当時私は南竹屋町の進徳女学校の寄宿舎に入ってゐました。学徒動員として千田町の貯金局の四階の事務所の中で被爆しました。
朝礼がすみ仕事にかかろうとした時ピカーと光ったと同時に人の血が私の顔に生ぬるく雨の様にかかって来て私の体は爆風でとなりの部屋にとばされ体の上には机がかぶさっており何が起ったかと思ひ部屋の中は夜の様に暗く廊下に出ると女の人が頭から血をながして私にしがみついて来ました。恐しくなり振払ってボロボロの階段を下までおりたのですが出口が開いてなく押しつぶされそうになり窓ガラスの破れた所から外に出たのですが外は電車の中に人がゐるのに火が出ておりどんどんと逃げて来る人は人間の顔ではなく手の先には皮をぶらさげて着てゐるものはボロボロ。家の中からは助けをもとめてゐるのですが皆自分が早く火のない所え逃げるのが精一ぱいでほんとうにこれが生地獄と思ひます。
私も手と首から少し出血してゐましたが、友人三人と一緒でしたので、はげまされながら、やっと火の気の無い畑の中に出たのですが今度は大粒の雨が降って来て白い服がみるみる黒くそまりそれが恐しい放射能の雨とも知らずぬれてゐました。その日は友人の家に泊めて頂き服がボロボロですので友人の家の人が着替えさせてくれようとしたのですが人の血で固まっておりハサミで切って服をはぎ取った様な状態でした。
次の日自分の学校に行ってみなくてはと思ひ、市内を三時間位歩いたのですが道路はぎっしりと黒く焼けた人又怪我をした人自分の肉親を捜し歩いてゐるし又川には沢山の人が死んでゐました。やっと学校に着いたのですが校庭は生徒が沢山黒くなりたおれてゐました。
皆生き残った人は比治山の方え収容されてゐるとききましたので行ってみると一緒に寄宿舎に入ってゐた人達ですけど誰かわからない位怪我とやけどで服も有り体についてなく唯お水をちょうだいと言ってる人がぎっしりと寝かされていて中にはもうウジの様なものがはってる人もいました。私の顔を見ると「お母さんに知らせて」と言はれるのですが私にはどうする事も出来ず「知らせてあげるので頑張りなさい」と言って宇品より船に乗って帰ったのですが家では父が戦地に行っていましたので母が小さい妹二人を置いて私を捜しにゆく事も出来ず心配してゐる所え三日目に帰ったものですから母がもう死んだものと思ってゐたので私の体をさわりまわして母と抱き合って泣きました。
広島長崎の人達は生きていても原爆の後遺症に苦しみながら生きてゆかなくてはならないのです。又子供、孫の心配も死ぬまで頭より離れる事は出来ないのです。二度とあの様な悲惨な戦争をしてはならないのです。世界中から核を無くさなくてはぜったいに平和はのぞめないと思ひます。
乱筆にて失礼致します。思ひ出して亡くなられた人達の顔が目にうかび涙が出て此の事は死ぬまで忘れる事はないでしょう。
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