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原爆被爆者体験書 廣島市にて原子爆弾投下被爆体験記 
香川 清(かがわ きよし) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島市仁保町丹那[現:広島市南区(丹那)] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部船舶砲兵団司令部(暁第6180部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
小生は、昭和二十年四月軍隊へ現役兵として、暁部隊船舶機関砲第二連隊門司に入営、同年六月広島船舶砲兵団材料厰に分遣、暁第六一八〇部隊九中隊宇品兵舎に勤務、同年六月二〇日呉市が米軍グラマン戦闘機により爆撃を受け、三日間続く。宇品の営庭から前方の空で敵機がよく見えた。高射砲の砲弾の破片が落ちてくるので危なかった。

同年七月一日付けにて中隊が丹那兵舎に移動。同年七月二十九日より毎日午前九時前後米軍B29一機が広島上空に偵察に一週間続いた。八月六日点呼朝礼後、兵舎偽装の為立木の枝を切る作業をしていた。八時十五分B29より落下傘にて、現在のコーラの缶の状態の物を落下したので、上空を見ていました。ところが、瞬間熱い光が発し直後爆風で大風のような風が出て、その場に倒れていた。軍帽は飛ばされ、気がついて頭を上げて見れば広島市内上空にキノコ雲が出来て、市内は大火災となり、中隊は直ちに市内へ応援。軍装して官公庁・広島大学・専売局、人影焼き付く銀行前付近、広島駅前、市電車の中には立ったまま死んでいました。軍人、市民の負傷者の救護に六日間毎日当たりました。

広島市内は三日四晩焼き続けました。道路沿いの電線鉄柱は中間部分より曲がり、また街路樹は原爆の光線により、茶色になり爆風により裂けまた倒れ、電線は切れ、水道管は破れ水が出る始末でした。家の中に居た人は、爆風によりガラスの破片で人体の関節部にガラスの粉が入り、また屋外にいた人は光線により、顔、手足の皮膚が焼けただれ無惨なことでした。

怪我人の治療は軍医が、午前中は軍人、午後は一般市民の人に当たって居ましたが、ガラスの破片の入った人は麻酔薬もかけずに、針とピンセットで掘り出して、その後に赤チンキを塗る程度でした。また光線にて火傷した人はテンカ粉とシラスメ油を混合した物を塗り、その上からガーゼを当てる状態でした。

その後三日間にわたり原爆による死者の集結作業。暑い為死者の皮膚にウジ虫がついていた。町の十字路広場にて死者の火葬を致しましたが、火葬と言っても生焼けです。そうしなければ死者にウジ虫が次々と附いてゆくので、止むを得ぬ始末で、残酷な事でした。私達の食事は暁部隊本部比治山にいた軍馬が、原爆で死んだものの足一本中隊にて料理し、馬飯・馬肉汁・馬肉煮付け、野菜はサツマイモの軸の葉っぱで、約十日間食して居ました。敗戦になり、原隊に復帰して九月に復員致しました。

原爆被害者被爆体験語り致し一筆まで


「生き延び続かれる人間最後の死」
〇原爆投下六十周年を迎えて
〇被爆体験記、詳細記憶記

原爆投下直ちに命令により中隊は軍装し徒歩にて丹那町より市内へ救護・応援に出勤。
民家は爆風にて倒れ、家の撤去作業に従事する家内にいた人間は窓ガラスの破片が関節部に突き立って血だらけになって苦難をしていた。又、ガレ木の下敷きになって死んでいる人間もいた。

屋外にいた人間は、原爆の光線により頭・顔・手に火傷をして水ぶくれになり、又水ぶくれが破れて皮膚をぶらさげて水を求めて歩き廻っていた。
何処へ行く所もなく、只歩き廻って水を求めて行く。
水を精一杯飲み込んだ後には死んで行く有り様であった。

市内の広場、学校の校庭に早急テントを張りにて仮の治療所を設置し、負傷者の治療を軍医により治療された。但し兵隊は午前中、市民一般は午後、当時何分薬の不足の為、ガラスの破片を取り出すには針とピンセットで掘り出して赤チンを塗る程度。火傷をした人体にはシラスメ油とテンカ粉を混合し火傷部に塗り、上からガーゼを貼る程度。
其の内、暑さと水・食糧がなく、倒れて死んで行く状態であった。

その後、市内交差点(四つ角)にテント張りの仮救護所が設置され、軍人・市民・青少年者の負傷者治療に従事した。
特に青少年小学校上級生・中学生が運び込まれ、治療中、
「兵隊さん水、水をくれ。」
と叫ぶので、私の水筒の水を飲ませ、水を飲み終わると死んで行くのです。
次々と続き、残酷な状態でした。
私の宿業(しゅくごう)と言うのか死んで行くのがわかっていても水を与えなければならない私の業でした。
私の水筒の水もなくなり、市内道路の水道管が破裂した水を飲んで救護に勤めました。

原爆投下後四日目には負傷者の人体にウジ虫が付いてウジ虫を取り除く元気もなかった。従って、死没者の遺体にもウジ虫が付いて悪臭にて困難でした。
各都道府県より急援の看護婦が到着致し、救護は交替、市内の広場へ死者の遺体を集結して遺体の火葬をする。
火葬と言ってもウジ虫退治程度で生焼けでしたが、数日後には油をかけての火葬でした。

市内一円(体験記の通り)爆風にて建屋が倒れた家の撤去作業に従事する。
以上の様な事が十日間続き、自分が火傷をしていることも気付かず、懸命な作業でした。
十日間の毎日の昼食は何を食べたか忘れましたが、カンパン五枚だったと思います。
原爆ドーム前元安川の水量は当時には現在の阡分の一の水で、川幅の両端は河原でしたが、この川へ水を求めて川の中にて死体となり、死体の川でした。あまりにも残酷というか、惨めな現実でした。

当時、広島・長崎の原爆の本当の被害・悲惨さは原爆に会った人でないと分からないと思います。
当時の出来事が強く頭の中に印象づけられて忘れる事が出来ない。
毎年七月・八月、暑さが厳しくなると思い出して、八月六日には広島の平和公園へお参りするのです。四十年間続きました。
日本国内の被爆された方々で今だ被爆手帳を取得されない人が沢山おられます。
理由は証人不明の為です。
証人者も次々と死亡され、手帳取得が出来ないのが現在です。

最後に

終戦後日本国に日本原水爆被害者団体協議会が結成され、五十年間核兵器反対運動を続けてきましたが、世界各国には核兵器使用反対の進展がない。
被団協は日本国政府へ厳しく請願して現在に至る。
原子爆弾(核兵器)使用は国際法違反である。
広島・長崎の市民、其の他の国民が犠牲になった。
原爆投下後、六十年の歳月経ってきて
被爆者も高齢になり、核の為何らかの病名にて苦しんで死んで行くのが現状である。
この記憶記を、我が子、孫が読み取り実感として想像してくれれば幸いと思います。

平成十七年八月六日
香川 清
  

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