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被爆体験について 
伊藤 宣夫(いとう のぶお) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 宇品凱旋館 船舶司令部(暁第2940部隊)(広島市宇品町[現:広島市南区宇品海岸三丁目]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部教育船舶兵団船舶通信隊補充隊(暁第16710部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は当時陸軍船舶特別幹部候補生を志願し、昭和二〇年二月一〇日香川県小豆島で入隊式を拳行し、二月二五日広島市比治山下の暁第一六七一〇部隊(陸軍船舶通信補充隊)へ転属し、千田町の国民学校を兵舎とし特幹分遣隊第三期生として起居し、本隊へ通い、特訓を受けて明日への戦地へ行くのを夢見ながら張り切っておりました。八月一日より宇品町陸軍船舶司令部へ中村班長以下六名の候補生が派遣され、私もその一員として行きました。防空壕へ通信器材を設置し、実務訓練をしておりました。八月五日で交替の予定でしたので、帰隊するつもりでおりましたが、その晩の命令で三名残留。そのまま私もその残留の三名中の一名として勤務することになり、八月一〇日まで、この地で通信をする事となりました。

八月六日は雲一つない青空が広がり、大変爽やかな朝を迎えて、「今日も大分暑くなるなあ」と思っておりました。ふとその時警戒警報発令され間もなく空襲警報発令され直ぐB29が三機金属音の爆音を轟かせて広島上空へ飛来してきたので、市民も私も防空壕へ避難したのであった。市内は死んだような無気味な静寂に包まれたのである。そして時間が刻一刻と過ぎていった。私はいつもの光景なのであまり気にもせず防空壕の出入口から顔を出して上空を見上げていた。そのうちに何故か空襲警報が解除となり警戒警報になった。一瞬、空を見上げるとB29は飛行雲をつくりながら市中心部より大分遠ざかったが未だ飛んでいる。市民は安堵の胸を撫でおろし、防空壕から這い出して歩く姿がチラチラ目に映っていた。その中電文が入り私は配達すべく司令部へ向って小走りに走っていた。

その時だった。突然キラッとマグネシウムがたくさん焚いた時の様な、目も眩む様な閃光が、私の左側六〇〇メートル位上空で炸裂した。瞬間熱いと感じた。直ぐ百雷が一度に落ちたと思われる様なゴーッという爆発の大音響と共に「アッ」「ウォッ」「ギャーッ」と云う市民の恐怖に戦く声や断末魔を思わせる絶叫が一度に重なり合って聞こえたのである。それと一緒に凄まじい巨大な爆風が押し寄せ、屋根瓦や木切れが吹っ飛び、ガラ、ガラ、バリ、バリというすさまじい音を立てて四辺の建物が将棋倒しに圧し重なり、それらが物凄い速さの津波のように私めがけて押し寄せてくるではないか─。私は一瞬何がどうなったか皆目分からないままに、とっさの機転で側にあった防空壕へ飛び込んだ。

しかし今度はグラグラッと地鳴りとともに防空壕が揺れ、土砂が崩れ落ちてくるのであった。私は入口付近で目を閉じたままジーッと身を竦めているしかなかった。

暫くして鳴動も治まり辺りは静かになったが、遠くの方で大勢の人達の悲鳴や絶叫が聞えてくる。私は恐る恐る防空壕を這い出して外を見渡した。びっくりした!!先程までの宇品周辺の情景は何処にもなかった。私の居る二キロメートル位前までの家並は完全に倒壊してしまい、その手前の家並もすべて倒壊寸前となって無残な姿をさらしているではないか・・・・・。遠く広島中心街附近は灰色の煙か、ガス状の様なもので覆われていて何も見えなかった。時に午前八時一五分、全く一瞬の間に広島市は焦熱地獄に突き落とされていたのであった。私はフト我に帰り、任務を思い出し、電文を握り直して一目散に司令部目指して走った。そして司令部の中に駆け込んだ。電報!!電報!!私は怒鳴るように大きな声で叫んだ。

司令部の中は足の踏み場もない程、窓ガラスの破片が飛び散り、散乱していたが、私は編上靴でガラスの破片をガチャガチャ踏み潰しながら将校室に入った。将校たちは皆顔面にガラスの破片が突き刺さったり、切れたりして、血だらけになって右往左往していた。私は一人の将校に敬礼をして、来意を告げた。「暁第一六七一〇部隊、コ隊伊藤候補生、電文を持って参りました」「よしっ」私は電文を手渡すと、直ちに走って防空壕に引き返して中村班長に復命した。

「伊藤候補生、電文を船舶司令部へ届けて参りました。」「よしっ!大丈夫か」「異常ありません。」まもなく、火災を告げる半鐘が鳴り、ジャンジャン乱打している。消防ポンプ車がサイレンを鳴らして出動し、船舶司令部からもトラックが十数台が市内方面へ出動していった。

中村班長は「比治山下の部隊本部と千田町国民学校の我々特幹隊へ行って様子を見てくるので、お前たちはこの場で通信任務を死守するように」といって市街中心部へ出掛けて行った。灰色の煙や霧状のガスが増々濃くなり、市街地は全く見えなくなっていた。まもなく市内の数ヶ所から火の手が上がり、忽ち燃えひろがっていった。これは大変な事態になった・・・・。と直感的に私はそう思った。

先程出動していったトラックが帰ってきたが、トラックの荷台の上には男女の識別もつかない程に黒焦げになった重傷者が大勢乗っており、どの人も顔、腕、といわず全身が焼け爛れ、血だるまになって、抱きかかえられながら降ろされているのである。衣服は焼けてボロボロになって垂れ下がり、言い表しようもない恐ろしい形相をして、フラフラ、ゾロゾロと歩いて来たが、殆んど素足のままであった。

「兵隊さん助けてぇ・・・・」助けを求める声もか細く、か弱く、ほとんど声にならなかった。あの瞬間に何が起ったと云うのか・・・・?この人達の火傷は、キラリとした閃光の炸裂のためだったのだらうか・・・・?熱いと感じたものによるものだらうか?全く、目も背けたくなるむごたらしい光景が私の目の前に展開された。被害者が次から次へと、まるで地獄から湧き出てくるかのようにゾロゾロ続いてきた。殆んどが焼け爛れて裸の状態になり、今にも倒れそうに力なく歩いてくるのであった。負傷者は増えるばかりで足の踏み場もない始末だ。仕方なく海岸沿いの掘建小屋に莚を敷き、その上に毛布を敷き横たえさせ、手当することも出来ずに放置しておくことしか出来なかった。側に行くと「助けてぇ」とか「水くれぇ・・・・」とか訴えるが、ほとんど虫の息だった。目の前で力尽きて、くず折れる者もいた。その頃晴天だった広島の空が俄かに曇り出し、一際強く俄雨がザザーッと降り出して来たのである。そこ此処に水たまりが出来たが、しかしまもなくその雨も上がり、一度は青空を覗かせながら太陽が照って来ましたが快晴になるに従って市の中央部に白い雲が?最初は入道雲に見えたが、それはだんだん上昇して、雲自体に命があって生きているかの様にモクモクと湧き上り、広がりながら次第に上空一面に覆いかぶさるかの様に見えたのである。今迄に見たこともない奇妙な巨大な雲が目の前に出現したのである──。

その間にも続々負傷者が運ばれ、トラックの荷台は真っ赤な鮮血で染まり、血糊が一面にべたついていた。一体、負傷者をどうしたらよいのか手の施しようもなかった。船舶司令部の掘立小屋は負傷者の唸る声、苦しみに呻く声、痛さに泣き叫ぶ声で充満していたのである。阿鼻叫喚とはこんな状況を云うのだろうか・・・・・。時がたって広島市街はいたる所から一斉に出火し、やがて全市が火だるまとなって燃え上った。もはや人事では手の施しようもなく、すべて成り行きに任せるしかなかったのである。

数時間経って中村班長が帰ってきた。様子を伺うと「火災の為とても市内に入れないので危険を感じて引き返してきた。お前達は幸い命に別条がないので安心だ。別命令があるまで、この場を死守するほかはない。部隊は恐らく全滅したと思う。今は各自責任ある行動が大事である。」これが中村班長の訓示だった。部隊全滅・・・・?信じたくはなかったが、凄惨たる現実を目の前にしては、そうかも知れないと思わざるを得なかった。燃え上がる広島市街地の真上には、先程の入道雲が更に巨大になって天高く湧き上がりキノコ状に変わっていた。雲には真夏の太陽が照り映えて、非常に美しく輝いたのである。どう見ても不思議な光景だった。これが原子爆弾特有の「原子雲」だったのである。先程の俄雨もまた原爆特有の「黒い雨」だったのである。勿論、これらは後日分った事であって、当時のラジオや新聞は一斉に「敵アメリカは新型爆弾を広島に投下し、広島は全滅の状態で、今後この地には草も木も一切生えないだらう」と報道された。又中村班長も私達の通信勤務中に「どうもおかしい。あの爆弾は、一体何だったのか・・・・?見た事も聞いたこともない・・・?不思議な爆弾だ」とシキリに云うのであった。

やがて午後になって同僚の特幹隊が救援の為に広島湾内に点在する島々から宇品港に続々と上陸してきた。私たちは力強く頼母しい限りであった。夕方近くには広島全市が一つの真っ赤な火の玉となって燃え上がっていた。生存者の誰もが唯呆然として眺めているだけであった。負傷者の数も午前中よりは大分少なくなっていたが、その頃になって巨大なキノコ型の雲の形もようやく崩れ、うすれかけていた。

夕食時の点呼で班長は私たちに命令を伝達された。「命令!!直ちに通信器材を撤収して、第二総軍へ行き船舶司令部との連絡をとり、通信任務を実施せよ」というものだった。佐伯船舶司令長官からの命令ではなかったかと思う。第二総軍は(中国軍管区司令部?)広島駅の裏手の小高い山上に置かれていた。この山は二葉山と呼ばれていた。そこへ行くためには燃えている広島市街を縦断しなければならなかった。私たちは通信器材を撤収して宇品を出発したのは午後九時頃であったと思う。中村班長を先頭に私たちは通信器材を交替で背負いながら広島駅へ向かって黙々と歩いた。宇品方面は、建物が倒壊しただけで火災からは免れていたが、電柱は倒れ、電線はズタズタに切れて垂れ下がり、街路には電車が横転し、人通りは全くなかった。宇品を過ぎると、見渡す限り街中は火の海だった。まだ火勢が強く、ほとんどの建物は焼け落ちて見る影もなかった。私は紅蓮の炎に煽られて行く手を阻まれ、行きつ戻りつしながら進む以外になかったのである。いたる所に焼け焦げて真っ黒になった死体が横たわり折り重なっている光景があちこちに見受けられた。炎の中の死体は、ある者は全身、ある者は上半身下半身が青白い炎を上げ、まるで襤褸切れのように燃えていた。死体の焼け焦げる匂いや建物の焼けた後の燻る匂い、種々雑多な匂いが入り交じり異臭となって充満していた。ときどき熱風と共に悪臭が吹きつけてくるのだった。焦熱地獄でもこれ程でなかろう・・・・。

全身に火傷を負いながら、火の海と化した街中を逃げまどい、橋の上や河原に難を避けた人々が多かったのであらう。橋という橋は被災者で一杯だった。私たちは負傷者で黒だかりになっている橋を、いくつも通らなければならなかった。「兵隊さん、水頂戴!」「助けて!」私たちが差しかかると助けを求めてしがみついてきたのであった。恐らく昼食も夕食も食べずに、飢えに苦しんでいるに違いなかった。そして喉の渇きに苦しんで、しきりに水を欲しがる負傷者が殆んどである。逃げ延びるだけが精一杯である。しかし私たちにはこれらについて何の助ける手立てもなかった。「元気を出して頑張れよ」とただ声をかけて、励ましてやることしかできなかったのである。宇品を出発してから相当の時間が経過し、絶望的な市街の被害状況が正確に把握できるようになると、しきりに郷里の遠野のことが思い出されて仕方がなかった。親、兄弟、友人の顔や郷里の風景が走馬灯のように脳裏を駆け巡ったのを覚えている。何時間、火の海の中を行きつ戻りつしたのだろうか?私たちはようようの思いで広島駅にたどり着くことができた。広島駅舎はコンクリート造りだったが、建物の内部は、殆んど燃え尽きてしまい、時々天井から焼け残りの木切れが落ち、そのたびに火の粉がパッと散乱していた。

広島駅の裏手の二葉山にたどり着くと、爆風で鳥居が倒れていた。第二総軍(中国軍管区司令部?)のある岩窟の中はひっそりとし、弱々しいローソクの灯の中に負傷した数人の将校がいた。中村班長は私たちを整列させ、司令官とおぼしき将官を前に到着を報告した。「気をつけ!!頭右!!直れ!!」「中村班長以下六名、命令によりただ今到着致しました。」

やがて、東の空が明るくなり夜が白々と明けてきた。宇品を出発したのが午後九時頃だったが、私達は翌日の午前三時過ぎに二葉山に到着したのである。普通の時なら歩いて一時間もあれば十分な距離を、通信器材を背負いながらとはいえ、六時間も歩き回ったことになるのである。この時の体験は想像を絶するものだったが、私には今以ってこの時受けた衝撃と精神的苦痛には筆舌に尽くし難いものがある。

私たちは、こうして八月七日から約五日間の二葉山上での船舶司令部との交信勤務を続けることになった。山上からは、市街が三日三晩燃え続けて、完全に焦土と化したのである。鉄筋コンクリートの建造物の外壁だけが残骸となって点々と立つだけの荒涼とした風景に、広島市が一変していく一部始終を凝視することになったのである。通信業務をしている場所に近いところに川が流れていた。木々の葉に覆われた薄暗い山道を下ると、直ぐその川岸につくことができた。私は非番の時に時々、その川岸で洗濯をしたが、この川岸や川原の到る処にも死体が転がっていたのである。死体には真夏の暑い太陽がギラギラと容赦なく照りつけるのであった。全身に火傷を負い、飢えや喉の渇きを癒す為に、水を飲みたい一心で辿り着いたものの、ついに力尽き果てたものであらうか・・・・。

いつも洗濯する水際に一隻の小船が繋がれていて、私はそこを洗濯物干場にしていた。ある日、中程の小部屋を覗くと人が死んでおり、辺りには死臭が漂っていたのである。この時の私達の食事は、くる日もくる日も三食とも「ジャガ芋」ばかりで、食事後はゲップが出て仕方がなかった。

八月九日、ラジオは長崎にも広島と同じ新型爆弾が投下された事を報じた。戦局はいよいよ重大な危機を迎えていることを思い知らされた。五日間の二葉山勤務が無事に終ったが、私たちには新しい任務が待っていた。明日は機材を撤収して引き揚げようという夜、私たちは宇品の船舶練習部において被爆患者の看護に付くことを命じられたのである。

八月一二日、私たちは二葉山から通信器材を撤収し、再び焦土と化した市街を通って宇品へ向かった。此頃になると焼け跡には人影が見えるようになっていた。防空頭巾を肩にかけ臑に巻脚絆を当てた男の人やモンペ姿の婦人が肉親や親戚、知人の消息を尋ね、探し回っているのである。つい数日前の焦熱地獄が思い出されてならなかった。私達は無事に宇品の陸軍船舶練習部に到着し、新しい任務につくことになったが、ここでいつも私たちの指揮を執り世話をしてくれた中村班長と別れることになった。宇品付近の建物は爆風によってほとんど倒壊したが船舶練習部の建物は倒壊を免れ、被爆直後から数多くの被災者を収容し、特設野戦病院になっていたのである。その船舶練習部の入口付近の門といわず、板塀といわず、雨戸といわず、ここに運び込まれ収容されている患者の名前が、新聞紙など有り合わせの紙に筆書きで所せましと掲示されていた。そしてこの掲示板の前に立って、家族、親戚、知人、同僚等の名前を探し回っている人が多かったのである。だから受付係は混雑を極め、生存や死亡の確認や消息を尋ねる人達でごった返していた。

大勢の被爆患者が治療を待っていたが、薬品があるわけじゃないし、唯々食用油を脱脂綿やボロ切れにつけて患部に塗るだけの処置に過ぎなかったのである。「水!!」「水!!」「水を・・・くれ・・・」虫の息で水を求める患者が多かった。私達も、始めは患者の希望通り小さな薬缶を使って水を差してやったが、きまって患者の容態が急変するのだった。比較的元気の良い患者も危篤状態に陥り、次々に死んでいったのである。その後軍医から「決して水を飲ませてはいけない」と指示が出た。連日猛暑が続き、患者はしきりに喉の渇きを訴えたが、患者の一命を助けるためには仕方がなかった。私は可哀想であっても、水を与えないように心を鬼にした。患者も私たちも我慢のたたかいだったのである。それでも、容態が絶望的な患者には最後の水を飲ませて、静かに息を引き取っていくことが毎日毎晩続いたのである。一日に一〇名~二〇名位はあの世の旅立ちであった。又傷口には小さな蛆虫が湧き、その蛆虫が耳の中、顔や体中の傷口で這い動くたびに、患者は激痛を訴えて、痛い痛いと泣き叫ぶのである。私たちは割り箸を小刀で削って細くしたもので、傷口の蛆虫取りに一生懸命でした。何しろ人数が人数なので本当に大へんでした。夜は交替で不寝番についた。不寝番には容態の要注意患者が申し事項として、特に気を配って見回らなければならなかった。部屋も廊下も大勢の患者で足の踏み場もなく、電灯ない真っ暗な病室を懐中電灯やローソクのわずかな光りを頼りに巡回するのである。どの患者も火傷の傷口の痛さで眠る事が出来ないでいるのだ。あっちでもこっちでも患者の唸りや呻きの中を巡回して見て歩くのは、まさに生き地獄を見て回る思いだったのである。それから私達は死体を荼毘に付さなければならない。死体を運び火葬にする日は毎日毎日しなければならなかった。日中は患者の看護に追われたが昼食が終ると、その準備をしなければならない。遺体は近くのコンクリート製の塔があり、そこに一応運んである。私達は近くの倒れた家屋の柱をノコギリでゴシゴシ切り、営庭に運搬し、それを櫓状に積み重ね、その上に遺体をコンクリート製の塔から担架で運び出し、乗せるのである。夕闇が迫る頃になると、広島市街の四方八方から遺体を荼毘に付す真っ黒い煙が立ち昇るのであった。私たちはその状態を云い表わすことの出来ない痛ましい光景を毎日夕方になると見なければならなかったのである。

「全員集合!!」私に号令がかかる。遺体を荼毘に付すときには営庭に整列して死者を弔ったのである。
「気を付け!!遺体に対し敬礼!!」「直れ」櫓に油を振りかけて点火し、濛々と黒煙の舞い上がる炎の中で遺体が焼かれていくのを、私たちはジーッと見守るのであった。遺体の焼け具合を調べ焼けていない部分があれば更に材木を継ぎ足さなければならなかった。作業が終わるのは、いつも東の空が白む頃だった。私達は天幕の中や戸外にシートを敷いただけで、そのまま体を横たえて仮眠をするのである。私たちは、連日の疲れもあって直ぐ眠ってしまうのであった。数時間の仮眠が終ると、荼毘の残り火を消し、骨を拾い集めて骨箱に納め、白布で包んで、一つ一つに氏名札を付け、安置室に納めるのである。そして線香とローソクを絶やさず気を配って、毎日、遺骨を引き取りにくる人を待ったのである。

その頃山陽本線などの交通機関が運転し始めたので、大阪、京都、岡山方面からこの野戦病院に面会にくる人が多くなった。面会所は多くの人々で溢れ、すでに死亡していたり、重傷であったり、幸いにも軽傷で助かっていたりして、それはそれはいつも悲喜交々でした。

ある日私たちは、上官から一枚の葉書を手渡され、家の両親宛にわが身の異常無く元気でいることを書くことを命じられ、短文の便りを綴ったのである。この便りが届いたときの両親兄弟の驚き、喜び合うさまを思い浮かべながら・・・・・。

八月一五日正午に天皇陛下の玉音放送があるという事で、歩行できる者は歩かせ、肩を貸すなどの介添えをして、患者を船舶練習部内のラジオの前に集合させたのである。正午の時報に続いて天皇陛下のお言葉が聞えてきたが、何のことか聴きとる事が出来なかった。終戦、敗戦である。然しながら私は半信半疑であった。そしてこれから自分たちは一体どうなるのか不安が入り交り、心の動揺と混乱の中に私は立たされていたのであった。然しながら毎日毎日被爆患者の看護という戦いは続いていた。疲労も覚えたが「何くそ!!」「これしきのことで倒れてたまるか!!」と歯をくいしばって頑張り抜いたのである。私たちは看護の傍らわが部隊所属の入院負傷者を尋ね、所属中隊や氏名などを確認し、収容人員をまとめて、衣服や下着、毛布などを背負い配って歩いた。電車で遠く宮島方面まで運ぶこともあったが、どこの特設野戦病院も被爆患者で一杯だった。宇品の特設野戦病院も死者数が日増しに少なくなり、生きる自信が湧き、次第に明るい雰囲気になってきた。そして八月末頃になると軽度の被爆患者が数人ずつ退院できる様になった。私たちも、宿舎を難を免れた近くの学校に移ることになったのである。宿舎はあっちこっちから集められた混成部隊の様なものだった。これといった仕事もなく帰郷できる日のことだけを考え、期待感に胸躍る思いを募らせていたのである。こんな時だった。新型爆弾に被災した者の頭髪が抜けるという噂が広まり、私達は新しい恐怖感に襲われることになった。朝起きるとお互いに頭髪を引っ張りあったもので、発病しているかいないか確めあったものでした。又歯茎から出血するという後遺症も発病して、私たちを震え上がらせたのでした。実際に頭髪が抜けたり、歯茎から出血する人も現れ、直ちに入院したが数日後には、きまって死亡通知が聞かされるのであった。私は幸いなことに新型爆弾の後遺症の発病もなく、郷里へ帰れるという期待感一杯に、この宿舎での毎日を過ごすことができたのである。

復員命令が出されたのは九月一〇日であった。待ちに待った何よりの朗報である。その日の夕食後、私たちは校庭に整列して人員を確認し、皆毛布の梱包を背負って出発した。岩手県出身者は一団となって、一ノ関出身の渡辺少尉が引率することになった。一〇数日間起居を共にした大勢の復員軍人が広島駅までの道を長蛇の列をなして続くのであった。「私はこの広島の地に再び来ることができるだろうか?いや来る。必ず来る。きっと来る・・・・」私は悪夢のようだった日々を思い浮かべながらも、密かに広島再訪を心に誓っていた。

そして再訪の時には広島が素晴らしく立派な街に復興しているに違いないという、祈りにも似た確信を抱いていたのであった。途中いろいろな事もあって何んとか遠野へ(わが故郷)帰って来たのである。感無量であった。古今未曽有の国難を救わんとして一命を捧げる決意を以って発った遠野駅に、私は生きて再び降り立つことができたのである。

家へ帰ったら家内中びっくりした。私の軍隊生活や新型爆弾やまた帰りに有蓋貨車から落ちた私の失態の話等々喜んだり、大笑いをする等ひと晩中話に花が咲いて夜のふける事も半ば忘れていたのである。

戦争ほど人間を不幸にするものはない。原爆を体験した私にしてみれば、戦争は絶対にしてはならないと思う。私は幸運にも恵まれて故郷に帰ることができたが、多くの戦友が傷ついて死んで行くのや、数千数万の人々がむごたらしく殺されていくのをみつめて来た。戦争による不幸や悲惨な運命をこの目でみつめてきた。もう戦争はコリゴリだというのが実感である。これからは平和な世の中を作らなければならない・・・。私は強くそう思っている。

永久に戦争のない平和な世界の到来を切に念願して、私の被爆体験記を終ることにしたい。

元暁第一六七一〇部隊コ隊(陸軍船舶通信補充隊)
   陸軍船舶特別幹部候補生
               伊藤宣夫 当六七才六ケ月

  

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