日本が敵国に降伏した翌日8月16日、私の家族5人は江波南町から広島駅に向って隣家で借りた荷車に子供3人と身の廻り品を積んで、兵庫県の郷里に避難すべく運んでいった折に目にした光景が、50年経った今でも忘れることができないのである。
出発して約3キロメートル進んだ住吉橋を渡った場所。中区住吉町の中央に当る焼跡での光景である。
ひと口に言ってこゝでも原爆で死んだ何万という死体を処理していたのであるが……畑の畝のように焼却穴が築かれ兵隊らしい者が車で運んできた死がいを順に並べて焼いて居り、焼上った端から、まだ煙の立つ人骨らしいものを運び出し後の「骨の山」―高さは既に10メートルくらいはあった―に積み上げて更にもやしていた。こんな山が既に3ケは並んでいた。並大抵のことにはもう驚かなくなっていた私もこれは耐えられないショックであった。
聖戦に協力させられた何十万の市民がひと塊のゴミのように焼き捨てられたのがこの骨の山である。
暖かい家族の手で焼かれ土に埋められたのは幸運な方であった。広島の土はこのことを決して忘れない。
出典 広島市市民局平和推進室編 『ひろしま21世紀へのはがき』 広島市市民局平和推進室 1996年 387頁
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