惨な被害に、なすことを知らず、敵味方とか捕虜とかの関係を超越して、人間として戦争のむごたらしさを感じていたことと思います。私はある士官に、この爆撃についてどう思うかと質問したら、両手を拡げて何とも言いようがないとのジェスチュアのみでした。

○ 陛下の見舞いを案内
三日二晩燃え続けた市街で、鉄筋の長崎医大のみが建物として残りましたので、兵隊を総動員し作業班を組ませ、爆心地付近の負傷者を取り敢えず長崎医大へ収容させました。医大と言っても建物だけで、中は全部燃え尽くし死体が転がっており、まだ余燼がくすぶり熱かったのを覚えています。それでも太陽の直射を避けられる唯一の場所でした。折角収容した負傷者も、時間がたつにつれて次々と息きを引き取ってゆくと言う有り様で、原爆症でしょうか、歯ぐきから出血し毛髪が抜けるようになった人は、例外なく助からなかったようです。

救護班もただ火傷の薬を塗る以外に手の施しようがないというのが実情でした。負傷者手当優先で死体収容は後回しでしたが、八月の暑い日々のことでしたので悪臭と共に、ウジ虫が湧いて来るなどこれも早く処置をしなければなりませんでした。鉄道の枕木を井型に組み、ガソリンをかけその中で火葬する以外に方法がないということで、焦土の中数カ所に臨時の火葬場が造られました。夜遅くから眺めた火葬の業火の形容は、何とも言えない呪わしいものでした。

陛下より見舞いとして侍従官の来訪があった時、負傷者を収容している各建物や病院へ御案内して廻りましたが、ある病院でアルコール漬けの各内臓を見せられました。医者の説明によれば、被爆者の中で何等外傷がないのに死んでゆく人が増え、原因が分からないので解剖をしてみたら、内臓のいろんなところが放射能で損傷を受けており、その為にその内臓の機能が止まり死につながってゆくのだろうと言うことでした。例えば、この脳を見て下さいと、アルコール漬けの瓶の中より取り出し、脳の内側の炎症を指さし「ここがいかれています」と説明を受けました。余談ですが、医者が「脳は重いんですよ、持ってご覧なさい」と私に渡され、本当に見掛けより随分重いもんだと感心したものでした。

○ ノーモア・広島・長崎
テンヤワンヤのうち、六日後の八月十五日に、終戦の詔勅を拝したわけですが、長崎地区はラジオの玉音放送が、全然聞き取れず、我々は終戦とは思いもかけなかったので、これはてっきりソ連が参戦したし、いよいよ本土決戦の時来たる各員一層奮励努力せよ、との陛下の御言葉ならんと、いよいよ闘志をわき立たせたものでした。原爆と言う手痛い被害は受けたものの、これで負けてなるものかこの悲惨な爆弾の仇討ちをとばかり、当時若冠二十四歳の私は本気で、お国のために戦わんと張り切ったものでした。その後西部軍より長崎地区は、不穏な空気あり、との情報が伝わったとしてお叱りを受け、大命が下ったのにいまさら何をやっているのか、軽挙妄動するなと、たしなめられたのが思い出せばまだ昨日の様な気がします。

終戦が決まって、一番早く長崎に飛来して来たのが、フランスの新聞記者でした。原爆について詳細に聞かれましたが、小生フランス語ができず、弱っていたところ、司令官が若かりし頃フランス駐在武官だった経験を生かされ、まあまあスムーズに意思疎通させられました。それにしてもジャーナリストの逞しい職業意識には、さすがと敬服させられたものです。
各部隊と要塞とを武装解除させたあと、兵隊を復員させ、進駐軍との接収折衝など、最後迄、司令官と副官が残って終戦処理を完了し、長崎要塞司令部の幕を永遠に閉ざす役目を果たしたことは、また感無量でありました。

月並みではありますが、悲惨な戦争はもうコリゴリですし、NO MORE HIROSHIMA NO MORE NAGASAKIを、私は特に声を大にして心から叫びたいと思います。 

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