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『古新聞通し亡き父と再会』『原爆慰霊式で父の苦悩思う』 
石野 眞(いしの まこと) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2020年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
平成30年10月
【古新聞通し亡き父と再会】

70才になった平成30年9月、滅多に入ったことのない倉の掃除を思いついた。4つ並んだ箪笥に数代に渡る着物が詰まっていた。全てを取り出した後、下敷きの古新聞紙に目が留まった。紛れもない父の顔写真付きの死亡記事であった。昭和30年6月の記事で「島根でも原爆症死」古瀬一夫医師は原爆症による死亡と診断。日赤病院で解剖。石野さんはS20年8月広島部隊で勤務中原爆に合い、兵舎の下敷き、50余箇所の外傷を追い、近年は、疲労感、めまい、頭痛を訴え、4月に吐血したという。小学2年の早朝、祖母に起こされ、2人で近所の古瀬医院に向った。途中で草履が脱げたがそのまま砂利道を走った。間もなく医師が来てライトを目に当てた。母が布団に伏して泣きじゃくった。

叔父(石野賢吉)の話では、原爆投下後3か月間行方不明であったが、ある日何の前触れもなく帰ってきて、たまたま祖父(久吉)が縁側にいて「万歳、万歳、万歳」を繰り返したという。その時の叔母(ハスエ)の句「被爆してガーゼを傷に込みしまま、兄は帰れり晩秋の午後」がある。

父は風呂上りにいつもフンドシ姿で現れ、自慢そうに力こぶを見せていた。

その時、上半身に木の葉の様な模様が沢山見えたが、後にそれはケロイドであることを知った。父の死は被爆後10年目の昭和30年で、原爆の子の像、佐々木禎子さんも昭和30年の死である。二人とも闘病の末被爆10年後に亡くなったことになる。新聞記事等を広島市役所に送り、原爆死没者名簿への登載をお願いした。

 

令和元年9月19日
【原爆慰霊式で父の苦悩思う】

令和元年8月6日、広島市の原爆死没者慰霊式に参列する機会を得た。去年の秋、倉の中から昭和30年の父の死亡記事を発見したことが契機となった。

記事を広島市役所に送ったところ、追悼祈念館から「死没者名簿に登録し永久に保存します」という通知が届き、94才になる母と私達兄妹は何よりの供養と喜んだ。今年になって、広島市から8月6日の原爆死没者慰霊式への案内状が届いた。前日の夜稗原を出発し、遺族席で8時からの式典に参列した。

市長、知事、総理大臣の平和宣言のあと、死没者慰霊塔へ移動した。回転式の大画面に遺影が映し出され、父の写真は容易に発見できた。多くの子供達の笑顔があって涙があふれた。室内のパソコンに父の氏名を入力すると被爆場所、死亡時年齢(34才)が表示され「爆心地から2000メートルで被爆、兵舎の下敷き、50余箇所の火傷、3か月行方不明」と表示され、改めて父の苦悩が伝わってきた。当時、女学校在学中だったという「語り部」のご婦人は、被爆直後の惨状や肉親との悲しい別れ、瞬時にして多くの人生が断ち切られたことへの理不尽を語られた。会場の外では大学生が核廃絶に向けたデモ行進をしていた。

震災後、福島県から関西へ移住した人は、残留放射能の危険性を訴え、地元女子高生は佐々木禎子さんの一生を紙芝居で演じ、夕方には橋の下で精霊流しが始まっていた。平和公園での滞在はわずか10時間余りであったが若い人たちが核廃絶に向けて活動している姿に接し少し安堵した。残りの人生、可能な限り慰霊式に参列し、これ等の人達と共に平和活動に関わって行こうと心に誓って帰途に就いた。



令和2年8月
【戦争を語り継ごう】

2年前の秋、昭和30年6月付けの父の死亡記事「島根でも原爆症死」を発見したことから原爆死没者名簿に登載され、去年8月6日の死没者慰霊式に参列する機会を得た。この経過を本紙「こだま」に投稿したところ、当時、広島の海軍に居たという方、被爆二世の方、友人・知人から電話をもらい、思いがけない鎮魂の夏となった。今年も慰霊式に参列する予定でいたが、コロナの拡大で断念し、当時、広島の海軍に居たという方にお会いすることにした。

住所を探し、自宅へ伺った。出雲市野尻町 星野敬一さん91才で、奥様もお元気で、当日は近くの菜園で作業をしておられた。

星野さんは15才で海軍を志願し、昭和19年に広島の大竹海平団に入隊、上官に軍人精神注入棒(樫の木・1.5メートル)で尻を殴られる日が続いた。3ヵ月後に防空壕を掘る仕事に就いて終戦を迎えたが、同期の中にはあこがれの戦艦大和に乗船して海に散った者もいたという。原爆投下時には閃光が見えた。「あの戦争は一体誰が始めたのか、責任者は誰で、どう責任をとったのか」と独り言のように何度も繰り返された。

弱冠15歳にしてお国のため、天皇のためとの想いで海軍を志願されたようだ。

戦後75年、未だにあの戦争に思いを馳せ、問い続けておられる姿に接し、「戦争を語り継ぐ」バトンを託されたような心境になった。早速、中央新報社に電話を入れ取材をお願いしたところ、連載中の「戦後75年 言葉を刻む」に取り上げて頂いた。記事の見出しは「誰も何の責任も取らず終わってしまった」である。



【養父「夫一」と石野 眞の人生】(4)

令和元年5月、養父「夫一」が89才でこの世を去った。実父「一義」が亡くなった後、幼い兄妹(眞、悦子、瑞枝)のもとに来てくれて可愛がって育ててくれた。瑞枝は小学校迄実の父と思っていたらしいが、私は不良少年と化し苦労を掛けたことを覚えている。昭和33年には夫一の実子「祐子」が生まれ8人家族となった。養父は80アールの水田を耕作しながらセメント工場に勤め一家を支えてくれたが生活は楽ではなかった。その中で私を大学へ、妹たちも高校、看護婦学校に出してくれた。今は、それぞれが家庭を持ち、感謝して暮らしている。

石野家は私で十代目になるが、夫一が来てくれなかったら決して今のような家庭は存在しないと思われる。生前に、もっと孝行しておけばという気持ちが消えることはない。

私は昭和45年に麻布獣医科大学を卒業し、島根県職員として38年間勤務した。退職後は、(社)島根県緑化推進委員会に勤務しながら、稗原の仲間と共に「稗原森のコンサート」「稗原森の広場」等のイベントに関わり有意義な時間を過ごした。妻あい子は、高齢者を支援するため「居宅介護支援事業所」を開設、併せて介護保険で賄えない支援をするため「ひえばらお助けマン互助会」を立ち上げ現在に至っている。「ひえばらお助けマン互助会」は平成29年に発行された「稗原郷土史」に掲載された。



令和3年8月15日

私の大叔父(渡部孝吉)は明治44年出雲市稗原町の我が家で生まれた。幼くして三刀屋町大谷に住む子供の居ない姉夫婦の養子となった。結婚して3人の男子が生まれたが3番目の息子が生まれて間もない昭和18年、召集令状が来て浜田連隊からフィリピンへ出征した。2年後の昭和20年8月、戦死の公報が届いたが遺骨は無く、白木の箱に砂が入っていたという。35才の死であった。母は息子の死が信じられず、床につく前には玄関の戸を少し開けて何年も帰りを待ち続けたという。霊媒師が「戦地で結婚して子供も居て、幸せに暮らしている」「今年も庭先の梨が生ったかいな」と語りかけるのを聞いて、103才で亡くなるまで息子の生存を信じていたという。

出征地はフィリピンのボソボソ地区というところで、部隊は玉砕し、兵士達の多くが感染症で倒れ、終戦を知らずにジャングルをさまよい、飢えの中で戦友の肉を食った者もいたという記録が残されている。現地には慰霊碑が建立され、日本からの遺骨収集団が何度か訪れている。

あれから76年、奥深い山の中腹に建つ院号の入った墓石が、かつての大叔父の存在を証明している。我が家で生まれた大叔父(孝吉)と父(一義・34才原爆症死)の短い生涯をこの手記を通じて伝えて行きたい。

 

令和4年3月7日
【断捨離で大切な写真を次世代に】

今年はいよいよ後期高齢者の年齢に達するので断捨離に取り掛かろうと準備を始めた。定年後、古里で様々なイベントに関わり、大量の写真が箱に詰まっている。3.11が起きた後、津波に流された自宅跡に呆然とたたずみ、アルバムを探す人の姿が放映されて以来、家族写真はそれぞれの家族の存在を証明する貴重な資料として認識してきた。私の幼少時は自宅にカメラが無かったので、家族写真は写真館で撮っていた。その内の1枚に33才の父を真ん中に小学1年生の私と4才の妹が写っている。病弱であった父はこの写真を撮って3か月後に急逝した。「原爆症」と診断され、解剖に回され、家族構成や死亡に至る経過を含め3回に渡って新聞報道された。父は私達2人の兄妹を自転車の前と後ろの荷台に乗せ、10キロ離れた大津町の加藤写真館へ連れて行った。仰々しい写真機が怖くて泣きわめいた記憶が残っている。この写真を見ていつも思うことは、この時、父の胸中に何があったのか。死を予感するような体調の変化があったのではないかと今でも思っている。このたびの断捨離で、様々なドラマの詰まった写真を思い切って整理し、3代・4代あとの子孫が、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんに会えるように仕掛けをしておきたい。
  

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