●被爆(ひばく)前の生活
私、岡部ひさ枝(おかべひさえ)は被爆当時20歳でした。三人きょうだいの長女で、2歳下と6歳下の弟がいました。父、大野若範(おおのわかのり)と母、筆代(ふでよ)旧姓:繁𠮷(しげよし)は山口県周防大島の出身で、駆け落ちして広島市鶴見町の長屋で暮らしていました。父は大工でしたが、生活はとても貧しく、私は女学校への進学を諦め、国立の広島高等師範附属小学校の高等科に進みました(女子教育のため実験的に10名採用するというときで、運よく学費免除で合格できました)。そこを出れば女学校を卒業するのと同じぐらいの価値があると父に勧められたからです。卒業後は、先生の紹介で受けた広島貯金支局に就職し、千田町一丁目の職場で伝票を原簿に写したり、原簿に月々の利子を記帳したりする仕事をしていました。勤務は日勤と夜勤の交代制でした。お給料はほとんど親に渡していました。でも、当時新天地にあった劇場で若い頃の長谷川一夫(はせがわかずお)さんのお芝居を見に行ったことは覚えています。
原爆投下の1週間前、鶴見町の長屋が建物疎開の対象になり、比治山の東側の段原末広町に引(ひ)っ越(こ)しました。長屋のあった場所は現在、平和大通りになっています。建物疎開で作った防火帯が、戦後は道路になったのです。
●昭和20年8月6日
同僚の岸菜(きしな)さんから「友だちの宮田(みやた)さんが夜勤なので交代してほしい」と頼まれ、私はその日、本来は夜勤だったところを朝から貯金支局に出勤していました。上司が異動するというので8時前に出勤しました。慌(あわ)ただしい雰(ふん)囲(い)気(き)の中、そろそろ仕事に取りかかろうかと、数名の同僚(どうりょう)と階段の上にあった原簿庫(げんぼこ)に行き、原簿(げんぼ)を持って出ようとした瞬間(しゅんかん)、原爆(げんばく)が落とされたのです。
ピカッと真っ白な光に包まれ、とっさに耳と目をふさいで床に伏せました。爆弾が落とされたらそうするよう、日ごろから訓練を受けていたのです。すぐに爆風が来て、轟音とともに窓ガラスが砕けました。あたりが静かになったので立ち上がってみると、私の前にいた同僚の左腕がちぎれかけ、皮一枚でぶら下がっていました。「重いから取って」と何度も頼まれましたが、怖くてできませんでした。私自身も全身にガラスの破片を浴び、右のこめかみと足首は大きなガラスが刺さってケガをしていました。こめかみは、もう一つ目ができたくらいの大きな傷でした。貯金支局は、鉄筋コンクリートの頑丈な建物だったので崩れはしませんでしたが、窓ガラスは砕け、爆風が吹き荒れたため、中はひどい有様でした。窓際の席の係長が倒れていて、その喉に大きなガラスが刺さっていました。私の席も窓際でしたから、そこに座って仕事をしていたら私の命もなかったと思います。
1階に下りると、職場に3歳ぐらいの娘を連れて来ていた清掃員のおばさんが呆然と立っていました。抱かれている子どもを見るとモコモコと腸が飛び出しています。どうすることもできず、かわいそうに思いました。
水道から水が出たので、顔や血を洗い、昭和町に住んでいた友だちの滝口(たきぐち)さんと一緒に逃げました。逃げる途中で、木造の家屋が2階に人を残したまま目の前で崩れ落ちるのを見ましたが、もちろん助けることはできませんでした。黒っぽい服が焼け落ち、ベルトだけを残して裸同然の人もいました。けれど、爆心から1.6キロメートルで被爆したのに服も靴も履いていたから、「どこにおっちゃったんですか」と多くの人に不思議がられました。
市の中心部を通って段原の自宅に帰ろうとしましたが、警官らしき人に「ここから向こうは燃えてるから駄目だ」と止められ、私達は仕方なく南側の御幸橋を渡りました。御幸橋を渡ったのは午前10時頃だったと思います。滝口さんは昭和町に帰るためそこで別れ、私は燃えていない宇品の方を回って帰りました。引っ越して1週間ぐらいしか経っていない上に、回り道をしたため道順がわからず、人に聞きながら昼頃にやっと帰ることができました。
帰宅後、髪の中に残ったガラスを手にケガをしながら落としました。傷だらけの私の顔を見た近所のおばさんに、歌舞伎「切られ与三郎」に例えて「38か所の刀傷だね」と言われました。
●家族の被爆状況(ひばくじょうきょう)
自宅に帰ると、母がいました。母は爆発の瞬間に庭の池に飛び込み、足にケガをしていましたが無事でした。父は仕事で廿日市の方にいましたが、無事に戻ってきました。広島駅の裏の鉄道局に動員されていた上の弟の徳夫(のりお)も、山陽中学の生徒で宇品に動員されていた下の弟の信雄(のぶお)も無事で、夕方までに帰宅しました。家族全員が無事だったなんて、運が良かったと思います。自宅も、被爆直前に引っ越したおかげで焼けずに済みました。
●終戦
原爆が落とされても、日本が戦争に負けるとは思っていませんでした。日本は神の国だから、今は負けていてもいずれは勝つと信じていました。けれど、8月15日に戦争が終わった時は、やっと空襲がなくなり楽になると思いました。空襲の警戒警報が鳴って、黒いものが上を飛んだりすると眠れないし、怖かったです。爆撃機が上空を通過する時のブンブンという音は、未だに忘れられません。
終戦後、進駐軍が来るから若い女性は田舎に避難するようにと言われ、しばらく周防大島で過ごしました。傷が化膿してなかなか良くならず、熱が出たり下痢(げり)をしたりしました。1か月ほどで次第に良くなると早く家に帰りたくなり、広島に戻りました。久しぶりに出勤すると「何をしていたんだ」と怒られました。原爆投下から1か月以上経っても、比治山を越えると広島市内は嫌な臭いがしました。人が死んでいたり、死体をまたいで行くこともありました。広島赤十字病院の前には、遺体が山のように積まれていました。
私と夜勤を交代した岸菜さんは、天満町に住んでいましたが、帰宅途中で原爆に遭い、亡くなりました。勤務を交代したために、私は死を免(まぬが)れたと言ってもいいでしょう。亡くなった岸菜さんの写真は今でも持っています。
後年になって、被爆時に腕がちぎれかけていた同僚について書かれた新聞記事を読み、あのとき私の前にいた彼女が生きていたことを知りました。
●戦後の生活
当時は食べ物がなく、米がお椀の中に数粒浮かんでいるだけのようなお粥しか食べられませんでした。周防大島の親戚が芋をたくさん送ってくれるのを、米の代わりに食べていました。芋を送ったとの知らせを受けると、自宅から10キロ以上離れた廿日市の港まで取りに行かなければなりません。ある時、闇市に長くい過ぎて最終電車を逃してしまい、芋を両手に下げて歩いて帰る羽目になりました。とても重くて、「良いものを持っていますね」と声をかけてきた人に全部あげたこともありました。芋ばかり食べていたので、今でも芋は嫌いです。
終戦から2年後の昭和22年(1947年)に、近所の人の紹介で知り合った夫と結婚しました。夫の岡部喜八郎(おかべきはちろう)は、軍属の技術者としてパラオに出征していて、昭和21年春に帰国しました。食糧事情が悪く、あと3ヶ月戦争が続いていたら餓死していただろうと話していました。夫は被爆はしていませんが、白島線の電車通りの東側に住んでいた義母は被爆しています。だからでしょうか、結婚には反対されませんでした。
岡部の家は原爆で焼けましたが、親戚に大工がいたため、周りにバラックしかない中、本建築の家に住んでいました。それでも、昭和23年(1948年)に私が長男を産んだ時には、畳も天井もありませんでした。
私は義母が戦時中からしていた㋖(マルキ)食堂を手伝っていました。夫は、岡田理器(おかだりき)という、義母の知り合いが経営している美容材料の卸売会社に勤め、昭和26年(1951年)に独立しました。起業して10年後に仕事が軌道に乗ってきたので、食堂はやめました。
●父の死
原爆が落とされた翌日、父は隣人の小早川(こばやかわ)さんと一緒に、本通りの勤務先の銀行から帰らない小早川さんの娘さんを探しに出かけ、亡くなっていた娘さんを連れて帰って来ました。父も小早川さんも直接被爆はしていませんが、二人ともガンで亡くなりました。被爆の14年後に父が亡くなった時、解剖させてほしいと医師に言われましたが断りました。火葬場で遺体を焼くと、胸のあたりに塊が燃え残っていました。それを見た焼き場の方に「この方は原爆に遭っていますね」と言われました。
娘の節子(せつこ)はとても小柄で、身長が1メートル38センチしかありません。結婚して今も元気ですが、娘の身長が低いのは原爆のせいではないかと、思い悩んだこともあります。
●平和への思い
もし、私の家が建物疎開で比治山の陰に引っ越していなければ、もし、岸菜さんと夜勤を交代していなければ、もし、原簿庫に原簿を取りに行っていなければ、被爆後に田舎で静養していなければ、私は今ここにいなかったかもしれません。小さな偶然が積み重なって、私は生き残ることができたのです。
もっと悲惨な目に遭った人に比べれば、どうってことはありませんが、私の体験が誰かのお役に立つのなら、と思っています。
戦後に生まれた長男の喜久雄(きくお)は、幟町の戸別地図を作ったり、幟町小学校の平和資料室アドバイザーを務めたり、家族伝承者として私の体験を語ってくれています。平和への思いは息子に託し、息子の活動をこれからも応援していきたいです。 |