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終戦年の広島地方気象台 
北 勲(きた いさお) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1971年 
被爆場所 広島地方気象台(広島市江波町[現:広島市中区江波南一丁目]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島地方気象台 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 
1.はしがき

終戦から既に25年経過し、人々の記憶もうすれ、当時の職員も四散し少なくなった現在、あえて当時の記録を綴ろうとする動機はつぎのような理由による。

(1)終戦ごろの地方気象官署の窮状を記述しておくことは気象資料を取り扱う場合参考になり、戦時の気象業務がいかなる状態で続けられたかを知る資料になる。

(2)枕崎台風(昭和20年9月17日)の際、悪条件が重なったため、広島県だけでも、死者・ゆくえ不明・傷者あわせて3066人というまれな大被害を生じたことに対する防災面からの反省材料として書き残しておきたい。

記述の形としては、広島地方気象台に保存されている当番日誌を主軸として、月日を追いながら必要な事項を再録し、これに補足するに各種調査報告物・新聞記事・官公庁記録・個人の記憶を加えて理解を助けたいと思うが、資料の精粗により片手落ちの記載になるやも知れず寛容を得たい、職員の名前も必要なものを除き省略して簡素化を図った。

2.あらまし

昭和20年、各気象官署とも相つぐ空襲、人員ならびに物資の不足から、業務の遂行が困難であった。とくに広島は人類最初の原子爆弾を浴びて、物質的にも精神的にも相当参ってしまった。

8月11日に管区気象台に昇格したが、名目だけで実質的には測候所なみの仕事しかできない状態であった。9月にはいって新台長を迎えて復興の第一歩を踏み出したが、職員の3分の1は半病人で、また食糧補給のため郷里に帰省するものが多く、全員20名のうち約半数しか出勤できないありさまであった。

9月17日枕崎台風が来襲した。気象特報は出していたが、各官公庁・報道機関も体制不備で、一般県民に十分伝達されたとは言い得なかった。一方、台風の勢力が格段に強かったため、いたるところで山が抜けるような土石流が発生し大被害が起こった。原因の第1は豪雨、第2は敗戦に伴う防災体制の不備と言い得る。

3.原爆投下以前
(当番日誌より抜粋転記する)

昭和20年6月26日
   早朝、午前、夜半ニ警戒警報発令サル。
 (注、以下空襲、警戒警報ともにケイホウと略記する)
  電信局、広島―大阪間、有線、無線トモ不通ノ由。
  当番者以外ハ全員防空壕完成作業ニ従事ス。
6月27日
  夜半ケイホウ発令。
  2日間局留ニナッテイタ気象電報ハ19時頃ヨリ特別措置ニヨリ発送サル。
6月29日
  夜半3回ケイホウ発令。
  3時ヨリ電話故障、5時復旧。
7月1日
  夜半ケイホウ発令。
  呉市大空襲ニヨル火災望見。
7月2日
  平野台長米子へ出張中ノトコロ夕刻帰台。
  有線不通、無線モ不達ノモヨウ(気象電報関係)。
7月3日
  コノトコロ毎夜半ケイホウ発令。
  有線、無線モ不通ノトコロ、夕刻一時通ジタノデタマッテイタ電報ヲ発信スル。
7月4日
  夜半例ノ如クケイホウ発令。
  有線ハ不通、無線ニヨリ07時ト18時ニマトメテ電報ヲ暗号化シテ発信ス(局扱)。
  4、5月分宿直料ノ支払アリ。
7月7日
  気象原簿ヲ防空壕内ヘ移ス(151冊)。気象台義勇隊ヘ出勤命令ガ発令サル。
  木材運搬(ゾンデ室建築用)ノタメ、午前午後全員製材所ニ行ク。
7月8日
  義勇隊員5名出勤ス。0730-1700、本川国民学校付近家屋疎開。
7月9日
  義勇隊員本日モ5名出勤ス。
  本科生3名実習ノタメ来台。
7月10日
  義勇隊員5名出勤ス。
  山麓ノ残材全員デ運ビ上ゲ完了ス。
  今朝ヨリ以後、台長直々ニ職員ノ呼名点呼ヲ実施。
  自今14時ノ実況ハ6時使用天気図ノ裏面ニ記入。
7月12日
  鉄道警報(テケ)発布中。
  17時気象特報発布。
  本科実習生5名、本日ヨリ実習開始。
  技手以上参集ノ上、台長ヨリ夜間ノ防空ニ関シ訓示アリ。
  専用線、電信、電話共不通。
  ケイホウ3回出ル。
7月18日
  加入電話モ不通。
  正午頃、敵機(P-38)続々来襲。
7月19日
  本台伊藤技師気象電報ノ件ニツキ来台、午後電信局ニ赴ク。
  ケイホウ3回。
  台長ハ米子ニ在勤中。
7月22日
  遠藤技手乱数表受領シテ帰台ス。
  山路技手入営ノタメ壮行会。
  ケイホウ3回。
7月24日
  早朝ヨリ敵機五百数十機来襲。
  西郷、松江、津山、岡山、松山、高松、室戸各測候所ノ気象電報ヲ広島デ暗号化スルヨウ依頼アリ。
7月28日
  早朝ヨリ敵機二百数十機来襲。
  可部分室(疎開先トシテ用意シタモノ):整備ノタメ職員4名大八車ヲ引イテ出発。
7月30日
 事務整理ノタメ本日ヨリ地震計観測ヲ中止(中央気象台通牒ニヨル)
8月1日
 本日ヨリ、ロビッチニヨル日射観測ヲ中止ス。
8月2日
  庁舎外壁ヲ塗装シテ偽装ヲ完了ス。
  10時台風気象特報ヲ発布。
  台長ヒル前、米子へ出張ス。
8月3日
  軍船舶司令部25名見学。
  カネテ不通ナリシ電信15時ヨリ回復ス。
 台長米子ヘ出張中。
8月4日
  気象特報ヲ10時ニ解除。
  夜ケイホウ。
  台長米子ヘ出張中。
8月5日
  夜ケイホウ。
  台長米子ヘ出張中。
(注、進駐軍による原簿接収を恐れて田舎の職員の家に疎開した。)
 8月6日
   8時15分頃B-29広島市ヲ爆撃シ当台測器及当台附属品破損セリ。台員半数爆風ノタメ負傷シ一部ハ江波陸軍病院ニテ
   手当シ一     部ハ軽傷ノタメ当台デ手当セリ、
   盛ンニ火事雷発生シ、横川方面大雨降ル。
   台長米子ヘ出張中。

上記のとおり当時は気象専用線、電信局との専用電話とも不通の日が多く、加入電話も時々断線し、電報の送受に支障が多かった。一部郵送している日もある。広島電信局と大阪電信局との間は状況により無線を代用していた。そのため電文は暗号化を必要とした。

空襲警報に悩まされ、義勇隊として出動など作業日数が多く、落ち着いて業務ができなかった。台長は官舎が米子にあり、米子と広島を半々に勤務していた。

4.広島に原爆投下さる

8月6日朝、広島市街は前日来の油照りの青空を迎えた。市民がこの日の活動を始めたばかりの午前8時15分運命の原子爆弾が市の中央部上空600メートルで轟然と火を吹いた。

一瞬にしてこの世の地獄と化した広島市の南部(爆心より南南西へ3.6キロメートル)に位置した気象台にも、恐ろしい閃光が見舞い、その直後をすさまじい爆風が襲った。

気象台の内部および近傍でも、熱傷・ガラス傷・骨折などの重軽傷者多数を出した(台員の約半数)。大混乱がやや静まったころ、建物・器械などの損傷を点検してまわったところ、RC3階建の堅牢な建物の窓ガラスは鉄製のサッシが無惨にへし曲がり、飛散したガラス破片が壁面などに突立っていた。一部の扉は吹き抜かれ爆風のとおり抜けた跡を示していた。

気象測器は意外に損傷が少なく、露場の百葉箱内のガラス温度計なども破損せず、もとの位置にあった。風力塔の器械もほとんど無事であった。椀型風速計は爆風によって急激に回転し、200メートルの走行距離を記録していた。2階屋上に設置してあったロビッチ日射計は大破して使用不能になった。気圧・気温・湿度の自記器はその性能上、ごく短時間の変化は記録できなくて、ショックの跡を示していた。地震計室は内部が二重構造の室であったが、爆風の突入によってガラスが破損して器械に当たり、地震計はすべて大破していた。

こんなわけで、幸い気象観測は1回も欠測することなく続けることができた。職員が多く負傷し、住家を焼かれ、肉親などを亡くしたため、毎日気象台に出勤して業務を続けることが困難となり、欠勤者が多くなった。加えて食糧事情が一段と悪くなり、勤務中にもその方の心配がつきまとった。重傷の職員2名は動かせないので、そのまま庁舎内に収容して、家族・同僚の看護で1か月以上過した。

このような悪条件の中で、少数の職員で昼夜連続の観測を続けることは至難の業であったが、観測を一刻も欠測してはならないという使命感に徹して完遂した。敗戦とともに敵国軍が進駐してきて、施設・記録を接収されるという不安はあったが、その時までは決して観測を放棄しないという測候精神を堅持した。またこのことに生きがいを感じていた。

ここで被爆当時の広島市の状況を述べよう。被爆10分後、江波山(高さ30メートル)から見た市内は、死の砂漠のように茶褐色で、上空は一面黒灰色のものにおおわれていた。15分後にはもう市内の各所から火の手が上がり、9時ごろには市内の中央部一帯は黒煙に包まれ、舟入町、観音町方面の火の手がはっきり見えるほかは、一面真黒な煙に包まれて行った。

黒煙の上部は天をつく雄大な積乱雲に発達し、その頂きは目測で十数キロメートルにも達した。火災は10時から14時ごろが最盛期で夕刻には次第に衰えたが、夜にはいってもなおあちこちの火点が指呼できた。

江波山の気象台では終日南よりの風が吹いたため、視界は良好で、市街の火災の状況は手にとるように観察できた。火災から昇る煙や雲はほとんど北~北西の方向に流れていた。市の南部、江波山では終日、日照があり、青空が見えて、北部の暗黒と強烈な対照をなしていた。

風について、後日の調査結果を合わせて考えると、大火災の発生後、市内の火災地域に流れ込む気流が終日続き、気象台では平常日の風の流れ方(海陸風)を差し引いて、毎秒約4メートルの風が火災現場に吸引されていたことが判明した。市の北部、山陽本線付近に沿って、南からと北からの両気流が集まる収束線発生し、盛んな上昇気流を生じ、たつまきが起こっていた。

つぎに「黒い雨」について述べると、気象台では当日1滴の雨も降らなかったが、後日気象台員の行なった調査によると市の北西部を中心に、2時間以上に及ぶ土砂降りの雨が降っている。この原因として考えられるものは原爆大火災に伴う強い上昇気流によって、上空で多量の雨粒が作られ、雷雨性の雨が降ったと見られる。旋風・爆風で多量に舞上がった灰、その他が雨に混って黒い雨になったと考えられる。

大火災の際には雷雨が発生することがあるが、広島原爆の場合は一段と規模が大きかった。これは、上に述べた上昇気流の他に、核爆発による放射性物質から多数の凝結核の生成が考えられている。

5.原爆被災以後

8月7日
  観測室ノ破損セル窓ガラスヲ取除ク、台内ノ整理、負傷者ノ手当、食糧準備ニ職員敢斗シアリ。
  有線、無線共ニ不通。電灯ナシ。
  台内ニテ南瓜給食ヲ行フ。当番ノ4名分ヲ江波高射砲隊ヨリ給食サレルコトトナル。
8月10日
  台内整理ハ急ヲ要スルコトナルモ現在出動可能人員ワズカニ6名ニテハナカナカハカドラヌノハ遺憾。
  有無線、電灯復旧ナラズ。
  本夕敵機広島来襲ノ声高シ。
8月11日
  台長未ダ帰任セズ。尾崎田村不在。
  防空壕ノ拡張ヲ急グ。原簿類ハ3ケ所ノ防空壕ニ埋メル。
8月12日
  台長2時頃帰台セリ。
  北技手午後ヨリ市庁及中国配電等ニ打合セニ行ク。
8月13日
  午後電灯復旧ス。
  本日ヨリ気象電報(02、06、10、14、18、22時)ヲ電信局ヘ持参のコトトス。
8月14日
  本日ヨリ「トヨハタ」受信ス。
8月15日
  正午ヨリ天皇陛下自ラ詔書ヲ朗読サル。台員一同謹ンデ拝聴ス。
8月16日
  古市技手病気(原爆症)ノタメ高松市ニ帰郷。
8月17日
  台内デ雑炊給食。
8月18日
 「アシヘ」放送シテナイノデ乙種電報ハ発送スルニ及バズト台長ヨリ達シアリ。
  14日ブリニ微雨アリ。朝夕冷涼ヲ覚エル。
  吉田技手本日カネテヨリ所在不明(原爆死)ノ職員栗山雇捜索ノタメ市内ニ出張ス。
8月20日
  2時頃米子測ヨリ岡田、本村両氏連絡ノタメ来台ス。
  本日ヨリ準備管制解除トナル。
  当番者ニハ大豆一合宛配給サレル。
8月21日
  本日ヨリ塔上、露場、百葉箱ニ点灯スル。
8月22日
 「トヨハタ」今朝ヨリ暗号化セズニ送信シツツアリ。気象電報ハ本日ヨリ暗号化ヲヤメ、乱数表ヲ焼却ス。
  本日ヨリ航空気象電報トリヤメニナル。
  土中ニ埋メシ原簿ヲ掘出ス。
  国民義勇隊ハ解散サル。
8月23日
   米子測ヨリ応援ノタメ大谷雇来台ス。
 (注、この後引き続き米子より応援者交代して来台す。)
8月24日
  晴雨計室、観測室ノ応急修理ヲ行ヒ、第2蔵室ノ晴雨計ヲ元ノ位置ニ復ス。
  本日ヨリラジオノ音楽放送ガ開始サレ、ラジオ、新聞ニヨル天気概況ノ発表行ハル。
(注、後日の新聞資料の調査によると8月23日から復活している。)
8月25日
  台風ガ室戸岬南方ニ現ハレタノデ暴風警戒ノ指示書ヲ川本定夫ニ市役所ヘ持参サス。
8月26日
  台風アッケナク日本海ニ出テシマフ。
  金子、加藤両雇原簿保管ノタメ出張ス。
(注、進駐軍による原簿接収を恐れて田舎の職員の家に疎開した。)
  新台風四国南方ニ現ハレ北ニ進行中ノモヨウニテ警戒体制ニ入ル。21時気象特報ヲ点灯ス。
8月27日
  平野台長米子ヘ赴ク。
  菅原台長来台。(注、新台長の発令 昭和20年8月11日)
8月28日
  隣組ヨリ郵便ヲ持参ス。
9月1日
 「トヨハタ」放送内容ニ変更アリ。
9月2日
  本日菅原新台長着任。
9月5日
  戦時体制ヨリ平時体制ニ復ス――出勤時刻ソノ他。
9月6日
  新旧台長事務引継。平野台長送別会ヲ行フ。
9月7日
  第1号官舎ノ屋根修理ヲ行フ。
9月17日
  台長上京中。
  台風接近ノタメ臨時観測ヲナス。
  10時気象特報、テケ、発布。
 (注、この日枕崎台風襲来す)
9月18日
  昨日ノ台風モハヤ通過シ、本日ハ灼ケルガ如キ天気トナル。台風ノ被害大ナリ。
  10時気象特報解除ス。
  停電中。
9月19日
  夜間ハ冷込ミ秋冷一時ニ加ハル。
  県庁ヨリ台風調査ノタメ来台。
  停電中ノトコロ16時復旧。

6.枕崎台風襲う

中央気象台彙報第33冊によれば以下のとおり。「昭和20年9月17日九州南端枕崎付近に上陸した台風は九州、中国を横断して日本海に出、さらに奥羽を横断して太平洋に出た。

この台風は沖縄付近にあったころ、既に中心気圧720ミリメートル以下に推定されたが、九州に接近上陸するに及び、著しく強力なことがわかった。しかし、当時終戦後の電信線の復旧不完全のため確かな状況はわからなかった。枕崎からの暴風報告に接するに及んで、この台風は稀有の強さのものであることが明らかとなった。枕崎の最低気圧687.5ミリメートルは、昭和9年の室戸岬で測られた世界的記録684.0ミリメートルに匹敵し、且つ台風の規模も室戸台風劣らず、そのもたらした被害は多大なものであった。

大分付近で約710ミリメートルを示した台風は19時半ごろより伊予灘を通過して時速55キロメートルで北東へ進み広島に近づいた。広島における最低気圧721.5ミリメートルは22時43分に観測されていて、このころ風が一時衰えている。風向は順転している。広島気象台の報告によれば台風中心は広島の西方15キロメートルを通ったという。広島における風速は中心の通過時に南の毎秒25メートル、通過後3時間で北の毎秒30メートルの最大値が出ている。雨は前日の朝から降りつづき、17日の中心接近直前に最も強く1時間雨量57ミリメートルを示し、総雨量は218.7ミリメートルに達した。

被害については、岩国より東の方へ行くと被害が目立ち、大之浦にいたる間は、流木や押し流されてきた大石等のために潰された家、流された家が所々に見うけられた。水田は土砂で埋没し、線路も埋められて、惨たんたるありさまである。厳島の被害が大きく山津波が起こり多数の死者が出た。呉市内の水害による死者は500名を越えたのは同地方として未曽有のことである。

山陽本線に沿って、海田―西条―三原の間でやはり小河川や谷合いにあふれ出た水が急湍となって流出し、大石小石を押し流し、土砂は水田を埋め、線路を埋没し、道床をはぎとった。山から流されたと思われる木材や根こそぎにされた樹木が累々と横たわっている。このため山陽本線だけで復旧に要した人員約18,500人となっている。山津波の起こった時刻はいずれも中心の近づいた、雨の最も強かった時刻に一致し、今回の災害の起こり方の一つの特徴である。」

さて、この台風の襲来に敗戦直後の広島県民がどう対処したかは問題のあるところであるが、県庁・市庁は原爆で消え失せ、職員の大半が死亡四散した状況下で、猛台風が接近しつつあるのを知っていたのは何人であったろうか?気象台ですら1日数回の無線受信をして最小限度の天気図を作成して、業務の参考にしていた程度で、とても予報に使えるような代物ではなかった。台風襲来日の朝10時に気象特報と鉄道警報(テケ)を出しているが、内容とか通報先は記録がないのでわからない。加入電話は生きていたので、何箇所かには通知したであろうが、受けた方でそのあとどう扱ったか、当時の状況では一般に周知困難な状況であった。

今回この調査をするに当たって、各方面から資料を集めて見たが、いずれも周知されたという確証があがらない。まず当時の新聞であるが、昭和20年4月21日以降、政府の指示により新聞は中央紙、地方紙の合同発刊が行なわれている。同年10月1日からは単独発刊にもどっている。広島市立、呉市立の両図書館の所蔵を合わせても、新聞のない日がかなりある。ちなみにこのころの新聞は1日2ページ建、定価1部10銭である。戦時中の気象管制が解かれ気象記事がはじめて掲載されたのは8月23日である。以下日を追って新聞の見出し文を列記してみる。

昭和20年8月23日
  当分旱天続き
  けふの天気は8月22日から復活、気象概況をラジオで放送。
8月26日
  台風四国付近に上陸の恐れ、西日本は警戒。
  お天気:概況を記す。ただし九州を対象に中央気象台福岡支台の発表。
8月27日
  旱天に慈雨。蘇生の畑作物。
8月28日
  颱風日本海で腰くだけ――中央気象台。
  山口県の水害。
8月29日
  天気予報29日
(注、はじめての掲載、ただし福岡地方のものらしい)
8月30日
  思いがけぬ颱風予報。沖縄近海「死の測候所」から入電。
9月4日
  颱風けふかあす、くれば風速3、40m、壕舎生活は特に颱風に注意。
9月5日
  颱風は日本海へ
9月11日
  220日は大丈夫(中央気象台観測)
9月15日
 コラム欄「百万一心」
 210日から220日後にかけて殆ど20日間にわたり中国地方に降雨が続いている気象は珍しい記録である。
 梅雨と同じ気圧配置、ここしばらくはバラックは御難。
9月17日
…………
(気象関係の記事全然なし、この夜枕崎台風が襲来した。)
9月18日
 橋は落ち道路は湖、颱風広島県下を襲ふ。

8月の末から、まるで梅雨のように執ように降りつづいた雨は17日朝になってどっと豪雨になった。「洪水にならなければこの雨は止まんのじゃないか?」という心配は不幸適中して昼ごろから風をお伴につれてますます降りしきり本格的颱風になった。8月6日に原子爆弾といふ「火」の試錬をうけた広島市民に今度は「水」だ。みるみる河川は増水する。下水は逆流していたるところに激流をつくる。焦土に建ったバラックや半壊の家屋は吹きとぶ。

 農村方面も低地の田畑は湖のようになった。戦々競々たるうちに夜を迎えたが風雨はますます激しくなり電気も消えた。橋梁は流れる。汽車も不通となった。不安は刻々と増す……だが火に生き抜いてきた市民は敢然とこの天の猛威と戦った。暗夜に不断の警戒がつづけられた。かくて夜半ようやく雨は止んだ。やがて風もおさまった。

被害は県下一円に相当あるらしい。だが新しい日本建設にたくましく進む更生県民にはこれしき何ぞ苦難を乗越えて起き上がるだろう。

――写真1枚(新聞に写真が出ているという意味)――洪水と戦ふ村民(広島市外温品(ぬくしな)村中国新聞社疎開工場付近)
9月19日から9月30日の間は新聞見当たらず。

 これは枕崎台風の被害によるものと推察できる。中国新聞社はこのころ広島市向洋東洋工業内に仮事務所を置いていた。

10月5日
   颱風また本土を狙ふ。
   けふの天気:岡山・香川・徳島・鳥取・愛知・岐阜・福井・石川・富山(広島は出ていない)
10月7日
   けふの天気:12地方が出ている。広島はなし。
10月9日
   四国に気象特報(松山発)。
   けふの天気:8地方。広島はなし。
10月10日
本年掉尾の大颱風来る。稔りの秋に大打撃。西日本各地は厳戒の要。
   けふの天気:12地方。広島はなし。

以上のような調子であった。広島地方の天気予報が戦後はじめて新聞に掲載され始めたのは、昭和21年3月13日からであった。

つぎに当時のラジオ放送(NHK広島)の状況について調査したものを示す。なお放送所は郊外にあって原爆の際も直接の被災は軽くてすんでいる。広島中央放送局所蔵の放送番組表[昭和20年1~12月(2~8月の間は記載してない)]から抜き書きすると天気予報は第1放送で0500、0600、0700、2100、の各時刻に時報、報道、天気予報とあり、1850に天気予報、番組予告とあり、合わせて1日5回放送していた。この天気予報も全国中継かローカルなものか区別がはっきりしない。

台風のきた9月17日のページを見たが平日どおりの放送で台風に関する特別な放送は見当たらない。10月5日のページに午前0時と3時に台風警報(紀伊水道に接近し東北東へ進路をかえ関東沖に去ったもの)を臨時に放送したと記載してある。放送内容はわからないが中央から流れてきたものを放送したもようである。

また当時、広島管区気象台長として赴任されたばかりの菅原芳生氏に手紙で当時のようすをお尋ねしたところつぎのような回答が寄せられた。

「取急ぎ赴任せよとのことで、駅に下車して見た光景は只見渡す限りの広漠たる廃虚で、家畜の屍はまだウジがわいたまま放置されていたのを覚えており、一体どうなることかと思いました。

気象台の晴雨計室には原爆でこわれた硝子の破片がそのままに散らばり、官舎は雨漏りで、本台の担当者に見て貰うようそのままにしてあるとのことでした。小生もとりあえず台長官舎の屋根に登って応急修理したのを覚えています。気象台は市内中心部に比較して幾分被害は軽かったとはいえ、職員の大部分が被災しており、まず差し当たって職員の生活を、住居をどうするかが当面の大問題でありました。そこでお尋ねの件ですが

(1)このような状況のもとで広島県や市の機能がまだまひ状態から回復していなかった。気象台でも観測の現業を続けるのがようやくであり、当時トヨハタを受信してあったとすれば、まだ大出来の方でしよう。9月にはまだ予報を出せる態勢にあったとは考えられません。またこれを県内に伝達するための機能も回復していたとは考えられません。

(2)日本中がいわば虚脱状態にあり、中央あるいは近県からの業務援助など(皆自分のことで手一杯)期待できるふん囲気ではありませんでした。

(3)広島の壊滅的打撃のため、管区気象台の機能を米子に移す方がよいのでなはいか等の意見もありました。そのようなことで小生も米子に出張中であったと思います。」

枕崎台風の被害のとくに大きかった理由として考えられることは、前にも述べたように、第一に台風が格段に強烈で豪雨を伴っていたこと。第二に気象台をはじめ各公共機関とも壊滅状態にあって、一般県民に周知できなかったこと。第三に戦災を受けて、民家をはじめいろいろな施設が荒廃していて、暴風雨に堪え得なかったことによる。

いわば戦災に積重なった猛台風によって、広島県民は打ちのめされ、不幸この上ないうき目を見たのである。

7.枕崎台風以後

9月21日
  県農産課ヨリ台風調査ノタメ来台。
9月22日
  広島工業港所長台風調査ノタメ来台。
9月23日
  県警防課ヨリ台風調査ニ来台。
9月24日
  地震計室片ヅケル。
9月27日
  図書室ソノ他片ヅケル。
  無線受信機ヲ修理スル。
  時報サイレン鳴リ始ム。
9月28日
  宇田道隆博士来台。
  北技手、原爆、台風被害調査ノタメ本日ヨリ引続キ市内出張ス。
10月3日
   台長原爆調査ノタメ本日ヨリ引続キ市内出張。
10月7日
   ヒキツヅキ停電中。
   電話ノ修理ニ局ヨリ来ル。
   18時電信課ト連絡ス。08時ヨリ18時マデラシイ。
10月8日
   16時過ヤット点灯シ、18時ヨリ「トヨハタ」ニピカドン以来2カ月目ニハジメテ広島気象ガ延着ニテ入ル。
10月10日
   台風接近ノタメ気象特報発布。
   昨日15時ヨリマタ電話不通ナリ。
10月11日
   県河港課ヨリ台風調査ノタメ来台。
10月12日
   本台地震課佐野技師他1名原爆調査ニ来台。
10月13日
   正午ヨリ1時間ニワタリ米軍人5名通訳同行視察ニ来台。

8.あとがき

昭和20年戦況不利となるとともに日夜をわかたぬ空襲に苦しい勤務がつづき、ついに8月6日朝世紀の原爆を受け、潰滅状態の中で観測を死守していたところえ、再び猛烈な枕崎台風の襲来を受けた広島の惨状を記録して、後日の参考とする。

げに昭和20年は広島県民にとって最悪の年であった。


出典 広島市役所編 『広島原爆戦災誌 第五巻 資料編』 広島市役所 1971年 723~731頁
気象庁編 『測候時報』第38巻第1号別刷 気象庁(1971年初出)10~16頁 

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