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申述書 
片山 勲(かたやま いさお) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部教育船舶兵団船舶通信隊補充隊(暁第一六七一〇部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
一.(イ)

香川県小豆郡にあった船舶陸軍特別幹部候補生隊から昭和二〇年二月二五日、広島市千田町・千田小学校にあった暁一六七一〇部隊特別幹部候補生隊(通信補充隊)に転属を命ぜられる。

(ロ)

昭和二〇年八月六日・八時十五分頃小学校の校庭に於いて、朝の点呼中に突然米軍飛行機の落した原子爆弾によって被爆する。

(ハ)

此の原子爆弾で周囲の総ての建物は破壊と火災をおこし、灰色の空からバラバラと爆風で吹き上げられた破片が落ちて来た。

私は爆弾から発せられた光熱によって頭髪・衣服・靴・等の総てのものが焼け焦げ、まるぼうずに全裸の姿となり、身体の左半身が火傷をした。顔の左は、水ぶくれにはれあがり、耳の穴がわからなかった。爪でこの部分をなぜるとベロット皮がむけた。首から肩の部分、肩から左手の指先までの部分はそれぞれ皮がむけた状態で、左足のふとモモから指先までの部分も皮がむけた状態で、肩の一部と左足指についていた。左の乳・耳の穴・首の部分は、いちばんいたみがあった。左足は大きくふくれあがっていた。

(ニ)

隊の生き残った者は指揮者の指示により、小学校の近くの比治山までヨタヨタと登った。途中幾人かと、であったが、その人達を助ける力はなかった。比治山で休憩をとり、幾時間たったのかは、わからないが船舶練習部に運ぶから山を降りよと連絡があったが、動けない人もあり、私は必死の思いで山を降り、トラックの荷台に乗せられ焦土と化した街をトラックで運ばれた。

船舶練習部では一夜はその儘の姿で庭であかしたが、二日めには死亡者も多くあってその儘の姿ではあったが廊下でねむれた。

幾日かたって臨時の看護者も少数ではあったがくるようになり、火傷のくすりが塗られるようになった。焼けた身体は表面の部分がカサブタをはり、内側は化膿しウヂ虫が大小無数に湧いて、手と足の指先が全部この儘一本に固まるのではないかとか、腕が「くの字」に固まるのではないかと心配された。

こうした状況の中で幾日かたって広島第一陸軍病院に運ばれた。ここでは異常に白血球が多い、血便の状態もあって一時期に隔離された。

二.(イ)

昭和二〇年一〇月三一日、やっとあるけるようになったので、やもたてもたまらずに、幾人かの病院の人達と宇品から尾道まで船で出て、あとは列車で郷里の奈良県の五条に二日後に辿りついた。

(ロ)

家に帰ってからは、傷口の化膿してどうしてもなおらない部分、左腕の伸びない部分、足の指がひっぱられる部分、身体の温度の変化によるカユミの部分があり、奈良陸軍病院に昭和二〇年十一月頃入院をした。

病院では、化膿の治療とマッサーヂによって腕の「くの字」、足のひっぱりを伸ばす治療をうけた。左半身のケロイドは皮膚の大きな部分の移植手術が必要であるし、手と足の「ひきつり」は、きながにマッサーヂ治療と言う状態もあって同年十二月頃に退院をした。

(ハ)

昭和三七年九月に奈良国立病院(旧陸軍病院)に軍人恩給を受ける目的で診断書をもらい、奈良県庁の傷病恩給の係員をたずね、県庁で恩給を受けられないか相談をしたが、特別幹部候補生は生徒であるので恩給は受けられない。これから出来る原爆関係の方でその時期に申請をすれば、と言はれ、今日に至っております。

追記

昭和五八年に申請したところ傷病恩給を給付された。
  

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