当時私は下柳町に住んで居りました。家族は夫(当時三〇才)長女(二才)私(二二才)の三人でしたが私は妊娠七ヶ月でした。
あの前日八月五日の夜は空襲があるかも知れないとの話があり、安芸郡府中町の方に夜だけお世話になっていた家に泊りに行く予定にしていたのですが夫が平良村の実母のところに食糧を分けていただきに行った帰り自転車が動かなくなり歩いて帰って参りましたのが夜中になり不安の一夜を過しました。
幸い空襲もなく八月六日の朝夫は会社の建物疎開の作業があるからと七時ごろ出かけて行きました。
間もなく空襲警報のサイレンが鳴り私は長女と身支度をして庭に作っていた避難の場所に入っていましたが八時ごろでしたか空襲警報解除の知らせにほっとして部屋に入りました。窓ごしにお隣の方と無事でよかったことをよろこび合いました。長女はお友達(三才位)と遊ぶと云って表に出て行きました。解除になっていたので表に出したのです。子供達二人の足音が消えたと思いましたら瞬間まるで花火の中に居る様な光線と共に投げ出されていました。原子爆弾が投下されたのです。
一瞬の出来事で後は音一つない黒暗の中に居ました。家の下敷になっていたのですがしばらくして子供達の「母ちゃん母ちゃん」と泣く声が聞こえて我にかえり必死で建物の下から這い出たのです。子供達の名前を呼び捜しましたがどうすることも出来ませんでした。どこに居るのかさえわからないのです。
つぶれた家の屋根に上ったころ近所に住んでいた義兄が頭から血を流して出て来ました。子供の声はまだ聞えていたのです。私は一緒に死にたいと必死でしたが義兄にひっぱられ柳橋の方へ逃げたのです。弥生町方面から大火となり目前に火が迫っていました。柳橋(木の橋)も焼け落ち土手には逃げて来た人が転っていました。暫く川の中につかっていました。夏の日も夕方になるころやっと岡山の病院の看護さんの一行がお怪我の方はありませんかと声をかけて通られました。
その夜は焼けた我が家を見て子供達も焼け死んだことを思いどうしても立ち去ることが出来ず土手で一夜を過しました。
夫も水主町の方面に作業に行った様ですので行方不明のままです。会社の人は全滅でした。
涙で思う様に書けません。
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