ギラギラノ破片ヤ
灰白色ノ燃ヱガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヤウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキメウナリズム
スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
パット剝ギトッテシマッタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
プスプストケムル電線ノニホヒ
(原民喜 夏ノ花より)
爆心地・中島(原爆の子の像附近)で小学校二年生まで生まれ育った私が原爆に死にそびれたのは二つの幸運?
(一)父の写真業廃業で八〇〇メートルの下中町に転居。原爆投下四ケ月前に強制建物疎開で一、二〇〇メートルの段原新町への移動。
(二)中島国民学校六年の秋、病いで留年。段原国民学校へ転校。
中学進学した同期生への劣等感を抱きながら失意のうちに原爆をむかえました。この友との別れが、この世の最後の別れになろうとは、神ならぬ身の夢にも想わぬことでした。
当時は、ほとんどの学童は集団疎開。段原でも留守番組の五、六年生約三〇人と学校近くの生徒が登校。他の下級生は、空襲に備えて近所の寺などで分散授業を行なっていました。原爆爆心地一、七〇〇メートルの校舎の二階で被爆しました。
目もくらむような閃光が走り、目の前の何もかもが真白になりました。爆発音は記憶していませんが、校舎の倒れる轟音。体が圧迫され、目の前が真暗になりました。気がついたときは校舎の下敷きになっていました。
何が起きたのかさっぱりわかりません。しばらく音のない死の世界のような静寂が続きました。助けを求める声で生きていることを知り、漏れてきた一条の光をめがけ、屋根の峯に脱出。原子雲は悪魔のように傘をひろげてすべての生命を呑み込むようにグリッグリッと上昇していました。
脱出できた友は数人で、視界がきくようになると、学校だけでなく附近の家もペシャンコで火を発していました。三〇分位いは友を助けようとしましたが、倒壊校舎の下に入り込めず、火が迫ってきたので六人の友と逃げました。
(三年前放映された「原爆の絵―市民が残すヒロシマの記録―」(NHKスペシャル)と「広島テレビ」の「段原小学校の生徒さん助けてあげられなくてごめんなさい」は素晴らしい番組で全国に放映されました。これは私たちが脱出した直後の記録でしたが、それによると死者は、職員二名、保護者一名、防空要員二名、児童一八名とありました。)
生き残った被爆者の多くが、「あの日・あの時」を「原爆地獄だった」といいますが、逃げる途中の比治山下経由宇品線で見た光景は、ほかに言葉が見つからず、この世の「地獄」としか言いようがありませんでした。赤むくれの肌の下にワカメのような皮膚を垂らして手を前に出しまるで幽霊のように歩く異様な人びと、首のない子供をいだいて走る母親。その光景は、地獄そのものでした。
中国新聞社(爆心から一、〇〇〇メートル)の三階で被爆した父に翌日、安芸中野の専念寺で再会しましたが、急性原爆症にかかり、白血病で亡くなりました。
私が生まれ育った爆心地・中島地区には一〇の町があって市の記録によると、二、六〇〇世帯、九、〇〇〇人が住んでいたと言います。ここでは、市を南北に二分する防火地帯をつくる作業が、国民義勇隊一、〇〇〇人、それに一二校から出動した一、二年生、約二、〇〇〇人でした。一人の生存者もおらず、その死にざまは、あまりにも無残で、亡くなった学徒で名前の判明したものは一、八〇〇人たらずでした。中島の同期生の八割は殺されました。
生き残ったことが申し訳けなくて、なかなか運動に参加しませんでした。同級生が、「仇をとってくれ」と言って死んだと聞いたときから、私は変わりました。仇をとるとは、核兵器を、無くすことだと思います。これは、生き残った私たちの責任であり、使命なのです。
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