父・木原和行が2022年2月に他界しまして昨年の夏、父のパソコンのフォルダやファイルを確認整理していると5枚の絵がデータファイルとして見つかりました。おそらく自分で描いてスキャナーで取ったのではないかと思われます。紙に描いたであろう絵は現在も見付けていません。
私は幼いころから祖母(サカへ)からは「原爆」当時の話はよく聞いていました。被爆当時父の家族は広島市の昭和町に住んでいました。祖父(佳太郎)の仕事の都合で黒瀬町を離れていました。
祖父・伯母(千寿枝)・叔父(恭三)・父(和行)の4人は8月6日の朝を迎え、それぞれの職場や学徒動員の先で被爆をしました。祖母と末の弟は学童疎開で実家の黒瀬に返ってきており被爆の難を免れました。
被爆した祖父は爆心地近くだったようで骨折などの痛手を負い、他の3人は被爆後に自宅を確認したり互いを探し歩いたりしたそうです。翌日には祖母も黒瀬から広島に向かい家族を探し歩いたそうです。その時に見聞きしたいろいろについて、祖母は孫である私によく話して聞かせてくれました。父(和行)は私や弟には被爆後に見聞きしたことは全く…ほとんど話すことはありませんでした。
私も成人し結婚をして、黒瀬町の家で両親と同居する中、子どもが3名成長していきました。
私の子(和行の孫)が町内の小学校・中学校に通う中、和行は縁をいただき黒瀬町教育委員長のお役を受けることになりました。
孫たちの学校にも出入りをする中、いつの頃からか小学校や中学で自分の被爆体験を伝え話すようになっていました。
私たち息子には話すことのなかった原爆の事などをパソコンで資料を作り、パワーポイントにまとめるなどして語ることをしていました。
その頃、自分が18歳の8月に市内で見たことを絵に描いたようです。
この絵に関して私は何も聞いたことがありません。娘や息子たちも記憶にはないようです。
令和7年4月21日 木原 正裕 (木原和行長男) |