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原爆に想ふ 
喜多 康巳(きた こうじ) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 船舶司令部陸軍船舶練習部第10教育隊海上挺進第42戦隊(暁第19857部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二〇年八月六日午前八時一五分終生忘れ去る事が出来ない。

記憶のあらましを綴って参考になればと想います。

八月五日夜間演習で訓練を終えて八時前に上陸―バラック建の兵舎で朝食を取ってる最中、兵舎では全員褌一つで。其の瞬間何とも云えぬ風圧と熱風で飛び上る。服装を整えて舎外に出るやあのキノコ雲が目の前にあった。原爆とは誰も知らず。空襲警報解除の為、広島市内のガスタンクを直撃されたのではと口、口、に話して居ると非常召集で本土(宇品)に上陸命令が下った。完全軍装に身を整えてマルレ一人乗りに四―五名乗り込んで全速で宇品迄。上陸と同時に一般の人々が「兵隊さん助けて」と次から次えと皮膚の垂れ下った方々が救急用の道具では、間に合はず如何にすべきか?隊長が「速掛け」の命令で広島文理大学校庭迄数拾分、全員汗でビショビショ。途中で市電は転覆、牛、馬は転って人間は数百人位倒れて居り地獄を見て居る状態で目の前が真黒になったのを想い出す。

命令一下一番最初に復旧作業に手を付けたのが工場の壁が倒れ下敷きになった工員さんが数拾名列を作って居る。警報解除で整列をした瞬間に爆風で厚さ三〇センチメートル以上の土壁が倒れたのでは?短いエンビで土壁を割り引出したが下半身が潰れて居り軍医が骨折回復不能との事で全員校庭に並べるのが精一杯であった。次の作業命令で太田川であったと思いますが人間で川の水が見えない様な状態、一人ずつ縄梯子でかついで上り校庭に寝かした。全員は水の中での作業でずぶぬれであった。

昼食も忘れ持参の干パンは一般の人々に分け与えた為、喰ふ物が全然無かった。其の折一人の母親が娘を抱いて「兵隊さん何とか助けて呉れ」と泣き叫んで居り胸の名札に奈良県云々と書いてあった。小生も奈良出身の身であり上官に話して臨機応変の処置でトタン板を拾って、重油を使って火葬にし漬物用の壷を拾って来て納骨引渡したのを憶えて居ります。夕刻には倒れた家屋の柱を集め校庭に井桁を組んで死体を焼却せねばならず戦時下の為夜間は火の手を上げる事が出来ず明朝火葬にする様に命令されたが夏日の熱さと火の熱さで屍衛兵で巡回するのが大変であった。屍を積上げてある中で「助けて」の声は未だに耳に付いて時々小生の苦しい折々に頭に浮んで来ます。自分達は何一つ口に入れず頑張って、二日目「呉国防婦人会」襷を掛け「にぎりめし」差入れされ何とも表現の出来ぬ美味さを感じた。亦近くでポンポンと破れる音がするので近寄るとミカンの缶詰工場であったのが缶詰が熱で破裂して居り水を掛け短剣で口を切り油の臭いのミカンを数人で喰ったのを憶えて居る。四―五日続いて作業をし似島検疫所に渡り検査を受けたと思います。

原爆資料館も見学致しましたがそれ以上の風景を頭に入って居り人様に話す折、胸が詰るのを今でも感じます。私達の青春は何であったのか?

数年前店の取引上の高校の先生が被爆体験を話して欲しい。全校生の為にと云はれ引受けた直後病気入院し何づれかの機会にと現在迄其の儘ですが?

想い付いた数々をペンに記すのは大変な事だと思いましたが何かの参考になればと想い書いた次第です。

乱筆で読みづらいと想いますが判読してください。

先は取敢ず参考迄。                不一

旧 マルレ 四二戦隊深草隊

                        喜多康巳

追伸

原爆に対し個人的に対応を考へ付いた。
その当時
一、被服は、白地のもの。(黒、色物は、焼けていた)
一、帽子も白地の物。
夏場の事で白の長袖の皮膚は残って居った。
動物で白犬は走り廻って居った。他は焼死して居った。
  

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