私は昭和一九年七月千葉市の鉄道連隊に召集されました。当時二七才でした。
私は軍隊で広島市楠木町崇徳中学校内臨時兵舎内で一瞬の閃光と爆風により一〇米位とばされ失神した。幸いにも気がつき生きていることがわかった。併し周囲の状況は一変していた。今までの兵舎も校舎もすべての建物がなくなって一面の荒れた校庭となっていた。そのとき何があったのか、何もわからなかった。只生きている現実にこれは生きなければならないと決心した。併し軍隊である。自由行動は出来ない。
何分かたってから兵は太田川の河川敷に集合しろとの命令が報らされた。そのとき一人の戦友から顔から皮膚がむけ血が出ていると教えられたが痛みは感じなかった。そのとき自分の腕をみて皮膚が剝けて白い筋肉と血がにじんでいたが痛さは感じなかった。それよりも火薬の臭いとのどの痛みに呼吸が出来なかった。
痛さをこらえて営門を出たら平常は人通りない道路は市民で一杯で中にはいること出来なかった。その人達は全部けが人であった。老人も子供も女性もすべて火傷をしていた。特に家にいた女性はシミューズ一枚で全身をやけどをして幼子をだいているのをみたときはこれが戦争かとその悲惨さに言葉もなかった。
やっとの思いで河川敷についたがすでに市民達で満員でいる所もなかった。その時あの太田川を見たら火が流れていた。向い側の工兵隊からガソリンが流れ出して火がつき川面に流れ出していた。市民はその火にやられて流されて行くのを見たが残忍さに胸が痛かった。そのとき自分の背後で勤労動員の女子学生らしい二人の会話が耳に入った。それはお互いの顔の傷を話していた。おそらく顔をやけどしているのかと想像したがこれからの永い人生を思うとき同情の言葉もなかった。
当時状況は夕方の七時頃の様にうす暗く市内の方からは火事の勢いは物すごくじっとしてはいられなかった。そのとき空襲警報との声がきこえたが誰も関心を示さなかった。そのうちに行先のわからない避難者の行列に入いり動きだした。しばらくして夕立がきた。あの黒い雨である。放射能を含んだ雨に全身ずぶぬれとなり発熱と化膿に拍車をかけた。顔は泥絵具をぬりたくった如はれ上りとても生きられるとは思わなかった。学校の講堂に二日間いたがおにぎり一個たべただけでも空腹は感じなかった。
くわしいことはこの紙面では何もかけないが私は昭和四〇年頃に「思い出すままに・・・私の被爆体験記」を被爆者の会に発表したので参考にしていただければ幸いです。それでも被爆六〇年間医療法の御陰で生きられた事に感謝します。
ご判読いただき有難うございます。
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