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憂う人類の崩壊 
片山 倉次郎(かたやま くらじろう) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1999年 
被爆場所 広島県警察練習所(広島市水主町[現:広島市中区加古町]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 広島県警察部警察練習所 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
今世界は核開発に名を借りて地球は取り返しのつかない程に汚染されようとしています。あらゆる生活の手段は便利さと能率、それに加へ快楽を追い求めて自然破壊につながっていく、その中で一番危険なのは核の恐怖だと思います。

昭和二十年八月六日午前八時十五分、米国の行った広島市への原爆投下で日本国は決定的な打撃を受け世界の強国を相手にした長い戦いに幕を降ろしました。

あれから半世紀余りの年月を経て国の姿も国民感情も一変し大きく様変りしてあの大戦の為に犠牲となった多くの人々のことなどは昔話しとしても余り聞きません。

現在では原爆投下を正当化する議論もあるようですが犠牲者は皆罪なき人達であり余りにも痛ましく悔みきれない現実であったことを思い知るべきです。

あの日広島の朝は早くから夏の日が照りつけて連日の暑さと連夜の空襲警報の連続で誰もが疲れ果てた状態でした。

私は当時満十七才の夏でした。広島市水主町(現、加古町)県警察練習所(現、警察学校)に在学中でした。

連夜の警備部所から帰った警友達が朝食を済ませて、一校時の授業に入ろうとしていました。雑談では日頃の空腹の話ばかりで皆、一度でも白い御飯を食べてみたい心境でした。

突然、窓外にドス黒くみかん色をした閃光が走りドーンとものすごい大音響と共に校舎が崩壊し、奈落の底へ突き落されたように建物と共に二階から転落しました。私は建物の下敷となり寸時は失神状態だったようです。

重い圧力に身体を動かしている中に幸い私を押さえていたものは薄い天井板で必死にもがき板をどう打ち破ったのか、どうにか這い出すことが出来ました。

外は真暗闇でした。その中、隣接の消防会館か武徳殿の当りで火の手が上がり周囲が段々明るくなったものの、ものすごい土煙りでした。フッと我に返ると左眼が見えない、生死の境では痛みを感じないのか又シビれて感覚が失われているのか右眼を頼りに中島公園へ逃げました。

しばらくして公園へ避難してくる人達が増えてきました。その中隣接する中島小学校、警察の宿舎等に次々と火の手が廻り台風並みの爆風が火災と共に一段と強くなり、火の粉は次第に火の塊となり風に乗って降ってくるようになりました。

その直後、大粒の雨が降り出して、それがまるでスコールのように過ぎ去りました。後で言う黒い雨だったのです。

私は破れたカッターシャツを脱ぎ水に浸して被り乍ら避難者の誘導をしようとしましたが本川の岸辺はパニック状態で急ぎ川に飛び込む者、木片に縋(すが)って流れ浮き沈みして力尽きる者、殆んどの人が負傷者で特に火傷の人は帽子を被っていた者は光の直射で円形に髪が残り露出部分は皮膚がめくれてまるでトロロ昆布をさげているようになり男女の判別もつかないようになっていました。真夏の薄着の着衣は破れ血で染まり土煙で汚れ逃げ惑う姿は絶句の一言以外想像も出来ないような地獄絵図でした。原爆投下当夜は火災の為、避難地から動けず重度の負傷者が泣き叫ぶのを傍観するばかりでどうしてやることも出来ず一晩中火の海を見て過し、翌朝になって近在の兵士、警察隊が次々入市してとり敢えず食べ物(と言ってもカンメンポと呼んでいたが味の薄い固い菓子とみかんとサバの缶詰に赤色をした外米に大豆のムスビ位)の配給があり、重度の負傷者の救護をしていましたが夏の日のこと腐乱と悪臭が次第にひどくなり、とても食べる気にはなりません。私は他の警友と一緒に破れた着衣と靴で相生橋(原爆ドーム処)西詰へ出ましたが途中、子供を抱いて焼けただれた母が無残にも膨(ふく)れていた姿は今も瞼(まぶた)に焼きついて離れません。

相生橋から東へ、紙屋町から八丁堀へ、かつての繁華街は焼のが原に一変し死人の街と化していました。

焼け落ちた福屋内部にも人影はなく、焼けた電車が立往生したままで、あちこちに止まっていました。そして臨時市役所となった東警察署(私が警察練習所入校時まで勤務していたところ、銀山町電停前)へ避難者でごった返す署内で罹災証明書発行の手伝いをした後、警友と三人で広島駅へ、ここでも残骸が数多く乗降客の姿はなかった。唯、避難場所を求めさまよう人達とあちこちに死人が居たが、救うことも出来ずむごい事でした。

私達、県北部出身者は芸備線の矢賀駅まで線路伝いに歩き矢賀駅では避難者でごった返し列車も超満員で、その中何とか私達も乗車することが出来ましたがムセ返る列車内で泣き叫ぶ人達の悲鳴を耳にしながら三次駅へ到着しました。

三次駅前の救護所で私は眼の応急手当をしてもらい再び警友と列車で一人は塩町一人は七塚の各駅で下車、私は庄原駅で下車しフラつく足取りで家へ帰りました処まるで幽霊が帰ったように驚き狂喜したものです。

以後、私は一ケ月を経たころから発病して歯ぐきからの出血や咽のハレと髪は全部抜けて死線をさまよいましたが一命をとりとめました。その後、被爆三ケ月余りで左眼へ突きささったガラス破片の摘出手術をしましたが当時は化膿止めのペニシリン剤もなくて難儀をしました。

現在、一緒に帰郷した警友も既に他界して私一人が生き延びていますが私も老化して、この被爆体験を是非後世の人達に伝え再びこうした悲惨なことが起きないことを願い乍ら他にも書き記し度いことも山積しますが私が記憶する一端をお届けしますので判読頂ければ幸いです。

平成十一年三月十二日

                      片山倉次郎
  

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