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鍛永利夫さんの被爆体験 
鍛永 利夫(きたえ としお) 
性別 男性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島市宇品町[現:広島市南区] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部教育船舶兵団船舶通信隊補充隊(暁第16710部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
前夜の勤務が終わり、戦友が準備しておいてくれた飯盒(※1)入りの朝食を食べ終わろうとしている時であった。バラック兵舎(※2)の窓がオレンジ色に光った。「何だろう」と云う位の時間はあったと思う。次の瞬間、物凄い音。爆弾だ!と咄嗟に判断、訓練通りに身を伏せ、両手で目を押さえ口を開けてじっとしていた。どのくらいの時間がたったのか、何事もおこらない。静かに目を開けると、同時に食事をしていた戦友も同様の姿勢をとっているらしい。周りは砂埃で良く見えない。「大丈夫か」と大声で叫んでみる。「異常なし」の声と共に起き上がってきた。頭から血が流れている。これが昭和20年8月6日午前8時15分の記憶である。

私達候補生(※3)7~8名の者は、前日、M曹長(※4)の引率の下、候補生中隊のあった千田町国民学校(※5)を出発し、宇品船舶司令部に非常用無線の要員として派遣されてきたばかりであった。

医務室がどこにあるのかわからない。どうやら頭の傷はガラスの破片によるものらしい。顔が埃や血でグチャグチャだ。私は何ともなさそうだ。とりあえず血をとめてやらなければならない。水道の水で洗ってやる。血はタラタラと流れている。手拭で被ってやる。「痛いか?」と聞くと「大丈夫」と答える。医務室を捜しに行く。医務室付近は、もっとひどい兵隊でいっぱいだ。私達は軽傷もいいとこだ。アカチン(※6)をもらってつけてやる。どのくらい過ぎたか判らないがどうやら血は止まったらしい。自分の左ひざがヒリヒリする。袴(ズボン)をめくると血がにじんでいる。カスリ傷もいいところだ。アカチンをつけておく。防空壕(※7)内の通信所より一人連絡に来た。通信所は全員無事らしい。あの時の光は近くのガスタンクが爆発したのではないだろうかと云う話も聞く。とにかく何が何やら分からない。大きな爆発があった事は確かだ。バラックの内務班に戻ると血だらけの飯盒が転がっている。防空壕内の通信所に装具をまとめて全員集まる。

繋船場(※8)付近が騒がしい。行って見るとひどい傷の人が沢山いる。ひどい火傷の様だ。衛生兵(※9)が白い薬を持って駆けずり回っている。「兵隊さん、水頂戴、水頂戴」と口々に叫んでいる。母と幼児がグッタリしている。着ているものが焼け焦げ裸に近い。口をきく力もないらしい。そんな人達ばかりだ。我々はどうしてあげる事もできない。

無線電話で、「楽楽園、廿日市」を呼んでみる。先方は無事の様だ。色々尋ねて来るが、こちらも状況がさっぱり分からない。定時交信時間になっても司令部より何も云ってこない。かなり混乱している様だ。

十一時過ぎだったと思う。繋船場に大発(※10)(上陸用舟艇)で若い兵隊が揚がってきた。聞いてみると同期の特幹(※11)だ。同班に居たO候補生もいた。幸の浦の「海上挺進隊(※12)」の連中だ。彼らも救援に来たものの、状況は分からないらしい。

繋船場の上屋付近の人達がだんだん増えてくる。全身焼けただれた人、毛の無い人、裸の人、男女の区別がつかない人。ひどい、ひどい。「兵隊さん、水頂戴、水頂戴」に応じ、水筒の水をあげていると、衛生兵に叱られた。水を飲ますとすぐに死ぬ人が多いと云う。軍医の許可なしで水を飲ますなと云う。

明くる日、連絡の為市内に出ると海上挺身隊の同期生に会った。焼けた市電がそのままの姿で残っている。まだ中に死体があると云う。一望の焼け野原だ。福屋百貨店だけがポツンと立っている。中隊のあった千田町国民学校は講堂の鉄骨だけが残っていた。軽傷の若い上等兵(※13)がいた。三期生で人相が変わっているので分からなかった。前夜、司令部の警備から帰る途中、市電の中でやられたとの事。同期生のK候補生が校舎の下敷きになり、そのまま焼け死んだとの事。昨日中に死んだ者も2~3名いるらしい。中隊の殆どが重傷で、2~3個所に収容されているが詳しい事は知らない。とりあえず通信業務があるので司令部に帰った。

事後、終戦まで通信業務はテンテコ舞いの忙しさであった。

終戦後、皆実町国民学校に中隊は集結。9月10日頃奈良に復員した時点で、中隊の犠牲者は46名となっていた。

昭和50年、有志の募金により、比治山陸軍墓地内に特幹中隊の「鎮魂の碑」が建立された。平成元年9月15日44周年の慰霊祭が関係者が相集い催された。冥福を祈る。

以上、40数年を経た今、記憶の定かでない部分も多いが、思い出すまま書いてみた。

私の略歴
 昭和2年、奈良市生まれ、奈良県女子師範付属小学校を経て奈良県立商業学校卒(22期)
 昭和19年9月、陸軍船舶特別幹部候補生隊(小豆島)に入隊
 昭和20年1月、船舶通信補充連隊(広島暁16710部隊)に転属
 昭和20年10月~62年12月、近畿電気工事(株)に勤務
 現在、同社傍系の近電サービス(株)に勤務

(※1)飯盒(はんごう)
底が深くて蓋のある携帯用の炊飯道具。野外で飯を炊く際などに用いられる。

(※2)バラック兵舎(へいしゃ)
仮設の兵舎。兵隊のための宿舎。転じて、簡易な構造で造られる粗末な建物を指すようになった。

(※3)候補生(こうほせい)
鍛永さんは陸軍特別幹部候補生で、太平洋戦争末期の日本で15歳以上20歳未満の男子志願者から選抜され、大日本帝国陸軍(日本陸軍)の短期現役下士官となる教育を受けた。略して特幹。

(※4)曹長(そうちょう)
軍隊の階級の一つ。当時の日本陸軍では、下士官の最上級の階級である。

(※5)国民学校(こくみんがっこう)
1941年3月、小学校令を改正して「小学校」という名称が「国民学校」に改められた。軍国主義的色彩が強い学校となった。

(※6)アカチン
局所殺菌剤、茶色のヨードチンキに対し赤チンと呼ばれた。

(※7)防空壕(ぼうくうごう)
空からの攻撃(空襲)から避難するために、地中に造った穴や構造物のこと。

(※8)繋船場(けいせんじょう)
船を繋ぐ場所。

(※9)衛生兵(えいせいへい)
軍隊で、医療や衛生管理などの業務を行う兵士のこと。

(※10)大発(だいはつ)
大発動挺の通称。兵員や砲を海岸に陸揚げするためのボートとして、1920年代中期から1930年代初期に開発・採用された。

(※11)特幹(とっかん)
陸軍特別幹部候補生の略称。

(※12)海上挺進隊(かいじょうていしんたい)
太平洋戦争の末期に大日本帝国海軍(日本海軍)において編成された水上艦部隊。

(※13)上等兵(じょうとうへい)
軍隊の階級の一つ。兵の区分に位置し、一等兵の上、兵長の下に位置する。

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館平和情報ネットワーク「証言映像を見る 鍛永利夫」で閲覧可能。


父の思い出
奈良市 鍛永さんのご子息

 私の父は志願兵として、昭和19年9月に小豆島の陸軍船舶特別幹部候補生隊に入隊し、昭和20年1月に広島の船舶通信補充連隊に転属しました。広島に原爆が投下された時には、広島の宇品という場所で被爆しました。爆心地からは、そんなに遠い距離ではなかったと聞いております。父はもうすでに亡くなっていますが、幸いにも、後遺症らしい後遺症はなかったと思います。私は、父が志願した兵隊であったことや通信兵であったことは父から聞いていましたが、原爆が投下された時に町の様子や人々の様子がどういう状態であったかは、父の手記を見て知りました。今から思えば悲惨な状況を話しすることが辛かったのかもしれません。したがって、それまで私は父が被爆者であることは知りませんでした。私は、いわゆる被爆2世です。後遺症は全くありませんが、2世の方でも後遺症で苦しんでおられる方はいらっしゃると思います。

父は、いつからだったかは記憶にないのですが、毎年のようにたしか広島で開催される戦友会なるものに出席していました。それはそれは、本当に楽しみにしていることが手に取るようにこどもながらわかりました。家では、戦友会で買ってきた軍歌をお酒を飲みながら、本当に機嫌よく歌っていました。戦争のドラマも私とよく見たものです。1週間に一度テレビで「コンバット」を一緒に見たことは今でもよく覚えています。私は、こどもながらにサンダース軍曹のファンになっていました。ですから、私は父が戦争が好きなんだと思っていましたが、それは違いました。このこともいつ頃だったかは忘れたのですが、毎年のように市役所で開催される「平和の鐘」をつきに行っていました。そして、その頃に奈良県の被爆者の会の副会長(奈良支部長)をしており、その時に私は「父は戦争が好きではない。もう、あのような悲惨なことは御免だ。」と思っていることが初めてわかりました。戦友会に行くのは、同じ釜の飯を食べ、苦労を共にしたこと等が非常に懐かしく思えるのだと思います。父の手記を読んでも「戦争を二度と繰り返してはならない」という思いが良く伝わってきます。

先日(※1)、フランシスコ教皇が日本を訪問されました。原爆投下された日本を以前から訪れたいという希望をお持ちだったようで、戦争の悲惨さを常々訴えられています。核保有国には、核兵器の保有はその法外な破壊力のために、かえって戦争を抑止する力となるという「核抑止論」を唱えていますが、フランスシスコ教皇は真っ向から否定されました。現在、戦争という言い方はしていないにしろ、世界中のどこかで紛争は起きています。それぞれの国の指導者は「国益」のためと言いますが、争いが起きて苦しんでいる子供や老人を報道で見るのは本当に悲しいです。小さい力でも、たくさん集まれば大きな力になります。「核反対」「戦争反対」の声をあげていただければ、ありがたく思います。
 
※1 2019年11月のローマ教皇来日のこと。
 
出典 奈良県生協連創立30周年記念事業『奈良県のヒバクシャの声』編集委員会編 『奈良県のヒバクシャの声 ~地域で継承する被爆者の思い~』第一集 奈良県生活協同組合連合会  2022年 pp.27-32
 
  

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