一、傷病名 被爆による左半身火傷(第三度)
二、受傷又は発病の年月日及び場所
昭和二十年八月六日 広島市千田町千田小学校(特別幹部候補生隊の営舎)校庭に於て、朝の点呼を実施中、米軍の飛行機から投下した原子爆弾で被爆する。
爆心地より一・四キロメートル地点
三、症状並びに療養経過
光線により左半身熱傷する。症状は顔の左が、水ぶくれに腫れ上り耳の穴がわからなかった。首と肩、肩から手の指先まで、足の太股から足の指先まで、の部分は皮膚がむけた。乳の部分は水ぶくれになった。
光線で熱傷をおい、爆風で倒され起上った時は、暗い灰色の霧が立ちこめていた。生き残った者は指揮者の指示により橋を渡って、比治山に待避し、夕暮れになって重傷者は船舶練習部に運ぶと言う指示で、トラックの荷台に乗せられ、その夜はその儘々の姿で練習部の庭で夜を明かした。
運ばれた者に、その後、死者が多く出て部屋が空き、二日めには廊下、三日めには大部屋に移る情況であった。
三日め頃から臨時の看護者がつき熱傷に「ナンコー薬」を塗るようになった。
十四日頃に広島第一陸軍病院にタンカーで運ばれ、熱傷にナンコー薬を塗る治療を受けた。
熱傷の部分は皮膚の表面が「カサブタ」になり内側が化膿しウヂ虫が湧き、手と足の指の部分が、それぞれひとつに固まるのではないか、とか腕がこの儘々に「くの字」に固まるのではないかと心配をした。この時期に血の検査で異常に白血球が多いと看護婦さんから知らされた。
後日、血便により隔離され、その期間は「絶食」から、始まり「重湯」「一分粥」「三分粥」の順序による食事療養を受けた。治療中の主な看護者は動員された人達が当っていた。
十月三十一日には、やっと歩けるようになり帰郷が許可された。病院の証明書(写し)は次の通り。(写しは別紙添付)
右入院患者ニシテ所属部隊(暁一六七一〇部隊)復員ニ伴ヒ当院ニ転属
昭和二十年十月三十一日現役満期シ同日事故退院セシメタルコトヲ証明ス
昭和二十年十月三十一日
広島第一陸軍病院赤十字病院長 竹内 釼
病名 左半身火傷(第三度) (壱等症)
三十一日からの家庭での治療は、傷口の化膿を病院と同じ薬で塗り代えをし、「左腕関節の伸びない部分」「左足指の伸びない部分」のマッサーヂを行ったが、外気の温度変化とか、左側の肩、腕、足に負担をかけると、なんとも言えない「カユミ」があるので再度、入院をしました。
十一月頃に奈良陸軍病院に入院をし、化膿の治療と「腕」「手の指」「足の指」を伸ばすためにマッサーヂによる治療を受けました。左半身のケロイドは皮膚の大きな部分の移植手術が必要であり、自分の右の皮膚を利用するなら、無理な長期間の姿勢が求められると医師の説明もあり。気ながに家庭で治療する目的で十二月頃に退院をしました。
昭和三十七年九月十四日、国立奈良病院に恩給を受ける目的で診断をしてもらいました。診断書(写し)の証明は次の通りです(写しは別紙添付)。
現症
(一)左頚部からの左肩、左手背に及ぶ広範な火傷后瘢痕があり瘢痕性拘縮のため左上腕から左肘左手背の橈側(とうがわ)にかけての牽引感(けんいんかん)があり左腕関節は下記の如く機能障害がある。
左腕関節 肘伸展位では
背屈 一二五度 掌屈 一七〇度
橈側屈 一四〇度 尺側屈 一四〇度
肘屈曲位では
背屈 一二五度 掌屈 一一二度
橈側屈 一四〇度 尺側屈 一四〇度
頚部肩関節、肘関節、運動正常
(二)左大腿から左足先に及ぶ広範な火傷后瘢痕があり瘢痕拘縮のため左二三四趾は背側に牽引され下記の如く趾の機能障害がある。
左二三四 足関節 背屈位では
蹠趾関節 背屈 一二五度 蹠屈 一四〇度
足関節 踱屈位では
蹠趾関節 背屈 一二五度 蹠屈 一六五度
(三)瘢痕部に中等度の痒感が季節の変化時にあって悩まされると訴える
(四)可視粘膜貧血なく肝一横指弾力性軟触知平滑圧痛なし、脾不触なり。
検血
赤血球数 五四三万 白血球数 六、二〇〇
血色素 一〇% 色素係数 一・〇一
血沈値一時間 二ミリ 検尿 ウロビリノーゲン(+++)
検便虫卵(-)
一、判定見込 第三度症
上記の通り診断する
昭和三十七年九月十四日
奈良市紀寺町官有地
国立奈良病院
医師 緒方 惟之 印
医師 竹越 亨 印
右の診断書をもって奈良県庁の傷病恩給係に相談したところ、これから出来るであろう原爆関係の方で申請すればよいと教えられ、最近になって被爆者の特別手当申請について吹田保健所の被爆者の係に相談したところ特別手当の認定はなかなか難しいと言はれ、申請は今日に至っております。その後吹田保健所で行はれる原爆被爆者の定期健康診断での白血球は次の通りです(被爆者健康手帖による)。
一立方ミリメートル中
五月 一〇月又は一一月
四七年 八、〇〇〇 八、一〇〇
四八年 九、〇〇〇
四九年
五〇年 六、七〇〇 九、五〇〇
五一年 一ヶ月入院 九、四〇〇
五二年 ●九、三一〇 ●七、一〇〇
五三年 ●一一、一〇〇 八、一〇〇
五四年 六、〇〇〇 七、九〇〇
五五年 ●八、〇〇〇 ●一一、九〇〇
右の●印のあるのは血圧値、尿糖陽性で判定が要精密検査となり吹田市民病院で検査を受けております。
昭和五十一年五月頃から六月頃まで一ヶ月間、胃潰瘍で大阪鉄道病院に入院しました。
外科の症状は現在まで日常腕を伸ばす、手首をまげる、足首と足指を伸ばす運動を積極的に行っておりますが、腕を水平に伸ばすと、手首と指が腕のケロイドで引張られ、下向きに曲がりません。足首を下向きに曲げると、右足に比較して角度が浅く、足指の三本が足の甲のケロイドで引張られます。左半身のケロイドは固い皮膚になり、「季節の変化」、「温度の変化」、「肩、腕、足に荷重をかけた場合」等は「カユミ」を感じます。
四、帰郷後現在までの就業状況
昭和二十一年三月五日に国鉄天王寺鉄道管理局鳳通信区五条分区に通信工手として就業しましたが、外線の保修作業で電柱の登降が腕と足に障害があるために、現場では内線の保修作業をさしてもらっていました。
二十二年五月三十一日国鉄加茂自動車区五条機動隊に転勤をし、現在は京都自動車営業所福島支所(場所、大阪市福島区福島四丁目五番三十九)で勤務をしております。当支所の年間一人当り稼働日数としてみているのは、二四三日でありますが、要員等の関係もあり年次有給休暇を不承認の扱いで残している日数は、累積で一人平均三二・八日でありますが、私の場合は最少の五日であります。仕事の内容はトラックによる各駅間小荷物輸送であり荷扱い作業では三十キログラム以上の重量のある荷物は扱っていませんが、左側の肩、腕、足に荷重をかけた時は短時間しかもたないし、脚全体に荷重をかけた時は、左側が劣ります。
左腕は自動車の応急修理作業等で、手をいっぱいに伸ばして、物をつかむ作業は出来ません。又取扱い荷物箇数の多い時は、「カユミ」を感じます。
五、日常の生活状態
外観から見て服装の関係で夏は「首」「腕」「足の甲と指」「手」のケロイドが目につきます。歯科医によれば歯の質はよいそうですが、よく縦に割れます。
足は長時間の自動車の連続運転とか、歩いて約十キロメートル、走って約五キロメートルを二日間連続しますと、左足指をひっぱっている足の甲のケロイドの部分が痛みます。又左足の太股からふくらはぎの部分に、けいれんをおこすことがあります。
左腕は温度、季節の変化時とか、よく使った時に関節のケロイドでいちばん固い、引張っている部分に「カユミ」を感じます。
右のとおり相違ありません。
昭和 年 月 日
申立人 船舶陸軍特別幹部候補生
住所 大阪府
上等兵 片山 勲 印
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