被爆投下時にいた場所と状況
広島市段原大畑町
段原国民学校西側正面玄関の二階の教室の中央部で机につき爆心地に向って着席していた。
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
昭和(天皇の)十四年に中島尋常小学校に入学。二年生のときまで爆心地中島で育ち写真屋でした。昭和(天皇の)二十年春、建物強制疎開で爆心地から二キロの段原新町に住み、一、七キロの段原国民学校の校舎の二階で被爆しました。
ピカッと閃光と同時にオレンヂ色の光の固まり、「バリバリ」とものすごい爆風の音がして校舎が浮き上り、すいこまれるように倒壊、一瞬下敷。助けを呼ぶ友の泣き狂う声に我れに返り脱出。校舎の屋根のミネだった。火がすぐ近くまで燃え上り、三十人の友のうち脱出できた数人とともに、友をみすてて逃げました。
中島地区九〇〇〇人は全滅、中島国民学校同期生の八割は建物疎開作業で殺され、転校した段原でも二十数人が焼き殺されるのを助けずに逃げた「地獄」。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
火が廻ってきたので、助けを求める友を見捨てて逃げざるをえませんでした。「助けてくれ」という友の声がいまだに耳もとに残っています。以来五十年間は「生き残った者」ではなく「死にそびれた者」として原爆で殺された友を背負って歩いてきたといえます。
広島の平和記念式典に参加したのは四十年後の節目の年でした。殺された友に生き残ったことが申し訳けないという気持がふっ切れなかったのです。これも地獄。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
生き残ったことが申し訳けなくて、なかなか運動に参加しませんでした。被爆四十年の節目の年、平和記念式典にはじめて参加。原爆で殺された友の家を訪問してまわりました。
広島二中一年生、三百二十二人が全滅。そのなかの一人旧友、谷本公君が死ぬまぎわに「カタキをとってくれ」と叫んだことを知ったときから、私は変わりました。カタキをとることは核兵器をなくすことだと思います。
これは、生き残った私たちの使命です。
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