比治山砲兵団司令部にて被爆。野外で松根油採集の講義中、附近の兵舎は倒壊、松林の松が赤くブスブスと煙をあげていた。しばらくすると全身火傷、水ぶくれの状態。夏場のこと故ほとんど丸裸のような姿。帽子をかぶっていた人は頭髪のみ残り皮フがつららのようなぐあいでたれ下っていた。私達講習中の人は一名即死(頭部に何かあたったのか親指の爪ぐらいはれたところから糸のような血が流れていた。死んだと確認したのはだいぶあとのこと)ただちに兵舎の中に入る。兵員の救助から始まり、市民の負傷者の手当といっても充分な医療品、器具がない上、下敷の兵舎では取り出すことも困難。「兵隊さん水が欲しい」という声にも耳をかすだけで、走り廻っているだけで何の救援にもならなかった。
広島市中が一斉に火の手があがり丸三日位いは火の海だった。それから後は夏場のことで負傷者の傷口から「うじ」はわき出し、また死者が増え出す。死者の火葬も倒壊した材木の上に死体をのせて焼く。衣服に住所氏名、血液型を記入するようになっていたが、被爆者は爆風とか熱によって誰々と確認をとることが出来ず。皮膚が腐爛してさわることが出来ず手に持つ丸太でコロコロころがして即製のタンカにのせ木材の上に乗せ焼却した。当時混乱した中では、これが精一杯のことで申訳けないということすら頭にのぼらなかった。半月ほど?たってから検査をうけるよう指示があったが、何処へ行けとか、何時行けとか、食事をした記憶がない。一週間も物を食べずにいられることはないが、握り飯ぐらいは食べていたのだろう。残務整理をして一〇月帰阪。
気持がたかぶってしまい乱筆御免。 |