当時一六才、女学校四年生。学徒動員(専売局でタバコ生産)に従事していました。
その頃、一二才年上の姉(既に結婚、子供三人)が大阪から平塚町の実家に疎開してきていましたが、広島も危ないので、島根の山奥に再疎開することになり、私はその付き添いで同行。着いた翌朝に広島に原爆投下。私は一人広島に残った母の安否が心配で、七日早朝島根を発って、八日に横川駅に到着。
鉄骨だけになった無惨な市内電車。又爆心地附近を通る時、目にしたあのすさまじい光景。又、平塚の我が家の屋根の上に横たわった白骨遺体を、てっきり変り果てた母のそれと感違いして、泣きながら拾った想い出。放射能の充満した中での野宿。空腹のあまり、当時空き地に植えていたネズミの尻っぽ程のさつま藷を掘って生で食べたその地中にも放射能は、黒い雨によって、しっかり沁み込んでいたことでしょう。
その後原因不明の異状な疲れ易さ、それが昂じると頭痛に吐き気を催し、二、三日は何も食べずに只寝ているより他ない状態でした。二〇才で結婚はしたものの、どんなに安静にしていても繰り返す早期流産。あげくの果ては胞状奇胎でした。
でもそれが放射能の影響によるものと判ったのはずっと後のこと。諸検査の結果、顆粒白血球減少症と診断され、丸一年に亘る治療中に、医療制度が出来、主治医から申請をしてもらいました。
あの様な辛い体験はもう二度としたくありません。
又間違って拾ってしまった白骨の主の遺族は六〇年経った今も行方不明の侭の家族の死を信じられずにおられましょう。それを思うと申し訳けない気持ちで胸が痛みます。
放射能の恐ろしさを身を以って体験した私は、これからの残された人生を後世への語り部として、戦争の悲惨さ、無益さ、そして核のおそろしさを、出来るだけ多くの方々に伝えていこうと思っております。
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