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恩田 喜多恵(おんだ きたえ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
各都市に対スル爆撃ハ日一日と猛烈化シテ来タ。本日ハ日曜日デアル。最後ノ疎開スル品々ヲ運ブベク昨日迄ニ用意シテ玄関ニ揃ヘテ八月六日の朝ヲ迎へた。早起きの母が例の如く早朝から起きて朝の支度に急がしい。

幸ちゃん、明彦、秋恵、自分と母揃って朝食を済ました。幸ちゃんはいつもより少し早目に出発した。

勝は六畳で夏のハンモックにスヤスヤと夢路に這入って居る。

突然空襲警報である。情報は広島の上空に向って単機、四国上空並上中。

防空壕に這入ってオドオドして居る。

救急袋も着替も身近に用意したが何故か広島には落ちんといふ心持が働いて居る。

広島は水攻めにするとしか考えて居らなんだ。

間も無く上空旋回中・・・・・。今日は変だなと感じた。

広島上空中旋回中の敵機は八時〇五分西條方面に退去。

空襲警報解除。この時敵機は恐るべき原爆を投下して居た。

一瞬にして廃墟と化し人命二〇〇〇〇〇の死傷者を生んだ。原子爆弾は無風状態の上空をフラフラフラフラ落下しつつあったのだ。

解除で気が楽になった。用意した要具を床の間に置いた。秋恵も明彦も遊びに行った。津川さんの家へ。母は食事のあと片づけすべく勝手口に降りて行った。自分は髪でもすくべく鏡台の前にすわった。

瞬間ピカーッーと光った。

ドゥン・・・・・・と同時に真黒な灰の様な物がザザザザザァーッと来た。同時に押しつぶされてしまった。ギャァッーと一声、六畳間でさけんだ。

母と同時に殺しななとさけんだ。

ぐんぐん押し付けられて行く。必死に両手で支へて居たが段々押しつぶされて行く。死ぬのかと思った。

もがき様も無い、丸つぶれの下敷になって居るので絶望かと思った。

母を呼んだ。助けてーと。母の声がした。母も下敷になり乍ら生きて居るなと思った。

幾分力強く感じた。

助かるかも知れないーと思った。まったくのキセキである。幾分経ったのか?母が自由な体になったらしい。待って居れ、どうしてもお前は殺しはせぬ、今に出してやると。

盛んに上で木、柱等をのけて居るらしく聞えるが中々自分の近くに感じない。一面にホウカイした家の上に居るのだ。自分がどの辺に押しつぶされて居るのか解らんのであろう。必死に呼んでも中々近づかない。真黒な所でガタンガタンと音が近くに聞えて来た。スーと光がさして来た。

助かるーー段々光が大きくなって来た。何かさけんで、助ける一念で作業をしてくれる母。姿が見えて来た。

中々体の自由がきく様にならん。大分明るくなった。全身の力を入れて必死にもがいたらガタガタガタと起き得る様な気配になった。首すじに熱い土がガサーッと落ちて来た。二、三回もがいたら腰が立った。出られたーと思うて立った。古くさって居た物干しが盛んに燃えて居る。

何もいらん、只、逃げ様と母と相談した。

勝は完全に殺したと二人共思って居るので何も勝の事はいわん。

秋恵と明彦を津川さんの家に連れに行った。丁度今二人共助け出された所である。全身血みどろである。

秋恵の右腕は深傷である。■ちゃんが手拭で止血して下さった。

早く連れて逃げてつかあさい。家の子供は今から出す所だといわれた。まず逃げ様と家の所へ二人を連れて来た。恐ろしさのため痛さを忘れて居る。オロオロして居るのみである。四人揃った。火は近く迄燃えて来て居る。逃げ様と行かんとしたが、下敷になって居る勝の死ガイでもだいて行こうと決心した。算盤に出て来ない母性愛の必然の姿であろう。四方火に囲まれ乍ら、死んで居る我子の死ガイを掘出すべく母と協力。見当をつけてバタバタ・・・・・とのけて行く。心はあせる、中々思う様に掘れない。

相当掘下げた頃、判然と可愛いい両足が見えた。居たとさけぶと母が引出すべく近付いたが?六畳の間の上にあった大きなランマが真上にある。必死の力でこれをのけ様としたが、女の手では一〇人位でも動くまい。その間に足を引いたらズルズルーーと出て来た。キセキである。出たとさけんだ。その下にフトンもヒモもあったのだが、勝の体が出た
うれしさにもう逃げると思ふのである。

母が簡単に出られたのは勝手の上は二階が無い所、常時二階の廊下に置いた四斗だるに水が一杯這入っていたのが、行儀良く下に落ちて来た。母の前にである。その死角に這入ったので難無く抜け出されたそうである。

勝の上のランマを取り除けようとした母が渾身の力を入れて持上げ様としたら、ビクトも動かずかえって母の腰ぼねがボキーッといふたのであきらめた。

頭から土で一杯である。体温はあるがビクとも動かない。死んで居ると思ったからそのまま皆で住吉神社迄逃げた。近所の人は誰も居らん。向いの水堅さん夫婦である。

北へ逃げた人、東へ走った人、南へ飛んだ人、思ひ思ひに安全地帯を求めて逃げのびたのであろう。

いかだの上に乗って、勝の頭や顔について居た土を洗ひ落したトタンにギャーァーと泣いた。生きて居たのである。チチを呑ましたら元気よくのんだ。五体にケガは無いかと手を足を次々に動かして見たが完全に動いて泣きもせん。完全に母性愛の勝利である。大きなひろいものをしたのだ。背中にオンブし様と思ったが紐が無い。水堅さんが上等の紐を下さった。自分達が近くで逃げ出した者の中では一番オソかったと思ふ。

火はエンエンと燃えて居る。

母が再三、必需品を掘出しに行くといふたが止めた。

この混雑の中、恐ろしい中では一寸でも離れると心細いのに危険が多分にあったから止めたのである。秋恵も明彦も自分や母の顔色を眺めてボウ然とよりついて居る。泣かない、少しも泣かない。全身、文字通り血達磨である。

風が無かったのであるが、火勢があがるにしたがひ、猛烈な風が起きる。真赤に焼けたトタンが無数に落下する。その度にブシューッと不気味な音をたてる。

ここに逃げて居る事がすでに危険である。体はあつい。市役所が水攻めの時に備へて沢山のいかだを繋留してある。ほとんどここに集まって居る。リサイ者はこのイカダの上に乗って居る。川向ふが燃えて居る。熱風が顔をなめて来る。その熱い事。万一の場合はあまり深くない川の中に這入る覚悟をきめて居るが子供を連れて居ては不安が大きい。

水堅さんが家から持出したフトンを敷いて下さった。我先にこのフトンの上にすわらせてもらふ。イカダが重みで沈みかかるので腰から下はビタビタである。恐ろしさと不安でガタガタふるへて居る。ここへ逃げたのも近所で一番遅かったので知って居る人はあまり居らん。

心細い折も折、B29が不気味に偵察に飛来してゆうゆうと飛んで行く。

ここを逃げるべく決心をした。秋恵は津川さんの長男が、明彦は御ばあちゃんが勝は自分がおんぶして己斐街道をヘラに向けて出発した。

道の両側は全部倒れて居る。広い道であるが爆風で飛んだ硝子の破片が道一杯に散ばって居る。裸足で逃げるのであるが、熱いので足の痛みを忘れて居る。

沢山ある川に来る度に体をぬらして行くのであるがすぐ乾いてしまふ。
  

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