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梶 睦子(かじ むつこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2013年 
被爆場所  
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
今年で六十二年目となる原爆記念日が近づいて来た。
 
折に触れあの惨状を思い出しては、子供や孫達に話す位で終って居たが、少しづつ原爆の惨状を書いたら?と娘に云はれ、未だはっきりと覚えて居る状況を書き印すのも有意義な事かも知れないと思ひ今日から書く事とする。
 
昭和二十年八月六日。
 
今日も朝から、空襲警報が発令された。先日グラマンが五〇機飛来した西の空からB29が一機襲来した。でも直に解除になった。道端に出て、ふきの皮を剥いで居た今日も熱い夏の日が始まったねと話し乍ら、と其の時ピカードドドズドーと土地を揺るがす音と共に城山の西の空にもご、もご、むく、むく、と黒ずんだ雲のかたまりがずずずーと空高く上って行く、かたまりが横に広く、広がりじーと動かないあの雲こそきのこ雲と云。
 
体がふるえ胸はどきどきする様な時間は過ぎる海田の方の火薬庫でも爆発したのだろうか?正午近くなって、誰かが広島が大変な事になって居る。駅から海が見える程メチメチに爆撃されて全滅だぞと叫けび乍ら帰って来た。
 
義兄高重の兄さんが今日会社から建物疎開に行って居ると云、府中の会社へ電話したら行って居ると云、兄さんの事だから、三年半も軍隊に居て帰って来たばかりだから多分救助活動をして居る事だろうと皆、思って居たが夜になっても帰って来ない。皆胸さわぎがし出して、明けたら行く事となった。
 
七日の朝義姉さんと食堂組合の方々と広島へ行く事としたが被災者しか汽車に乗れぬと云、駅の前の我が家では駅員さん皆顔を知って居るので天応迄歩いて汽車に乗れた、府中で下車、大津橋の手前で弁当を食べないと迚も物はのどを通らぬぞと言って居たが食べたかどうか覚えて居ない。
 
もう此の辺りから家々は崩れ人々は居ない。駅迄なんとかたどり着いたが駅もホーム丈屋根は無し、駅員さんも居ない何もどう尋ねる事も出来ず先ず川向ふへ行かねばエンコ橋は落ちて沈んで居る欄干は水の中、廻は大きくふくらんだ人々がふわーふわと何人も浮いて居る。川向ふは家々にはなぎ倒されると云より押し潰した様だ。岸辺にはむしろを張った小屋の中は幽霊の様になった人達が蠢めいて声にならぬ声を出して居られるそれでも家に帰ろうとする方は焼け爛れた体で衣服はばらばらになり、ふらふらと歩かうとして居られる。手を差し延べ様もなく、御免ねと云って、渡れる橋は無いかと上へ上へと行ったら鉄管の通った橋がなんとか渡れるとの事でやっとで川向ふの潰れた家々の間の道を先づ比治山の多聞院へと行く事とする。崩れ落ちた見渡す限りの家のあちこちから煙りが上って居る。電車は焼けただれた姿で止って居る。馬車はぐしゃっとなりて道端に崩れ馬は大きな体をべったりと横たわって居る。何とか通れる道をやっとの思いで比治山の多聞院へ着いたがお寺もお堂はかたむき何とか建っては居る。奥から和しょうさんがよろよろと出て来られた。
 
表の部屋から奥迄吹飛ばされて仏様の掛軸にくるまれる様に飛ばされ仏に助けて頂きましたと云事だった。お兄さんは立寄った様子も無く話もそうそうにして建物疎開の場所を向う事としたがどこをどう歩いたら良いか先づ日赤病院へと向う事とした。
 
病院へ着いたが建物は間の所に一むね、ここにも人々はガレキの上にむしろを敷いた丈の上に並べられて居る顔も体付きも解らない、息絶えた母親のふところでかすかに、もごもと幼児がお乳をさがそうとして居る様な力ない動きで迚も見て居るのがつらくてでもどうしようもなく地下へと行けばここも水びたしガレキの上にむしろを並べられ人別の解り様のない姿を一人一人見て、ため息が出るばかり、タンカに一人乗せて家へ連れ帰る人が居た。皆必至だ。兄さんを見つける事も出来ず地下から上って行ったがあの母子はもう息はとだえて居た。手の儘し様もなく、被災者の収容されて居そうな所はないかとガレキの道をどこをどう歩いたか、あちこちでまだガレキの道くすぶって居る学校の校庭だと思ふが小さな人らしく半こげになったかたまりが、顔も解らない状態でころがって居る。
 
此の様子だから姉さんはもし見付かっても子供には見せられぬと云。二番目の兄さんの家も次男が柱の下敷になって居て燃えて居る火の下からは助け出す事も出来ず兄さん夫婦は逃げて来たそうだ。
 
やっとの思いで建物そかいの現場へと着いて見たが、コンクリートのヘイは並んで居た人々の上にばっさりと五十メートル位か其れ以上か、朝のてんこの最中だったのか、倒れかゝり下敷をまぬかれた人々はどの人もこの人も皆水ぶくれになり、だれがだれやらさっぱり解らない程、顔や手は、ふくれ上ってずうーと、ヘイにそって何百人か解らないが死体のれつが続いて居る。向うの方で熊手で引き寄せようとしてもずるーと体がくずれて見て居られない様を後にして次へのさがしに行く。これでは迚も見付け出す事は難しいだろうなーと話し乍ら、又どこをどう歩いたかおぼえて居ない。
 
未だ翌日とゆう為かあまりさがし歩く人々は少ない。
 
暑さの最中が皆すっかり疲れて居る様子。
 
一日目は、駅に着いて帰るすべもなく汽車が出るかどうか解らない。皆野宿をしようかと駅舎の屋根もない星空を眺め乍ら体を休めて居たが日中は暑いプラットホームも最初こそ暖かくて疲れを取って呉れそうだったがだんだんと、底の方から冷えて来て、これでは迚も寝付かれそうにないねと皆無言で横たわって居たら十時頃汽車が出るそうだと云って被災者として汽車に乗って帰れた。
 
又次の日も又次の日もどこえ行っても家へしらせて下さいとすがりつかれても広島中はどこもこの様よと云ってどうして上げる事も出来ず材木町寺町お墓は皆たおれ石ひの上をふみ乍らしか歩く事も出来ぬ。と又さがし歩いた似の島に大ぜい収容されて居ると云事を知り宇品へ向ふ事とする。
 
途中兵隊さんの列に出会った、どの人もこの人も皆ゲートルはばらばら、やぶれたぼうしの下の顔は皆ふくれ上りまるで栗の大型が体の上にのっかって居る様だ。どこに居られたのか隊列を組んで救助奉仕に向はれるのかなーと思った。あの方々は皆其の後皆なくなられただろうと思ふ。あれ丈の被災をされて居る身で助かるわけがないと思った。
 
墓は皆たおれ石ヒの上しか歩く事が出来ぬ状態だ。
 
寺町材木町と何処をどう捜し歩いたか解らないが、兄さん夫婦は中深川の農家へそかいさせて頂き体を休める事としたが二人共動けなくなって、姉さんは目、鼻、耳と出血がひどく二・三日後に亡くなって仕舞はれた。兄さんは何とか一命はとりとめた様だった。
 
毎日収容されて居そうな所を捜して歩いたがどこも同じ建って居る家などなく、もう二、三日後位の夕方は、人々を焼くけむりがあちこちで見られる様になった。
 
似の島に兵舎収容されて居るやも知れぬと船で島に渡ったがあの広い長い兵舎の床にむしろがずらーと敷かれ水が入った竹のコップが一人一人の枕下に置かれて居るが、皆、動く力もないのか、もうすでに息絶えて置かれるのか、むしろの上にきちっと寝て居る人など居ない。苦しいのだろう体の特ちょうなど解るはずもなく何百人の顔は見なれた人でもなかなか解らないだろうと思ふ。衣服などもうバラバラだし女の子など可哀想。それでもどうして差上げる事も出来ない現状である。
 
九日目に突然、夫がツシマヨウサイ司令部から黒線光の修理に帰って来た。広島の兵キショウに行ったが迚も修理どころではない。あっちえ行って呉れこっちでは駄目だと云有様で一週間程が過ぎ家で終戦を向えた事丈が幸だった。
 
でも一度は帰隊すると云って博多迄行ったが、船は出なかった。後直球丸とか云船が出たそうだが、ギョライにあたって沈んだそうで又幸にも命が助かりありがたかった。
 
吉浦にも沢山の方々が被災して帰られたが皆髪の毛は抜け、ケロイドに苦しみ、次々となくなられた様だ。食糧難も重なって皆苦しい日々を送る事となる。
 
子供達もあまり健康とは言えぬ幼児期を過した。お父ちゃんも原爆のせいかどこがどう悪いかわけもわからず早々と四十七才の若さでいって仕舞った。元気な内は原爆手帳ももらう気持にもなれなかったが、二十五年振りに申請して現在に至る。 

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