昭和二十年八月六日、当時数え年二十才でした。私は八本松の軍の建設工事に従事して居り、滋賀県出身の年上のHさんと二人で八月五日の夜は、広島市内にて一泊し、八本松に帰るべく早朝より列車の切符を買う為、広島駅正面入口より約十メートル位の所で待って居りました。それより一時間位前だと思いますが警戒警報が有り、間もなく警報は解除となりました。
今度は午前八時十分頃だと思いますが、空襲警報のサイレンが鳴り、直後一帯が暗黒となり又、火薬の臭いで息ができなくなり、鼻・耳をふさぎ、土間に伏せました。その内意識が段々となくなり、頭より一直線に深い深い穴の中に落ちて行き、意識不明となりました。何分か何秒かは分かりませんが、その内に気がつきましたが駅構内は粉塵の為、真っ暗で東の空にかすかに日の光が見えました。それを目印に私は進もうとしましたが、怪我をした人や死んだ人の上を這いながら進んでゆきました。
しかし、天井よりコンクリートの塊が次から次へと落下してきて、もう駄目だなと何回思った事でしょうか。しかし、かすかな光に向かって這い進んでゆくと、ようやく駅正面出口へと出てきました。そして私の視界に入ってきたのは、きのこ雲でした。あとからあとからつきる事なく、むっくりむっくりと出て居ました。又、駅の詰所に居た憲兵軍曹を見ると、首から血が一~二メートル噴出して居るにもかかわらず、指揮をして居り、頭が下がる思いが致しました。そして路上の黒い防空頭巾とか黒い物には、引火して到る所で火がつき燃えて居ましたし、駅前の店は倒れ、下敷きになった人が大勢、助けを呼んで居りました。又、市内の方から駅方面に走って来た人は、皮膚はただれ、氷のうをぶらさげた様になっていました。まさか、あんな恐しい原子爆弾なんて想像もできませんでした。もしや、広島の軍の火薬庫が爆発したのではと思いましたが、とりあえずH氏と二人炎天下、呉線坂駅の知人の家を目指して歩き、ようやくたどり着きました。粉塵で真黒となった衣服及び体を海に入り汚れを落として、其の夜知人宅にて一泊。翌七日列車にて海田市駅迄行き、広島の市内に入りました。まず、広島駅前より宮島線己斐駅迄行く事にしました。市内の方に一歩入るなり、焼けただれた死体を見ました。始めは目をあけて見る事もできませんでしたが、市中心部の福屋デパートは外壁のみで、四方見渡す限りの焼野原で、市道の両側に枕木で作った半地下の防空壕の中では、何十人の女の人が壁にもたれて息たえて居りました。又、ドームのそばの太田川の河底には、兵隊さんが漬物を漬けた如く、真白く折重なって何百人も死んで居り、相生橋を渡り切った所では、勤労奉仕に来て居たと思われる、幼い十四、五才の子供が何千人も山の様になって死んで居り、目をおおう有様でした。
私はその日、八本松の宿舎に帰りましたが、その夜から一週間位、毎晩、洗濯した様に寝汗が出て、一晩に数回もしぼる程でした。体のどこが痛いと特定できず、体全体が激しく痛みました。
以後、昭和四十三年頃迄、一年の内、春先の三ヶ月位熱がでて床に伏せ、又、体がだるくて、その間は、仕事もできない状態でした。
現在は、動くには支障は有りませんが、二度とあの様な悲惨な事のない様、又、亡くなられた方々の御冥福をお祈り申し上げます。
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