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未来への伝言 被爆の体験と証言 
笠井 幸子(かさい さちこ) 
性別 女性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市松原町
広島駅 灰塵に帰していた。

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
当時私は一四才でした。父の転勤のため、家族五人で新宿から乗車、車中一泊し、原爆投下二日後の八時頃広島駅に着きました。駅とは名ばかりで、あたりには熱気が漂い、あちこちで真赤な焔が燃えさかっていました。それは大穴を掘って死体を重ね、丸太をわたしガソリンをかけて燃やしているんだと兵隊さんから聞きました。その名古屋から救援に来たと云う兵隊さんから、父は一杯のウィスキーを貰い私共が持っていた煎り大豆を差し上げ、一緒に食べました。その夜はセメントの上に毛布を敷き野宿をしました。夜が明け、水主町の伯父の家へ行く予定でしたが焼けて駄目だろう…と云う事で、父の実家のある比婆郡へ行くべく芸備線に乗りました。

列車の中で、頭も手も足も体も包帯でぐるぐる巻き、目だけを出した人達にたくさん出会いました。男か女かも分りませんでした。その人達は、数年も生きる事なく亡くなっただろうと思います。とにかくひどい怪我人でいっぱいでした。私は広島駅に降りたった時の異様な静けさと、暗闇の中を、赤々と燃えさかる焔の色、その強烈な印象は、今も目に鮮やかで、忘れる事は出来ません。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
昭和四〇年頃、父と母が大変な皮膚病を患いました。顔から首にかけて、赤く腫れあがり、父は職場を長く休み、母は私の出産の手伝いに来れぬ程の重症でした。なかなか治らず、医師は「原因は分らぬ、原爆症としか考えられぬ」との事でした。私も母の年令になった時、「あの様な皮膚病になるのだろうか」とビクビクしていました。お陰様で、父母程ひどくはありませんが、時々鼻から下、首、胸、足がジンマ疹の様な状態となり、それが今でも出たり、ひっこんだりしています。「これも原爆症の一つかな」とつい思ってしまう自分が悲しいです。

今、変形性頚椎症、変形性腰椎症で治療中ですが、なかなか治りません。加えて骨粗鬆症と診断されガッカリです。牛乳を飲んだり、つとめて歩く様にしている現在です。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
私は長い間、原爆手帳を持っていませんでした。父母が「そんなものを持っていると結婚にさしさわりがある」と、とらせなかったのです。広島では当時その様に云われていた様です。どうして隠さねばならないのだろうかと、大人になってから思いました。全くおかしな話です。人生の一番多感な時を、充分な食べ物も無く、ろくに勉強も出来ず…時の為政者が憎いです。戦争などして誰が得をするのでしょう。勝っても負けても傷つくのは同じです。冷戦も終ったと云うのに、未だ武器を作る国、それを売る国、それを買う国があって、懲りもせず、あちこちで戦争をしています。戦争を知っている私共が、戦争を知らない世代に、その空しさを語り継いで行かねばならないと思っています。
  

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