●被爆前の暮らし
当時、家族は父・西谷辰雄(にしたにたつお)32歳と、母・西谷千代子(にしたにちよこ)23歳、私の3人で暮らしていました。
爆心地から1.3キロほどの横川にあった私の家に、宇品港から出兵する兵隊さんがいました。
空襲警報が鳴った際には、兵隊さんの車の後ろに家族3人を乗せてもらい、岩国方面へ一緒に避難することがあったそうです。母にとっては、ドライブ気分に浸れる片時の楽しみでもあったようです。
食料は、兵隊さんに分けてもらっていたので、困ることはありませんでした。
●被爆、そして原爆の爪痕
昭和20年(1945年)8月6日、午前8時15分、原子爆弾が広島へ落とされた日、母と私、そして隣の子が私の家にいたそうです。当時まだ2歳9か月だった私には、その瞬間の記憶は残っていません。
原爆が投下された時、金太郎さんの前掛けを着せてもらっていた私は、トイレへ行っていて、ちょうど出て来たところだったそうです。
私の家は大きな家だったので崩れませんでしたが、家のガラスの破片が爆風で飛び散り、母が必死に後ろから私の身を抱いて守ってくれたそうです。
原爆による強烈な爪痕は、父の頬、母の背中、そして、まだ幼かった私の右腰・左太腿の後ろ側・左肘の内側・お尻の上側など、体のあちこちに刻まれました。母の背中にあったガラス片は、当分経って母の体内から出てきました。私の体には、今も当時の傷跡がはっきりと残されています。
家の前では、馬が焼けていたそうです。隣の子は家の人が連れて帰り、トイレ中、爆風で飛ばされたようで、その後どうなったのか、それどころではありませんでした。
両親と私の3人は、自宅から程近い三篠の竹やぶの方に避難したそうです。おむすびや蒸かしたジャガイモの配給を受けたそうです。
その後、私たち3人はお昼の何時頃だったかは分かりませんが、父が横川駅に行って、列車が上りは広島駅がぐちゃぐちゃなので出ないが、下りは出るということを聞き、交渉して下り列車に横川駅から乗せてもらい、当日のうちに廿日市へ向かったそうです。廿日市には母方の祖父(中村要八)(なかむらようはち)と祖母(中村ヤス)、戦争に行っている伯父の家族が住んでいました。
乳母車を押して駅まで迎えてくれた祖母は、私たちを見て、髪は風でぐちゃぐちゃになっているし、ぼうぼうだし、この人たち死んでるわ、すぐ死ぬわ、と思ったそうです。
●廿日市から牛田へ
私の祖父母が住んでいた廿日市の母の実家は、土地と倉庫を所有していて、倉庫では兵隊さんから反物や毛布などを預かっていました。
そうしたこともあってか、食べることには困らなかったようです。
廿日市(はつかいち)には1年足らず滞在し、その後、牛田に引っ越しました。
牛田のお寺の幼稚園へ通いましたが、そこには広島大学の教授の娘といったすごい人たちがいて、みんないい服を着ていました。
父は木炭関係の燃料組合に勤務しており、母、長女である私、終戦の翌年の昭和21年6月に生まれた妹、そして昭和24年4月に生まれた弟の5人で暮らしていました。妹は「私は原爆じゃない」つまり胎内被爆もない、と威張っていましたが、後に、私のことを医療費が無料だからと羨ましがっていました。
また、母方の伯父は、宇品の方で、月星練炭という会社を営んでおりました。
●牛田から十日市へ
昭和24年5月に、十日市にある、傘屋さんがあった土地と家屋を所有者から買って、移り住むことになりました。
そこにはまだ傘がたくさん置かれたまま残されていたことを覚えています。
私は、小学校1年生の運動会が済むまで、十日市から牛田小学校に通っていました。牛田小学校から転校した本川小学校は、鉄筋造りだったと記憶しています。
また、当時本川小学校は三部授業で、広瀬小学校と中島小学校の児童が日替わりで通っていました。
翌年の2年生からは、本川小学校の児童だけとなりました。
当時の2年生の担任は、20~30歳位だったと思いますが、尾﨑(おざき)先生でした。先生には、首や腕のやけどの痕があり、厳しい方でした。先生は亡くなられたようです。
私は、本川小学校から比治山中学校・高等学校へ進み短大は大阪へ進学しました。比治山時代、お父さんが中尉や大尉で、南方で戦死された方が多かったです。
在学中、生徒同士はお互い被爆したことを隠していたので、原爆の後遺症についてはわかりません。
●被爆者健康手帳
私は父母から原爆の話を聞いていません。お嫁に行く年頃には、隠して隠して、あなたは里の廿日市にいたから、被爆者ではないと言われていました。結婚に差し障るという暗黙の了解でした。そのため、原爆のことについては私の娘たちのほうがよく聞いているようです。
父母が取得してずいぶん経った後、昭和41年7月、23歳の年に私は被爆者健康手帳を取りました。
●結婚
私は昭和42年11月に結婚をしました。
夫は疎開した先で、屋外看板関係の仕事をしていました。
私は、ライオンズクラブの事務局に勤めていました。
姑と夫は被爆者健康手帳を持っていました。舅は軍医で、復員した後、病院を開業していました。夫はよく食べていたこともあってか、糖尿病を患い、65歳で亡くなりました。
私の父は88歳、母は101歳まで生きました。
●現在
私には2人の娘がおり、3人の孫と1人の曾孫にも恵まれました。
私は4,5年位前から「甲状腺機能亢進症」を患っているため、メルカゾールの効きが悪く、ヨードを2、3年間くらい飲みましたが、その後、アイソトープ検査をし、今はチラージンを服用しています。
現在、私は高齢者用の施設で日々生活を送っています。
既にビルにしている十日市の家屋は弟が相続しているので、実家となった井口のマンションへ、子どもに会いに時々帰るのが楽しみのひとつです。
●若者へのメッセージ
私たちのような高齢者がどんどん増えてくると、介護保険など若者への負担がより重くなって大変だろうと思います。
当時、戦争をしていた日本を含めたどの国も、現在世界で起こっている戦争と同様に、原因と責任があると思っています。
私たちの世代は、戦後になり、核は原子力発電など平和利用がされるものと、ずっと思い込んで育っていました。
核は兵器として使ってはいけません。
また、どこかの国が再び核兵器を使うとは思っていません。使うと言っても、それは脅しだと思っています。使えば地球は滅びると思います。
とはいえ、戦争をすれば誰かが儲かり、格差ができる。諦めの気持ちもあります。
後遺症の残る爆弾はいけません。
若者には、これから元気で頑張ってもらいたいと思います。
●最後に
私の名前は、初孫ということもあってか、廿日市の祖父母が話し合って名付けられました。当初、祖母は「勝子」と名付けたかったようです。そういった時代でした。
しかし、祖父は平和にならなければとの思いからか「和子」が良かったようです。
私は「和子」と名付けられました。 |