昭和二〇年八月六日当時、東大の学生であった私は狛江の下宿に居り、広島に特殊爆弾が投下されたと聞き、切符の手配をしたがなかなかとれず。東京駅に何日か並んで切符を入手、広島に着いたのが八月一二日であった。広島駅からは江波山まで見透せこれは駄目であると思った。堺町の家に着くと木炭や石炭がもえており、食堂には両親が隣の土蔵の土に覆われてむしやき状態で発見された。
それを掘り出して、近くの燃えている木炭で骨にして、銅の花瓶に両親の骨を一緒に入れて、今の沼田町伴の本家に歩いて持って行った。
丁度八時一五分には開院前で数十名の患者さんが居られたらしく、待合室の跡には完全にもえつきた骨が散乱していた。後にお寺にたのんで現地でお経を上げて貰った。五日市に部屋を借り、毎日堺町え通い、何か遺品等がないか探しに行った。一人看護婦が五日市まで逃げて来たが、一週間後に死亡した。
その話によると、台所で原爆に遭い、偶然無きずで外にはい出したが、木は上の方からもえはじめて居り、両親はとなりの倉の土の下敷きとなり、動けず焼死したものと思われる。逃げたとしても、死亡していたと思われる。
その後、半年学校を休んで家の整理に当った。一番困った事は両親名儀の銀行等の預金を探すことで、特に私が両親の子供である事の証明であり、町内の人は殆ど死亡してその証明に時間がかかった。食料を手に入れるのに苦労し、栄養失調のため、結核にかかり、その後一〇年以上気胸を患った。
広島に着いた時は、あちこちで燃えており死体が散乱していたし、蝿が多量に発生してその上臭く、現地で食事もとれない状況であったが、台風の直撃により太田川がはんらんし、その死臭もきえ、蝿も少くなった。
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